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韓国フォークソング/ナムグン・オクブン&イ・ジョンソン「韓国フォークメドレー」「懐かしい故郷(スループ・ジョン・B)~焚き火~燈台守~綿雲~夏」  

 

 

 ナムグン・オクプン&イ・ジョンソンの韓国フォークメドレーが、一番シンプルな韓国フォークだと思います。当時の若者たちが、キャンプファイヤーを囲んで歌った歌たち。
 2008年KBSTV[コンサート7080」からです。動画が見つかってうれしいです。1970~80年代の雰囲気が伝わってきます。
 「懐かしい故郷(スループ・ジョン・B)~焚き火~燈台守~綿雲~夏」
 
 
 
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シェルブール特集 ①(KBS不朽の名曲)より

 KBS音楽番組「不朽の名曲」で1970年代の音楽鑑賞室(音楽喫茶)「シェルブール」特集が組まれました。1部と2部に分かれての放送になります。

 1部ではオニオンズの”愛の真実”,キム・セファ”涙で書いた手紙”、ナムグン・オクプン”愛、愛誰が言ったの”、クォン・テスとキムセファ”小さな恋人たち”、チェ・ソンス”めぐり逢い”、カン・スンモ“無情ブルース”が歌われました。

「シェルブール」はイ・ジョンファンが経営した音楽喫茶です。イ・ジョンファンは1960年代中盤からMBCラジオのプロデュサー&ディスクジョッキーとして韓国フォークの草創期に携わりました。新人歌手をスカウトしてアルバムを作るなどレコード製作にも関与し、外国曲を翻案して多くの曲に作詞をしました。
 イ・ジャンヒ、ソン・チャンシク、ユン・ヒョンジュ、キム・セファンなどセシボン(第一期音楽鑑賞室/音楽喫茶)の仲間たちは、イ・ジョンファン社団(グループ)と呼ばれた歌手でした。
 その後イ・ジョンファンは1973年ソウル明洞(ミョンドン)で音楽喫茶「シェルブール」を経営しました。シェルブールから多くの歌手がデビューしました
 
「不朽の名曲」には「シェルブール」出身歌手ナムグン・オクブン、キム・セファ、クォン・テスが出演し、シュエルブールの思い出を語りました。
 
 シン・ドンヨプ(司会)  ”「セシボン」が韓国フォーク第1世代だとしたら、「シェルブール」は第2世代ということになります”
 クォン・テス、カン・ウンチョル、チョン・ヨン、キム・セファ、チェ・ウノク、キム・ジョンホ、イ・テウォン、チェ・ソンスらがシェルブール出身の代表歌手です。イ・テウォンとフォークグループ「”シェグリン”を組んでいたパートナーのチョン・ウォンスはレコードを出すたび禁止曲になった。これでは駄目だということで米国に移ってしまいました”
 
 キム・セファ  ”「涙で書いた手紙」は30年以上歌っていますが、ベンの歌うこの曲を聴いて鳥肌が立ちました”
 
キム・セファ”「涙で書いた手紙」김세화 - '눈물로 쓴 편지' [KBS 콘서트7080
 
涙で書いた手紙
 
 涙で書いた手紙は読めません 涙は見ることができないから
 涙で書いた手紙は直せません 涙は消すことができないから
 涙で書いた手紙は送れません 涙はあまに早く乾いてしまうから
 涙で書いた手紙は捨てられません 涙は私の心と同じだから
 涙で書いた手紙は送れません 涙はあまに早く乾いてしまうから
 涙で書いた手紙は捨てられません 涙は私の心と同じだから涙は私の心と同じだから
 
 
 クォン・テス  ”「小さな恋人たち」はラジオの連続ドラマの主題歌でした。寝ている時に電話があり、キム・セファがこの曲を歌うのにハモってくれる人が必要だといわれたんです。その時駆けつけ楽譜を見てその場で録音しました。それが大ヒットしたんです”
 
クォン・テス、 キム・セファ ”小さな恋人たち” 권태수 X 김세화 - '작은 연인들' [콘서트7080, 2005]
 
 
   
ナムグン・オクブン”愛、愛、誰が言ったの” 남궁옥분 - 사랑사랑 누가 말했나
 
 ナムグン・オクプンはシェルブールを代表する女性フォーク歌手です。
 
 
 
 
オニオンズ”愛の真実” 어니언스 - '사랑의 진실' [콘서트7080, 2005]
 
 当時の若者たちが熱狂したオニオンズ
 
 
 
 
カン・スンモ”無情ブルース” 강승모 - '무정 블루스' [콘서트7080, 2006] | Kang 'Seung-mo'

 ギターのカン・スンモもシェルブール出身だったとは。カッコイイなギターソロ!

