goo

アニタ カー Anita Kerr ④ (1966~68年) "The World We Knew"”Two Mexican Donkeys"

 
 
 
 
  アニタカーは1967年に、ドイツの指揮者・作曲家・編曲家のベルト・ケンプフェルトの曲を集めたアルバム「Bert Kaempfert Turns us on」をリリースしました。
  ベルト・ケンプフェルトは1950年代から音楽活動を始め、1958年には”真夜中のブルース(Midnight Blues)"が日本でヒット、その後も”愛の誓い(Till)””星空のブルース(Wonderland by night)””ブルーレディーに紅いバラ(Red Roses for Blue Lady)”ダンケ・シェーン”などがヒットしました。作曲家としても"Stranger in the Night(夜のストランジャー)”(フランク・シナトラ)、”Love"(ナット・キング・コール)、”Swinging' Safari"(ビリー・ヴォーンなど数多くあります。
 UPしたのはアニタ・カー・シンガーズのアルバム「Bert Kaempfert Turns us on」から”The Word We Knew」です。
 
 
 
 
 
 
 イメージ 1アニタ・カー・シンガーズは、「メキシカリ・シンガーズ(Mexicari Singers)」の変名で「Mexicali Singers」(1966年)「Further Adventures of」(1966年)「Ride Again」(1967年)の3枚のアルバムをリリースしています。
 UPしたのは、2ndアルバムから"Tow Mexican Donkeys"です。”タパタパタパ”のスキャットが可愛らしい、楽しい曲です。
 
 
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

1967年のポップス ⑬ レターメン Lettermen "Going out of My Head~Can't Take my Eye's of You"

 
 
  レターメン(Lettermen9は3人組のコーラ・スグループで、1961年に”Whenn I Falling Love"が全米7位になり、1962年からアルバムをCapital record からリリースしていきました。
 日本では1969年に「涙のくちづけ(Sealed with a Kiss)」が大ヒット、その後も、ジョン・レノンの"ラヴ(Love)"やボビー・ビントンの"ミスターロンリーMr,.onley)”などがヒットしました。来日コンサートも数多く開いています。
 UPした、”Goin'g out of my Head~Can't Take my Eye's of you"は全米7位になりました。
 ”Goin'g out of my Head”はテディー・ランダッオー(TEDDY RANDAZZO)の作品で、リトル・アンソニーとインペリアルズ(Little Anthony & Imperials)で1964年に全米6位、”Can't Take my Eyes of you"はフォー・シーズンズ(The Four SEasons)で1966年に全米2位を記録しています。
 レターメンはこの2曲を、美しいコーラスハーモニーと巧みなアレンジでメドレーにしています。
 
 
 
 
  レターメンが1966年にリリースした、ブレッド(Bread)のデヴィッド・ゲイツ(David Gates)作曲の"You'll be Needing me Baby"で、チャートにはランクインしませんでした。
 メロディー・アレンジがソフトロック調で、サウンドにはブライアン・ウィルソンの影響も感じられます。   (Kann Dorao)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

1967年のポップス ⑭ フランキー・ ヴァリ Frankie Valli "I Make a Fool of Myself" "September Rain" "C'mon Marianne

 
 
   
 フォー・シーズンズ(Four SEasons)は、フランキー・ヴァリがリードヴォーカルの4人組のポップ・コーラス・グループで、1962年に”sherry(シェリー)” "Big Girl don't Cry(恋はやせがまん)"、1963年に"Walk like a man(恋のハリキリ・ボーイ)"、1964年に"Rag Doll(悲しきラグ・ドール)"が全米1位になるなど、ヒット曲を数多くリリースしています。
 フォー・シーズンズもアメリカン・ポップスの変化に合わせて、1960年代半ば以降サウンドが少しずつ変わっていき、”シェリー”などの明るく楽しいアメリカン・ポップスのサウンドに、緻密なハーモニー、コーラス・アレンジが加わっていきます.
 1967年5月にリリースした、ボブ・クリュー(Bob Crewe)、ボブ・ゴーディオ(bob Goudio)作曲の"Can't Take My Eyes of you(君の瞳に恋してる)”は、フォー・シーズンズにとって久しぶりの全米2位の大ヒットになり、多くの歌手にカヴァーされ、1982年にはボーイズ・タウン・ギャングのディスコ・ナンバーでリバイバル・ヒットしました。
 UPした”I Make a Fool of mysel(内気な恋心)"(1967年8月発売)も、ボブ・クリュー、ボブ・ゴーディオの作品で、前曲に優るとも劣らないのですが、メロディーとアレンジが”君の瞳~”に少し似ているためか、全米18位に終わりました。ただこの曲は聴けば聴くほどメロディーとアレンジが良く、私は”君の瞳~”より好きです。
 
 
 
  
      
 
 
 "I Make a Fool of Myself"のB面の"September Rain"です。哀愁を帯びたメロディ
ーが胸を打ちます。
 
 
 
