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ニール・ヘフティ ② カウン・トベイシー ニール・ヘフティー 「リル・ダーリン」 Count Basie Neal Hefti "Li'l Darlin'"

 
  カウント・ベイシー楽団は1958年に、ニール・ヘフティーのアレンジで「Atomic Mr Basie」と「Basie Plays Hefti」の2枚のアルバムを録音します。2枚ともに、ニール・ヘフティーの都会的なサウンドが活かされた、モダン・ビッグ・バンドの秀作と言えます。
 「Atomic Mr.Basie」には、ニール・ヘフティーの代表作の"Li'l Darlin'"が収録され、ニール・ヘフティーのソフティケートされたアレンジと、カウント・ベイシーの心地よくスウィングするサウンドが一体となった名演になっています。
 
 
 
 
 
 ニール・ヘフティーは”Li'l Darlin'"を、アルバム「Hefti Sounnds」(1958年)、「Jazz Popps」(Represe 1962年)、「li'l Darlin'」(20th Fox 1964年)で3回録音しています。
 1958年版はコーラスを加えたアレンジ、1962年版はカウント・ベイシーのビッグ・バンド・サウンドをさらにソフトにしたアレンジです。
 UPした1964年の録音は、チェンバロとストリングスを使った、映画音楽のような瀟洒なサウンドになっています。   (Kann dorao)
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ニール・ヘフティー ① 「クリフォー・ドブラウン”ポートレイト・オフ・ジェニー”」 「カウント・ベイシー”ニールズ・ディール”」

 
 
 ニールヘ・フティ-は1922年生まれのアメリカの作曲家・アレンジャー・トランペッターです。最も有名なのはテレビ・映画で大人気となった、「バットマン」の作曲者としてでしょう。
 1940年代初めからチャーリー・バーネット楽団などで演奏とアレンジをしていましたが、1942年にニューヨークでディジー・ガレスピーの演奏を聴き、新しいジャズ”ビバップ”に目覚めます。1944年にトランペッターとしてウッディー・ハーマン楽団に参加し、多くの曲のアレンジをしました。当時ウッディー・ハーマン楽団は、ビバップやクール・サウンドを取り入れた最も先鋭的なビッグバンドでした。
 1946年にウッディー・ハーマン楽団を辞め、ハリー・ジェイムスムス、チャーリー・パーカーなどのミュージシャンの編曲や作曲をします。
 カウント・ベイシー楽団へのアレンジは1950年の"Niel's Deal"から始まりました。その後、カウント・ベイシー楽団はニール・ヘフティーのアレンジで1950年代に多くの曲を録音、アルバムは「Atomic Basie」(1958年)「Basie Plays Hefti」(1958年)がリリースされました。
 UPしたのはニール・ヘフティーがアレンジをした「クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス」(1955年)から”ポートレイト・オブ・ジェニー”です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ニール・ヘフティーのアレンジの、カウント・ベイシー・オクテット"Niel's Deal"です。モダン系とスウィング系のミュージシャが共演した、猛烈にスウィングする名演です。
 1940年代後半はビッグバンドブームが終わり、カウント・ベイシーは自身の楽団を解散させ、モダン派のミュージシャンらと共にビバップに近づいた演奏していました。。 
 1950年代以降「ハードバップ」「モダンジャズ」と、ジャズが形式的になる以前の、スウィングとビバップが渾然一体になった「1940~1950年代前半のJAZZ」は、この演奏のようにスリリングで魅力にあふれているものが多くあります。   (Kann Dorao)
    
 クラーク・テリー(tp)、バディー・デフランコ(cl)、チャーリー・ラウズ(ts),サージ・チャロフ(bs)、カウント・ベイシー(p)、フレディー・グリーン(g)、ジミー・ルイス(b)、バディー・リッチ(ds)。
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ペギーリー ⑤ 「ハート」「君住む街角で」  Peggy Lee "Heart""on the Street Where You Live"

 
 
 ペギー・リーは1960年に、スタンダード・ナンバーやミュージカルの曲をラテンのアレンジで歌うアルバム『Latin ala Lee』をリリースしました。
 ペギーリーのソフトで軽くスウィングするヴォーカルはラテン・ナンバーにぴったりで、ジャック・マーシャルのアレンジも都会的で洒落ていて、ペギーリーのヴォーカルの魅力に花をそえています。
 このアルバムの成功で、続編のアルバム「Ola alaLee 」をリリースしますが、「Latin ala Lee」と同じく、スウィングする楽しさにあふれた好盤でした。
 UPしたのは「Latin ala Lee"から"Heart"です。
 