 

 

チェ・ソンス”めぐり逢い”해후 - 최성수

 ダンディなチェ・ソンスのめぐり逢い。良い歌だわ~、うっとり。

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シェルブール特集② (KBS不朽の名曲より)

キム・ジョンホの”名前も知らない少女” 이름모를 소녀 김정호

 

1部と2部に分けて放送されたKBSTV「不朽の名曲シェルブール特集」。韓国フォーク第2世代と呼ばれる音楽鑑賞室「シェルブール」からたくさんの歌手がデビューしました。      

シンガーソングライターのキム・ジョンホ、クォン・テス、カン・ウンチョル、チョン・ヨン、シン・ゲヘン、パク・ガンソンの歌を若い世代がアレンジを変えて競演しました。

2部の始めは男性歌手イム・テギョンが、シンガーソングライター、キム・ジョンホの”名前も知らない少女”を歌いました。ゲストのクォン・テスはキム・ジョンホについて「この曲の人気はすごかった。キム・ジョンホの声は聴いていると鳥肌が立つくらいすばらしかった」と語りました。

 

クォン・テスの”瞳で” 권태수 - '눈으로' [콘서트7080, 2005] | Kwon Tae-soo
 
 
 新人のキム・ジュナはクォン・テスの”瞳で”をバラードで歌いました。クォン・テスはこの曲のエピソードも語りました。「”瞳で”を歌う前スローテンポな”夕焼けの恋”を歌ったんだ。だけど当時のプロデューサーにテンポのいい曲の方がヒットすると言われた。当時はバスで移動していて、バスの中で鼻歌のように作ったのがこの曲なんだ」 
 
カン・ウンチョルの”三浦へ行く道”강은철 - '삼포로 가는 길' [콘서트7080, 2005]
 
 
 国楽のパク・エリ夫妻はカン・ウンチョルの”三浦へ行く道”を派手なパフォーマンスで披露しました。
 
  ”三浦へ行く道”
 
 風吹く野道の果てには 三浦へ行く道がある
 くねくねした山道を歩くと 1歩2歩ため息がでる
 *ああ浮雲が一つ 三浦へ行ったら 恋しい人の消息を知らせておくれ
 私も一緒に三浦へ行くと 愛も今では意味がない
 三浦へ行かなければ* 
 あの山頂で休もう 私の事情を伝えておくれ
 懐かしい故郷を離れて何年 愛しい人は知らせもない
 *~*
  
 ゲストのナムグン・オクプンは「1973年に始まって40年以上もの間、心に「シェルブール」があります。12組の出演者からアナログの情緒を感じられました。歌手という職業がどれほど幸せかを再認識しました」
 
 
”どの辺まで行ってるだろう” 열린음악회 - 어디쯤 가고 있을까 - 김희진
 
 
”どの辺まで行ってるだろう”は「シェルブール」から1977年にデビューした女性歌手チョン・ヨンの曲です。女性フォーク歌手キム・ヒジンの歌でUPします。
 不朽の名曲ではロック歌手のキム・パダがばっちりロックにアレンジして歌いました。
 ゲストのキム・セファはこのアレンジを聴いて「別の曲みたい。こんなに強烈な姿。私のシェルブールとの出会いは、芸人のソンチョルさんにシェルブールに行ってこいと言われて通りがかりに寄ったの。歌ってみなさいと言われ、翌日から働きました」
 
  ”どの辺まで行ってるだろう”
 
 花びらは風に散り 川の水に流される
 去って行った人は今ごろ どの辺まで行ってるだろう
 こんなにも簡単に行ってしまうとは 行ってしまうとは思わなかった
 何も言わずに見送るのはいやだった
 あのひとはあの人はどの辺までいってるだろう
 
 
 
シン・ゲヘンの”秋の恋”신계행- '가을 사랑'
 
 男性フォークデュオのユリサンジャはシン・ゲヘンの”秋の恋” を素敵なハーモニーでフォークの神髄を見せて優勝しました。
 
 
  
ユリサンジャはシン・ゲヘンの”秋の恋”불후의명곡 - 유리상자 ´가을 사랑´.20161001
 
 
  ユリサンジャについてナムグン・オクプンは、「とても近い後輩が、私がここ(ゲスト席)にいて彼らがステージにいると妙な気分になります。今日はたくさんのプレゼントを両手に抱えたような気分よ」
 ユリサンジャのパク・スンファはシェルブールで短期でアルバイトをしていたとのこと。「歌手ではなくホールのアルバイトでしたが、チェ・ソンスさんやピョン・ジンソプさんなど、先輩たちの歌を聴きながら歌手の夢を育てました」
 
 
 
パク・ガンソンの”ドアの外にいる君”박강성 문밖에있는그대
 
 男性アイドルグループ「ZE:A」のキム・ドンジュンはパク・ガンソンの”ドアの外にいる君”をシンプルかつ斬新にアレンジして披露しました。
 ナムグン・オクプンとユリサンジャは仲良し。「優勝のトロフィーを触らせて。念願だったのよ。優勝しました。これからも頑張ります。私」と茶目っ気たっぷりにトロフィーを抱きました。ナムグン・オクプンはユーモアたっぷりな純粋な人。かわいらしかったです。


 
 
 
 
 
 
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韓国フォーク記事一覧

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セシボン文化 「ユン・ヒョンジュの”セシボン、私たちの話”より」②  ドビド ”友” ヤン・ヒウ

 
 キム・ミンギ作”小さな池”ヤン・ヒウン
 これら音楽鑑賞室から1970年代の熱いフォーク文化の息吹を感じることができます。
 
 
 
イメージ 1
 
セシボン仲間 
下左ユン・ヒョンジュ、下右ヤン・ヒウン、真ん中左ソン・チャンシク、真ん中右キム・セファン,上左イ・ジャンヒ、上中央チョ・ドンジン、上右チョ・ヨンナム
 
 
 ユン・ヒョンジュ「セシボン、私たちの話」(朝鮮日報コラムより)
 
 1968年春の事だ。いつものようにソウル音楽鑑賞室 「セシボン」に座っていた。特に人が多い一日だった。200席余りの室内に 300人近い観客がいた。 椅子が足りなくて補助椅子をいっぱい置いた。 普段の時と違いセシボン入口には ”未成年者と高高生入場不可”の立て札が付いていた。その日のプログラムは前衛芸術が予定されていた。
 時間になると現代音楽家ジョン・ケージの音楽が流れた。女性一人が舞台に歩いて出た。ランニングシャツとタイツの身なりだった。頭には白いマフラーを巻いた。他の男たちが出てきて刀でランニングを裂いてタイツを脱がせた。パンティーとマフラーだけ残った。代わりに透明風船で身をくるんだ。この間女性は始終ほほ笑みを失わなかった。急に男たちがその女性の風船めがけて飛びかかった。全身の風船が割れた。上半身を完全に現わしたヌードの彼女だけが立っていた。室内は静かだった。観客たちは拍手することも忘れた。
 ミニスカートを着るだけで皆が眺める時代だった。当時一新聞社は ”奇妙で狂ったような事を繰り返す青年作家たちがした事”と報道した。さらに ”文化的テロリスト”とも言われた。前衛芸術家チョン・カンジャの ”透明風船とヌード”と言うパフォーマンスだった。チョン・カンジャは当時 25歳。”現場に取材にきた記者が ”脱いではいけない”と引き止めても、すべて脱ぐ覚悟で舞台に立った。30年近くたった1997年彼女は朝鮮日報に寄稿した文でこんな事を書いた。”30年前の音楽感想室 「セシボン」を思えば今も胸が震える。そこは今まで熱病に浮き立った人のように暮して来た私の芸術人生を生んだ母のような所だ”