 
 
 
 
 
 ミュージカル「マイ・フェアー・レディー」から”君住む街角”です。ラテンのアレンジでもいいですね。   (Kann Dorao)
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韓国ドラマ 「19歳の純情」 (2006年 KBS)

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韓国ドラマ「19歳の純情」は今のドラマが失ってしまったすべてのもの、韓国ドラマ全盛時代の面白さに溢れたドラマです。ストーリー全体が御伽噺のようで、全体が温かさに包まれています。脚本、演出、配役が優れていて、観ていて幸せを感じる韓国ホームドラマの傑作と言える作品だと思います。イメージ 2
 
 
 
 
 
「19の純情」は日本ではKBSWORLDで、2007年6月から週5回放送されましたイメージ 3。明るく楽しいコメディタッチのこのドラマ、次回が楽しみで、明日が来るのが待ち遠しかったのをおぼえています。
 何と言っても主役のク・ヘソンが可愛くて声も優しく、中国延辺訛りのあるセリフ回しも演技も面白くて、嫌味が一つもない。新人としては最高の主演女優でした。「君に出会ってから」のチェ・ジンシルに次ぐ女優だと思います。
 
 イメージ 4ク・ヘソン扮するヤン・グッカは真面目で逞しく、逆境にもまけない朝鮮族の女性。故郷を思うセンチメンタルな淋しさ、恋する女の子の切なさも持ち合わせています。忘れられないのはボールに作ったビビンバを、口いっぱいほうばったグッカさんです。
 
 
              
 イメージ 5「19歳の純情」 2006年 KBS 167話
 
 演出 チョン・ソンヒョ ファン・イニョク
 脚本 ク・ヒョンスク
 主演 ク・ヘソン イ・ミヌ ソ・ジソク イ・ユンジ シン・グ イ・ヘスク カン・ソグ
 
イメージ 6詳しくはこちら「19の純情」 http://blog.livedoor.jp/creampan20051/archives/380167.html
 
 中国の延辺からお嫁に来た朝鮮族のク・ヘソン。韓国につくと結婚相手のソン・ジョンボムはすでに亡くなっていて、甥のイ・ミヌが迎えにきます。
 
 
後で切ない恋愛を展開するソ・ジソク(甥のイミ・ヌの親友)と、お通夜の席で揉めてしまう初めての出会いがあります。しばらくイ・ミヌの家庭に同居しますがイメージ 7、郷里の中国にも戻れず、一人立ちをするために居候の家を出て、持ち前の明るさと楽天的な性格で、逞しく韓国生活を始めます。ゆで卵売り・清掃・サウナの仕事など何でもしますが、失敗の連続。それでもへこたれずに頑張るク・ヘソン
 
 
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 優しい性格のイ・ミヌはあれこれク・ヘソンの世話をし、彼女に恋をします。しかしク・ヘソンにとってイ・ミヌは結婚するはずだった人の甥で、家族の反対もありイ・ミヌは失恋してしまいます。
 財閥の御曹司ソ・ジソクは失恋したばかりの潔癖症の男で、行く先々でク・ヘソンと出会い、けんかになっててしまうのですが、だんだん興味が好意に変わり二人は身分違いの恋愛をします。イメージ 9
 ソ・ジソクの妹イ・ユンジは鼻持ちならないお金持ちの娘ですが、父の会社で働くエリート社員のイ・ミヌに興味を持ち、だんだんんと好きになって行きます。
 
 イ・ミヌの実家のホン家は祖父のシン・グが仕立て屋、父のカン・ナムギルが駅長,母キム・ミギョン、叔父カン・ソグ、妹チョ・ジョンニンイメージ 10で、ソウルの郊外でのんびり暮らしています。自称”風の息子プング”の叔父は売れない歌手で、歌謡教室の先生をしています。そこの生徒にわけありのイ・ヘスクがいます。
 シン・グとカン・ソグの親子はイ・ヘスクをめぐる三角関係になり、シン・グは娘のような歳のイヘスクと結婚してしまいます。そのためにイ・ヘスクとキム・ミギョンは同級生なのに嫁姑になってしまいます。
 