 そうだ、「セシボン」は単純な音楽感想室ではなかった。ギター音楽の誕生の役目ばかりではなかった。私が憶える青年文化の最初集結所が「セシボン」だった.。金大中(キム・デジュン)前大統領、有名マンガ家、清凉里精神病院長、前国会副議長, 前将軍などが舞台に立って青年たちと討論した。詩人や文壇の巨匠たちが詩を朗唱して観客たちと対話を交わした。大学生が主役になることができる唯一の文化空間が「セシボン」だった。

 「セシボン」は 1953年ソウル明洞(ミョンドン)で初めてオープンした。最初主人が誰だったかは確かではない。その後イ・フンワンが引き受けて忠武路と小公洞を経て瑞麟洞に腰を据えた.。そこで今私たちが分かっている ”セシボン時代”を開くようになる。
 セシボンが大学生文化空間で位置づくようになったのは、オーナーのイ・フンワンの役目が大きかった。セシボンを運営する彼の哲学は確固だった。酒は絶対持ち込み禁止だった。酒に酔った人も、暴力を使う人も出入り禁止だった。たまに酒に酔った人が入場しようとする、乱動をしようとする人がいると、大男のイ・フンワンが ”かつぐか””お酒飲んだの?”と言えばそれで終わりになった。

 多様なプログラムも積極的に進めて他の音楽鑑賞室たちを圧倒した。明洞には芯喫茶店と皇室喫茶店, シボネが, 武橋洞にはヨン喫茶店が, 光化門近くにはアカデミー音楽鑑賞室と金蘭喫茶店が, 鐘路にはデ-スェネとルネサンス, アポロなどの音楽鑑賞室がお互いに競争した時代だった。この内セシボンぐらい、多くのプログラムを保有した所はなかった。
 セシボンはソン・チァンシクがデビューした舞台である ”大学生の夜”から ”星占””名詞招待席””三行詩文章大会”など多くのプログラムを進行した。”新曲合評会”も開かれた。アルバムを録音する前に観客反応を見る時間だった。既成の歌手らが、楽団やピアノ伴奏で歌を歌って評価を受けた。
 
 フォークデュオ「ツインフォリオ」の前はセシボントリオで活動した。1967年10月に結成しメンバーが軍に入隊し、1月に解散、長続きはしなかった。PDが二人でやればといい、ソン・チャンシクと二人で「ツインフォリオ」を結成。私たちは当時20歳、楽しかった。ラジオ番組は夜の11時に始まり、終ると12時が過ぎて”通行禁止”(当時は戒厳令がひかれていた)で家へ帰れずセシボンで寝た。私たちはクリフ・リチャード、ビージーズ、ハリー・ベラフォンテや、童謡や歌謡曲も歌った。”白いハンカチ”がヒットして歌謡曲のパティ・キム、イ・ミジャ、ナム・ジンらと一緒に出演もした。1968年冬はツインフォリオの絶頂期だった。
 セシボンに初めて足を踏み入れたのは1967年。多くの人に出会った。チョ・ヨンナム、イ・ジャンヒ、ヤン・ヒウン、キム・セファン、キム・ミンギ、ハン・テス、チョン・ユソン、ソ・ユソク、1960年代に始まったギター文化を一緒にわけた人々だ。その中でもソン・チャンシクは20代の一番長い時間を一緒に過ごした。1960年代1万ウォン持っていればそのお金は私のお金ではなく、私たちのお金だった。そんな心で歌も喜んで分けあった。
 
 
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セシボン文化 「ユン・ヒョンジュの”セシボン、私たちの話”より」②  ドビド ”友” ヤン・ヒウ

 
 
  ”チング”は1970年のフォーク・デュオ「ドビド」の歌です。「ドビド」はキム・ミンギがソウル大美大に入学して、友人キム・ヨンセと作ったフォークデュオです。1960年代終盤から音楽鑑賞室(ライブハウス)「セシボン」始め、いくつもの音楽鑑賞室ができました。ドビドはYWCAの集まり場、「雨蛙」のメンバーとして歌っていました。浪人中だったヤン・ヒウンはそこでキム・ミンギと出会いました。
 
 
 
 
 キム・ミンギ作”小さな池”ヤン・ヒウン
 これら音楽鑑賞室から1970年代の熱いフォーク文化の息吹を感じることができます。
 
 
 
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セシボン仲間 
下左ユン・ヒョンジュ、下右ヤン・ヒウン、真ん中左ソン・チャンシク、真ん中右キム・セファン,上左イ・ジャンヒ、上中央チョ・ドンジン、上右チョ・ヨンナム
 
 
 ユン・ヒョンジュ「セシボン、私たちの話」(朝鮮日報コラムより)
 
 1968年春の事だ。いつものようにソウル音楽鑑賞室 「セシボン」に座っていた。特に人が多い一日だった。200席余りの室内に 300人近い観客がいた。 椅子が足りなくて補助椅子をいっぱい置いた。 普段の時と違いセシボン入口には ”未成年者と高高生入場不可”の立て札が付いていた。その日のプログラムは前衛芸術が予定されていた。

 時間になると現代音楽家ジョン・ケージの音楽が流れた。女性一人が舞台に歩いて出た。ランニングシャツとタイツの身なりだった。頭には白いマフラーを巻いた。他の男たちが出てきて刀でランニングを裂いてタイツを脱がせた。パンティーとマフラーだけ残った。代わりに透明風船で身をくるんだ。この間女性は始終ほほ笑みを失わなかった。急に男たちがその女性の風船めがけて飛びかかった。全身の風船が割れた。上半身を完全に現わしたヌードの彼女だけが立っていた。室内は静かだった。観客たちは拍手することも忘れた。

 ミニスカートを着るだけで皆が眺める時代だった。当時一新聞社は ”奇妙で狂ったような事を繰り返す青年作家たちがした事”と報道した。さらに ”文化的テロリスト”とも言われた。前衛芸術家チョン・カンジャの ”透明風船とヌード”と言うパフォーマンスだった。チョン・カンジャは当時 25歳。”現場に取材にきた記者が ”脱いではいけない”と引き止めても、すべて脱ぐ覚悟で舞台に立った。30年近くたった1997年彼女は朝鮮日報に寄稿した文でこんな事を書いた。”30年前の音楽感想室 「セシボン」を思えば今も胸が震える。そこは今まで熱病に浮き立った人のように暮して来た私の芸術人生を生んだ母のような所だ”

 そうだ、「セシボン」は単純な音楽感想室ではなかった。ギター音楽の誕生の役目ばかりではなかった。私が憶える青年文化の最初集結所が「セシボン」だった.。金大中(キム・デジュン)前大統領、有名マンガ家、清凉里精神病院長、前国会副議長, 前将軍などが舞台に立って青年たちと討論した。詩人や文壇の巨匠たちが詩を朗唱して観客たちと対話を交わした。大学生が主役になることができる唯一の文化空間が「セシボン」だった。

 「セシボン」は 1953年ソウル明洞(ミョンドン)で初めてオープンした。最初主人が誰だったかは確かではない。その後イ・フンワンが引き受けて忠武路と小公洞を経て瑞麟洞に腰を据えた.。そこで今私たちが分かっている ”セシボン時代”を開くようになる。
 セシボンが大学生文化空間で位置づくようになったのは、オーナーのイ・フンワンの役目が大きかった。セシボンを運営する彼の哲学は確固だった。酒は絶対持ち込み禁止だった。酒に酔った人も、暴力を使う人も出入り禁止だった。たまに酒に酔った人が入場しようとする、乱動をしようとする人がいると、大男のイ・フンワンが ”かつぐか””お酒飲んだの?”と言えばそれで終わりになった。

 多様なプログラムも積極的に進めて他の音楽鑑賞室たちを圧倒した。明洞には芯喫茶店と皇室喫茶店, シボネが, 武橋洞にはヨン喫茶店が, 光化門近くにはアカデミー音楽鑑賞室と金蘭喫茶店が, 鐘路にはデ-スェネとルネサンス, アポロなどの音楽鑑賞室がお互いに競争した時代だった。この内セシボンぐらい、多くのプログラムを保有した所はなかった。