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 ソジソクの実家、財閥のパク家は父のハンジニ、母で料理研究家のユン・ヨジョン、長女のユン・ヨソンとアン・ジョンフン夫婦。 
 カン・ソグ(プング)のファンクラブ会長の花屋のチョン・ミリョン、仕立て屋で働くイ・ハヌイなどなど芸達者な俳優陣で、飽きずに最後まで楽しく観たドラマでした。
 2007年上半期最高視聴率43.2%をマークした「19歳の純情」。イメージ 19このドラマの面白さは暗さがなく痛快で、ほんわか温かい人たちの中で意地悪はあるものの、健気な主人公が頑張るという、昔から変わらない定番のドラマ作りのためでしょう。
 悪意と狂気、刺激と競争、視聴率をとるためのわざとらしい笑いがなく、自然に展開するストーリー。影がなく、前向きの明るい主人公。さらにタレ
 
 
ントやアイドル歌手を主人公にするのではなく、イメージ 12主役から脇役まで演技の上手い俳優で固めたからこそ、「19歳の純情」は面白い作品になったのだと思います。
 
 採点(10点満点中8・5点)
 
 
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 「19歳の純情」のオープニングタイトルです。多少画像が良くないのですが、明るくて楽しいドラマの雰囲気がそのまま伝わってきます。
 
 
 
 2007年KBSTV「ユン・ドヒョンのラブレター」に出演したク・ヘソン。素敵なアレンジで始まった「19歳の純情」テーマ曲”愛の歌”を、ものすごく緊張して歌いました。音程もはずれて、胸のドキドキが聴こえるようです。
 歌が終わってク・ヘソンは「歌手を目指していたけれど事務所の社長に歌が下手だから、歌手は無理だと言われた」と話していました。
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キム・ミンギ 「峰」

 
 
 
 韓国ドラマ「カイスト」(SBS1999年)の49話で、一番感動的なシーンで流れていた歌と語り。誰なのかわかりませんでしたが、7年経ってやっとキム・ミンギの「峰」だと言う事がわかりました。
 低くて穏やかな声。この作品「峰」は、峰を人生に例えて”人生はそれでも続くのだ”と、”目指す高い峰は上っても上っても果てしなく高い所にあり、高い峰を目指しながら、今歩いているこの道をしっかりと見ながら歩き続けるだけだ”と。
 
 キム・ミンギは1951年生まれ。1971年のデビューアルバム『キム・ミンギ』はすぐに発売禁止されました。 1987年(1993年?)に復刻版で再発されました。「朝露」「秋の手紙」「峰」 「小さな池」 「金冠のキリスト」 「忘れてしまった言葉」 「常緑樹」 「旗印村」「工場の明り」などがあります。
 キムミンギは権力を批判するために曲を書いたわけではなく、陽のあたらないところや、そのままに見える現実を詩に書き、曲にしただけだそうです。しかし、1970,80年代の変革の大きなうねりの中、大衆の求める歌、大衆を慰める歌として、キム・ミンギ個人の作品を越えて大衆の歌になったのだと思います。
 歌の持つ力はとてつもなく大きく、時の政府はそれを一番良く知っています。そして怖れています。大衆を動かす力のある歌を発売禁止や放送禁止にしても、心に灯った歌を消す事はできないのです。
 
   「峰」
 人々はこぞって指をさす ひときわ高く聳え立つ峰だけを
 僕が登った小さな峰の話をしよう
 峰
 今はこんもりとした丘にすぎないが あのとき僕は
 もっと大きな山があるとは思わなかった
 僕にはその丘がすべてだった
 独りだった
 自分の知っている一番高い峰を目指して登っていた
 高く登り過ぎたかな 離れすぎたかもしれない
 あと少しだ
 すべてを忘れて峰まで登ってみよう
 峰に立ち叫びながら 手を振ってみよう
 つらくても我慢しよう
 もうすぐ一番高い峰で ゆっくり休めるから
 
♪しかし僕が登ったのは ただの丘にすぎなかった
 道は果てしなく より高いほかの峰に続いている
 切り株の上に座って 僕は眺めていた
 低い方へと流れて 海になる川を
 海 小さな船が煙を噴き出しながら行き♪
 