 セシボンはソン・チァンシクがデビューした舞台である ”大学生の夜”から ”星占””名詞招待席””三行詩文章大会”など多くのプログラムを進行した。”新曲合評会”も開かれた。アルバムを録音する前に観客反応を見る時間だった。既成の歌手らが、楽団やピアノ伴奏で歌を歌って評価を受けた。
 
 フォークデュオ「ツインフォリオ」の前はセシボントリオで活動した。1967年10月に結成しメンバーが軍に入隊し、1月に解散、長続きはしなかった。PDが二人でやればといい、ソン・チャンシクと二人で「ツインフォリオ」を結成。私たちは当時20歳、楽しかった。ラジオ番組は夜の11時に始まり、終ると12時が過ぎて”通行禁止”(当時は戒厳令がひかれていた)で家へ帰れずセシボンで寝た。私たちはクリフ・リチャード、ビージーズ、ハリー・ベラフォンテや、童謡や歌謡曲も歌った。”白いハンカチ”がヒットして歌謡曲のパティ・キム、イ・ミジャ、ナム・ジンらと一緒に出演もした。1968年冬はツインフォリオの絶頂期だった。
 
 セシボンに初めて足を踏み入れたのは1967年。多くの人に出会った。チョ・ヨンナム、イ・ジャンヒ、ヤン・ヒウン、キム・セファン、キム・ミンギ、ハン・テス、チョン・ユソン、ソ・ユソク、1960年代に始まったギター文化を一緒にわけた人々だ。その中でもソン・チャンシクは20代の一番長い時間を一緒に過ごした。1960年代1万ウォン持っていればそのお金は私のお金ではなく、私たちのお金だった。そんな心で歌も喜んで分けあった。
 
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セシボン文化「ユン・ヒョンジュの”セシボン、私たちの話”より」① ソン・チャンシク 「鯨狩り」

 
 1975年発売禁止曲になったソン・チャンシク”鯨狩り”。1971年ソン・チャンシクの1集アルバム収録曲です。
 今はもう無くなったソウル武橋洞にあった『セシボン(C'est Si Bon)』は、韓国で最初にできた音楽鑑賞室(ライブハウス)です。このセシボンからソン・チャンシク、ユン・ヒョンジュ、キム・セファン、チョ・ヨンナム、イ・ジャンヒなど「フォーク第1世代」のスターが輩出されました。
 
  ソン・チァンシクは朝鮮戦争で父が戦死して, 母も行方不明になり祖父母のもとで不遇な学生時代を過ごしました。ソウル芸術高校を卒業して、1967年ふらりとセシボンに現れて歌曲を歌い喝采を浴びてデビューしました。医大生のユン・ヒョンジュとフォーク・デュオ「ツインフォリオ」を結成して、1968年」「ツインフォリオ1集アルバム」を発売、ナナ・ムスクーリの翻案曲”白いハンカチ”で歌謡界にデビューしました。男性フォークデュオの元祖として大学生から多大な人気を得ます。
 人気絶頂の中、1969年にツインフォリオを解散して、翌年の1970年にソロ歌手に転向して大成功します。1974年に”笛を吹く男”で大きな人気を博しました。1975年にもヒット曲を出し歌謡祭でさまざまな賞を受け、しばらく歌謡界を掌握しました。1978年には3年連続で「MBC10代歌手賞」を受賞しました。
 
   鯨狩り
 
 お酒を飲んで歌と踊りを踊ってみても 胸には一ついっぱい悲しみだけだね
 何をしようかと 見回しても見えるのは すべて背を向けている
 さあ行こう 東海の海へ 3等3等普通列車 汽車に乗って
 昨夜に見た夢の世界は朝に起きたら忘れるが
 それでも思い出す夢の一つは 小さくてきれいな一匹の鯨
 さあ行こう  東海の海へ 神話のように息をする鯨取りに
 私たち愛が終るとしても すべてのものをいっぺんに失うとしても
 私たち胸の中には残っている 小さくてきれいな一匹の鯨
 さあ行こう  東海の海へ 神話のように息をする鯨を捕りに
 さあ行こう  東海の海へ 神話のように息をする鯨を捕りに
 
 
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 ユン・ヒョンジュ「セシボン、私たちの話」(朝鮮日報コラムより)
 
 「セシボン」は大きくなかった.。ソウル武橋洞に位置した小さな音楽鑑賞室(ライヴハウス)だった。しかしそこで私の若い日が始まった。「セシボン」と一緒にギター文化も始まった。私の中でギター文化元年は 1968年だ。その年,チョ・ヨンナムは”ディライラ”(トム・ジョーンズのカバー曲)を歌って一躍スターになった。ツインフォリオが結成され、継いで、ハン・テスが”水はいくつかの住所”を歌って、韓国情緒がたっぷり込められたフォークソングの時代を開いた。
 
 ギターひとつ抱えてて舞台に上がった私たちは当時としては不慣れな姿だった。舞台なら適当に楽団がなければならない。観客が見るのに私たちはとても身軽だった.。しかし感性をありのまま率直に伝えた私たちの音楽に、多くの人々が呼応し始めた。ギター文化はただ音楽にだけ限定された文化ではなかった。小説家、映画監督、時事マンガ家画家、前衛芸術家など多くの分野で同じ考えを共有した人々が同時多発的に活動した。
 
 セシボンに引き続き、明洞(ミョンドン)で「オービスキャビン」(コンサートホール)の時代に繋がり、YWCAでの集まりでは、キム・ミンギ、ソ・ユソクなどが集まって意識あるフォークソングを作った。 そして 1970年代「ツーコリンズ」「シェグリン」「4月と 5月」「ツーエース」「エボニス」「トゥルダソッ」などフォーク・デュエットが爆発的に増えた。「オニオンズ」を通してはじめて、ギター文化はただの若者文化から、大衆に受けるヒット歌謡として大きな人気を博した。
  
 しかしそこまでだった。1975年12月の「マリファナ騒動」を経験して、ギター文化は断絶してまった。4年後にギター文化の主役たちの活動禁止が全面解除されたが, すでに時間はたくさん過ぎていた。ギター文化は自ずと忘れられた。
 ギター文化に共感した人々も自分の思い出を忘れて行った。思い出を何度もじっくり考えるには忙しすぎる時間だった。私たち世代は熱心に前だけ見て駆けて来た世代だ。政治的激変をくぐって経済成長のために目まぐるしく働いて来た世代だ。たまにギター文化が取り上げられても私たち世代は多くの関心を寄せなかった。
 
 2010年MBCのTV 番組にソン・チャンシク、キム・セファン、チョ・ヨンナムとともに出演した時、初めて忘れられたギター文化が大きい関心を集めた。彼らといっしょに私たち世代は自分の思い出を取り戻した。私はいつもコンサートで言うことがある. ”このコンサートは思い出の宝石箱”と。
 セシボンコンサートは長年タンスの奥に閉った「思い出の宝石箱」を開いて、ほこりの積もった宝石を一つ一つ拭きながら、自分の思い出がどんなに大切なものなのかを反芻する席になった。その舞台に私の役目があるということ、今日までその世代の前に立って歌うことができるということ、まだ私の歌が愛されているということは大きい祝福だった。
 
ツーコリンズhttp://youtu.be/E7zMbZhqvPs
シェグリン 
キム・ミンギ 
四月と五月 
トゥルダソッ 
オニオンズ
 1970~80年代の音楽にスポットを当てたKBSTVの歌番組「コンサート7080」が2004年から始まりました。この番組が韓国フォークの再評価に大きな影響を与え、「セシボン」人気に繋がったのかもしれません。
 

 
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韓国フォーク ツインフォリオ 「ウエディングケーキ」「白いハンカチ」 「幸せの朝」

 

 

 

 韓国フォークの草分け的存在のツインフォリオは、ソン・チャンシクとユン・ヒョンジュのグループです。ソウル武橋洞の音楽鑑賞室(カフェ)『セシボン』で二人は出会い、1968年2月にツインフォリオを結成しました。多くの洋楽をカヴァーし、オリジナルの”白いハンカチ”はKBSTV「コンサート7080」で”7080世代が選ぶ30曲”の中で24位に輝いています。
 ソン・チャンシクについて http://contents.innolife.net/lista.php?ac_id=13&ai_id=2069
 