 ほら
 峰の先に登っても後ろを向いて叫んだり 手をふる必要もなく
 僕は風になびく裾野を ここでもはっきりと知る事ができる
 またそれでもわけもなく淋しがりながら 座り込んで
 汗を拭かなくても 通り過ぎる風がさましてくれるだろう
 もしも痛みのようなものがかすかに襲ってくるときは
 その時は海を思って 海 
 峰というのは ただ移る峠の重なりであるだけだと
 
♪友よ聞いてくれ 僕たちが登る峰は
 他でもない ここかもしれない
 僕たちが汗を流しながら歩いている
 森の中の狭いこの道
 高い所には峰なんてないかもしれない
 そうだよ 友よ
 僕たちが登る峰は ここかもしれない
 僕たちが登る峰は ウ~ウ~
 
 
 
 
 
 
 
 
 SBS「カイスト」49話ラストより
 
 
 韓国ドラマから実に多くの事を学びました。この画像はドラマ「カイスト」(SBS1999年)のなかでも、1番のハイライトシーンで胸を打つシーンでした。
 小さい頃から素直で優しく賢いので、誰にでも好かれるミンジェ(イ・ミヌ)。高校、大学(カイスト)共に成績優秀。将来はロボットの科学者として順風満帆なはずが、先輩のために、大学院の試験を受けられず、留年してしまいます。
 カイストは留年生には特に厳しく、免除されていた学費も払わされ、食費手当ても出ない。寮もくじびきではずれ、出ていかなくてはならない。さらに、研究グループからもはずされ、人生で始めての挫折を味わいます。
 友人、先輩、後輩の同情がミンジェを苦しめ、休学すると言い、荷造りを始めます。 家に帰ろうとするミンジェに天才教授(アンジョンフン)が山登りを勧めます。誰よりもミンジェを心配している親友のジョンテ(キム・ジョンヒョン)も同行し、二人だけで山に登りお互いの本当の気持ちを語り合うのです。
 
  ミンジェ ”何で来たんだ”
 
 ジョンテ ”お前を殴りたくて来た。俺はやるだけやった。お前より先に研究グループをやめ休学すれば、お前は考えなおすと思ったのに。最低なヤツ。ビクともしない。俺は1年前に学校から逃げ出したとき、この場所に来たんだ。”
 
 ミンジェ ”そうか”
 
 ジョンテ ”死ぬほど淋しかった。そのせいでお前のことを思った。ミンジェがいれば二人で飲んでいたいな。そう思ったよ。俺にとってお前はベース・キャンプみたいだ。どこに行ってもおまえのいるところを目指せば、俺は戻れる。わかるか。だからしっかりしてくれ、お前は彷徨うな。俺のためにだ。”
 
 ミンジェ ”俺の問題がやっとわかった。俺はいつのころからか、人に見せるための自分を作ってしまった。適当に真面目で、賢そうに見せる、優等生の自分だ。”
 
 ジョンテ ”それは生まれつきだよ。”
 
 ミンジェ ”俺もそう思っていた。自分の人生で脱線はありえないと思っていた。だから、、、、 お前たちを見くびっていた。子供じみて思えた。お前は頭が良くても、生き方が自分勝手だ。ジウォン(イ・ウンジュ)やギョンジン(カン・ソンヨン)や他のヤツらもそうだ。みんな俺より何かが劣ってる。だから頂上に一番先に上るのはきっと俺だと。
 でも俺より10倍勇気があって、あきらめないヤツがいるんだ。俺はさ、自分がどう見えるかそればかり気にしてたけどそいつは逆だ。人のためなら自分はどう見えてもかまわない。俺は恥ずかしくなったよ。
 行こう。この道だよな”
 
 ジョンテ ”ミンジェ、彷徨うな。俺を見くびってもいい。もう少しベースキャンプになっていてくれ。”
 
 歩いていくミンジェのバックに「峰」が流れる。5’20”位から、キムミンギの歌が流れます。
 
 
 
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筒美京平コレクション6 仮面舞踏会 1985~1986

 
 
 
  1970年~1990年頃が筒美京平の絶頂期でした。素晴らしい曲を何百、いや何千と作ったのは脅威としか思えません。まさに神の手でしょう。時代はフォーク、ニューミュージックとシンガーソングライターが台頭してきたのに、それでもプロの職業作曲家として良質の音楽を提供しました。
 1990年代以降は小室哲也などが大衆を魅了するようになってきました。小室以降のメロディラインは、筒美京平の自然な人間の感性に合ったのとは違う、何か不自然なメロディなのです。でもその不自然な曲が安室、グローブなどの新しいアイドルの曲となり、歌謡曲が変わってしまったと思います。
 さらにおニャン子、モーニング娘、AKBと「集団アイドル」の時代がやってきて、プロデュースの形が変わり、歌手の個性は希薄になってしまいました。暮れになり、今年一年のヒットした曲はと考えても、何もメロディーが浮かびません。
 演歌とジャニーズとAKBだけになってしまったので、アイドルを求める人や歌を求める人が、洗練されたK-POPのダンスミュージックに夢中になったり、1990年代の韓国音楽に興味が移るのも当たり前なのかもしれません。
 一時代を作った文化が衰退を繰り返すのは歴史の必然でしょう。アメリカを見ればわかります。日本の1960年代から1980年代後半の頃までは音楽、ドラマ、映画と質の高い大衆文化だったのだなと思います。
 筒美京平コレクションをあらためて見直してしまいます。手法、音楽性は超一流なのにヒット曲という枠だけで見られてしまいがち。しかしそれぞれのヒット曲は大衆のための最高の音楽で、「筒美京平の歌謡曲」として文化の歴史に永遠に燦然と輝くことでしょう。
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シム スボン 「ムクゲ」

 

大きな愛を歌うシム・スボン。ムクゲの花は韓国の国花です。夏から秋まで咲いて、散っては咲き、また散っては咲く生命力の強さは、韓国の歴史と人々の性格に例えられています。
 
   「ムクゲ」イメージ 1
 
  この身が死んで 一握りの土になっても 
  天よ見守っておくれ 我が子を守っておくれ
  時が流れ 我が子が成長し 
  祖国について聞いたなら
  強い花 明るく清らかなムクゲを見せて
  ムクゲの花が咲くのは この言葉を伝えるため
  我慢して勝利した 命を捨てて得た
  明日は光になる ムクゲの花が咲いたわ
 
  飛べない鳥よ 何を見たの 人間の栄華は儚い 
  とまらずに飛んで
  祖国のために 命を捨て 天で散ったあの魂よ
  体はたとえ埋められても 私のため涙を拭えない
  ムクゲの花が咲いたわ

イメージ 2

     この言葉を伝えるため
  あきらめてはいけない 涙なしでは咲くことができない
  意思があればできる 後はお願い
 
 この歌は1985年のシム・スボンの歌です。息子を思って作ったという”ムクゲ”。それ以上に日本の植民地時代の母たちの鎮魂歌ともいえるような歌です。
先日のKBSTV「歌謡舞台」で中国初唐の詩人、劉延芝(りゅうていし)の詩一小節が詠まれました。
 
 ”年々歳々花相似たり”  
 ”歳々年々人同じからず” 
 
 咲く花は毎年変わらずに咲くが 人は歳月により変わる
 
 人生というものは無情だが、その無情の中で、真実と永遠を探す事が人生ではないだろうか。
 
  
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ペギー・リー Peggy Lee ④ "Just in Time" "It's a Wonderful World" ”The Folks Live on the Hill"

      

 

 

   ペギー・リーは1957年にキャピトル・レコードに移籍し、1972年まで多くのレコードをリリースします。ネルソン・リドル、ジャック・マーシャルなどのアレンジャーにも恵まれ、ペギー・リーのヴォーカルもますます脂がのって、アルバムとして1957年から1960年代前半までが最高の時代だったと思います。
 1957年にネルソン・リドルの美しいストリングス・アレンジで、アルバム「The Man I Love」をリリースします。スィングする曲だけでなく、バラードを歌っても素晴らしいペギー・リー。
 1959年にはネルソン・リドルのアレンジで、アルバム「Jump for Joy」をリリースします。前作とは変わって、スィングするビッグバンドに乗って、ペギー・リーがいきいきと歌います。
 Upした画像は「Jump for Joy」から"Just in Time"です。
 
 
 
 
 
 1959年にジャック・マーシャルのアレンジでアルバム「Things Are Swingin'」をリリースしますが、これまた「Jump for Joy」に優るともおとらない、スィングする楽しい傑作アルバムです。UPしたのは"It's Wonderful World"です。
 