 ”ウエディングケーキ”(1969年・全米91位)はコニー・フランシスの歌です。フォークギターで歌ったツインフォリオの”ウエディングケーキ”は、韓国のフォーク・ソングとして多くの人に歌われています。
 私が観た「コンサート7080」では、ナムグン・オクプンとヤン・ハヨンがデュエットしましたが、素敵なハーモニーでとても感激しました。2008年の「コンサート7080」ではユン・ヒョンジュは親友のキム・セファンとデュエットし、初めてソン・チャンシク以外の人と歌いました。
 
 2008年の「コンサート7080」に出演したユン・ヒョンジュはツインフォリオについてこのようにお話しました。
 ”1967年の秋に今はもうない武橋洞の音楽鑑賞室セシボンで、仁川(インチョン)からきた、”表情が一つしかない人、悲しくても空腹でも眠くても、笑う人”ソン・チャンシクに出会い、1968年2月からはじめたツインフォリオが今年で40周年になります。その時からただ一途に活動してきました。ツインフォリオ以前の韓国の音楽界はほとんど、伝統音楽、トロットでした”
 ツインフォリオは韓国に洋楽を広め、韓国でフォークソングを定着させたグループなのですね。
 
 
   「ウエディングケーキ」
 
 静寂な夜更け 窓をたたく音 眠れず起き上がり 窓を開け見下ろすと
 人影はなく ぽつんと残されたウエディングケーキ
 誰が置いていったか私は分かる やるせないこの想い
 この夜が過ぎると 私は行く 願わない人の元へ 
 涙を流しながら 私は行く あなたではない人の元へ
 この夜が過ぎると 私は行く 愛していない人の元へ
 最後に一度だけあなたの姿を 見させてください
 つらい私の気持ちも知らず 遠く聞こえてくる 無情な夜明けの鐘
 もしや名残惜しさに あなたが現れるのではと 窓の外を見下ろしても
 すでに去ってしまったあなたの姿 どこにも見つけられない
*残されたウエディングケーキをただ眺め とめどなく涙を流す*
 *~*
 

 

 

 ”白いハンカチ” (ツィンフォリア)
 この曲は1970~80年代に青春を送った”7080世代が選ぶ30曲”に選ばれた曲です。多くの人たちに好まれた曲なのですね。
 
 

 

 

 

 クリフ・リチャード「幸せの朝」の翻案曲

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クォン・テス/キム・セファ 「小さな恋人たち」

 
 2012年5月のKBSTV「コンサート7080」で、チョ・ハンジュとキム・セファが歌っていた「小さな恋人たち」。「7080」や「開かれた音楽会」はほとんど録画していますが、この歌が入った映像を間違えて消去してしまって、とてもショックでした。
 YouTubeで、私が「コンサート7080」で観たチョ・ハンジョとキム・セファの歌う「小さな恋人たち」をやっと見つけました。一番上のピンク色の文字をクリックすると見られます。この画像はクォン・テスとキム・セファのデュエットです。
 「小さな恋人たち」を初めて聴いたとき、ちょうど「ボクヒ(ポッキ)姉さん」を観ていたときで、「カン先生」を演じたリュ・テジュンと相手役のイ・ジェインの恋愛を歌っているようでした。小さな存在である恋人たちの大きな愛、崇高な愛が「美しい魂」という言葉とともに思い浮かびました。
 この歌は前韓国大統領ノムヒョンの愛唱歌だそうです。キム・フィガブの作ったこの歌は1970年代フォーク世代の人気曲です。ノ・ムヒョンも「小さな恋人たち」が自身の恋愛、結婚と重なったのでしょうか。
 キム・セファは「7080」で「蝶少女」を歌っていました。1985年に「眠る人形/女心」というアルバムを出し、そのなかに「小さな恋人たち」「蝶少女」が収録されています。
 
   「小さな恋人たち」
 
 いつ私たちは会ったのか いつ私たちは別れたのか
 出会いも別れも痛みだった
 行く途中後ろ向きになれば 
 聞こえるように聞こえるように あなたの声
 黙って後ろ向きになれば ポロポロ涙が流れる
 あなたと私は小さな恋人たち
 
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