 
 
 
  
 
  
 1957年の美しいバラード・アルバム「The Man I Love」から"The Folks live on the Hill"です。   (Kann Dorao)
 
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キム・ヒジン 「永遠の私の愛」「僕たちの物語」「たき火」

 

 

 ”永遠の私の愛”は「キム・ヒジン2集」の中の曲です。
 フォーク界のIU(アイユー)と呼ぶばれているキム・ヒジン。38歳なので”大きいIU(オルンユー)”というニックネームをコメディアンにつけてもらったということです。
 いつまでも変わらない美しくて暖かい声に、顔もきれいで雰囲気もシンプルなキム・ヒジン。
 ギターを持って公演活動を続ける姿はいちファンとして、応援したい気持ちでいっぱいです。いろいろな場所で歌うので、ワイワイガヤガヤと意にそぐわないこともあるでしょうが、それでもギターを鳴らし淡々と歌う姿はフォークの伝道師のようでもあります。
 ハングルで検索すると、キム・ヒジンは混声デュオ「ラナエロスポ」の最後の女性メンバーだそうです。1971年初代「ラナエロスポ」の女性メンバーキム・ウニが"愛してる”をレコーディングして後、発売してすぐに脱退して以降、リーダーのハン・ミンはメンバーを変えながらも「ラナエロスポ」を続けていたのですね。「ラナエロスポから独立したウニ(キム・ウニ)がソロになって、初めてリリースした”花の指輪をはめて”をキム・ヒジンが持ち歌にしている理由がわかったような気がします。 
 
 「永遠の私の愛」
 
 葦の葉の先の水玉のように あなたの清い瞳
 いつも私だけを愛するその心に
 私は私は幸せです
 
 いつも愛でかばってくれる あなたの温かい心に
 私はいつも あなたに感謝しています
 
 *あなたは私の人生 永遠の私の愛
 いつもあなたと一緒に 永遠の私の愛*
 
 野に咲く可憐な花のように あなたのきれいな姿
 いつも私だけを信じてくれるその心に
 私は私は幸せです
 
 淋しい時悲しむ度に いつも野の花みたいなあなたよ
 あなたの根強いその心に
 私はいつも あなたに感謝します
 
 *~* *~*
 
 キム・ヒジンはKBSTV「歌謡舞台」の出演も多く、フォークをゆったりと歌う画像がいくつかありました。
 フォーク歌手ユン・ヒョンジュの”僕たちの物語”を”私たちの物語”として歌っています。
 

 

 

    「僕たちの物語」
 
 笑みを浮かべた大きな瞳 長い髪に静かな笑みが
 ライラックの香りが漂っていた日 校庭で僕たちは出会った
*夜空の星と同じくらい たくさんの僕たちの物語
 風のように去るとしても いつまでも僕は忘れない*
 
 雨が好きで雨の中を歩き 雪が好きで 雪道を歩いた
 ガランとした喫茶店で向かい合い 夜遅くまで落書きもした
*~*
 
 
 「歌謡舞台」でパク・インヒの”焚き火”を歌っている画像です。
 

 

      「焚き火」
 
 焚き火をたいて 向かい合った
 私たちのおしゃべりは 終わるところを知らない
 人生は煙とともに灰だけを残して 
 静かに去っていく
 焚き火の如く
 燃え続け 消える瞬間まで
 私たちのおしゃべりは終わらない
 
 
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ペギーリー Peggy Lee ② "Why Don't you Do Right"

          

 
 
  ペギー・リーは1943年にベニー・グッドマン楽団をやめ、ソロ歌手になり、1943年には”Why Don't You Do Right"が100万枚売れるヒットとなりました。1944年にはキャピトル・レコードと契約し、1951年までに120曲以上の録音をしますが、なかでも1948年の”マニャーナ”は年間売り上げ1位のレコードになりました。
 
 UPしたのは当時の映像ですが、楚々たる趣のあったベニーグッドマン楽団の頃とは違う、20台半ばと思えない姉御肌の貫禄です。ブルージーでスイング感たっぷりのヴォーカルで、バックの演奏もいかしています。ギターはペギーリーの夫だったデイヴバーバーです。     (Kann Dorao)              
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