 
                  
 
 
 
 1967年6月にリリースされた”C'mon Marianne"(全米9位)です。1968年にイギリスのポップ・ロック・グループのグレイプ・フルーツがカヴァーし、日本でもシングル盤が発売されました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

アニタ カー Anita Kerr ③ (1966~68年)

 
 
 アニタ・カーはカントリー以外の音楽に専念するために、1966年にナッシュビルからロサンゼルスに活動の場を移します。ワーナー・ブラザースと契約し、「And Now...The Anita Kerr Orchestra」(1966年)「Slightly Baroque」(1966年)「Bert Kempfert Turns us on」1967年)「All you Need is Love」(1967年)「Sounds」(1968年)の5枚のアルバムをリリースしました。
 1960年代年半ばには、ビートルズなどのビートグループの影響によって、アメリカのポップスが大きく変化していきました。1966年にはアソシエイションの”チェリッシュ”が全米1位になり、ハーパース・ビザールなどのソフトロックと呼ばれる、高度なアレンジとコーラスハーモニーを駆使したポップスが台頭していきました。また洗練された音楽「ボサノヴァ」が人気になり、1964年にはアメリカ中のラジオやテレビで”イパネマの娘”が流れるようにイメージ 2なるほどでした。
 ボサノヴァのアントニオ・カルロ・スジョビンがワーナーからアルバムをリリースし、アソシエイションやハーパース・ビザールもワーナーのグループでした。ソフトで美しいコーラスハーモニーのアニタ・カーが、ワーナーからアルバムをリリースしていったのは時代の必然だったのかもしれません。
  UPしたのはアルバム「All you Need is Love」(1967年)から、フランキー・ヴァリーのヒット曲”I Make a Fool of Myself"(Bob Crewの名作)です。アニタ・カーのアレンジとコーラスがすばらしく、ワーナーブラザーズ時代の録音で一番好きな曲です。  
 
 
 
  
 アルバム「Sightly Baroque」(1966年)から、トニー・ハッチ作曲の"My Love"です。トニー・ハッチのポップな感覚と、アニタ・カーのスウィングするコーラスがよく合っています。
 
  
 
 
 
 ルバム「Slightly Baroque」収録、ミュージカル「キャメロット」より”If Ever I would Leave you"です。
 「キャメロット」は「マイ・フェア・レディー」と同じ、フレデリック・ロー作曲アラン・ジェイ・ラーナー作詞コンビの作品で、ジュリー・アンドリュースとリチャード・バートン主演で、ブロードウェイ(1960年初演)で大ヒットしました。1967年に「南太平洋」のジョシュア・ローガン監督、リチャード・ハリス、ヴァネッサ・レッドグレーブの主演で映画化されました。
 この曲はミュージカル・ナンバーなので、朗々と歌いあげる場合が多いのですが、静謐で美しいオーケストラと、ソフトなコーラスをほどこしたアニタカーのアレンジがすばらしく、曲の良さが最大限に引き出されています。   (Kann Dorao)
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

韓国ドラマ「生き残った者の悲しみ」(KBS 1993年 16話)

イメージ 1
 
 
イメージ 2 2007年、KBSワールドの日本放送が始まった頃に放送された,イ・ビョンホン主演のドラマです。7年経って、録画していた「生き残った者の悲しみ」を一気に観てしまいました。
 このドラマを一言で表現すると”観念的な悲劇”ということでしょうか。同名の小説をドラマ化したということですが、重く苦しく哀しい、それでいて希望も持たせ、そして芸術的で政治色の非常に強いこのドラマを、放映当時、視イメージ 6聴者はどのように受け止めたのかと、観ていてとても気になってしまいました。
 
 「ドラマの時代背景」
 朴大統領の暗殺後、1980年に全斗煥(チョン・ドファン)がクーデターによって大統領に就任します。「第5共和国」と呼ばれる軍事独裁政権に対し、光州事件や民主化闘争の嵐が吹き荒れました。抗議する市民や学生はいやイメージ 7おうなく逮捕され、拷問されるという状況の中、80年代中頃には抗議のうねりが高まり、民主化を求める市民や学生たちの連日のデモが続きました。
 1988年にはソウルオリンピックを控え、夜明けを待つ真夜中のように出口の見えない闘いは続きます。全斗煥から盧泰愚(ノ・テウ)大統領に政権が移り、金泳三(キム・ヨンサム)が登場する1990年代に民主主義の時代が到来します。
イメージ 8 
 「生き残った者たちの悲しみ」
 1985年春から1993年までをイ・ビョンホンの回想と人生を通して、過去に愛して失ってしまった女性と、現在愛する女性、その時代を生きた人たちの行動、考え方を描いています。1話1話の中で、1980年代と90年代が交互に描かれる手法は斬新だと言えるかもしれません。イ・ビョンホンのナレイメージ 9ーションが自己や時代を簡潔に表し、わかりにくいドラマをわかりやすくしています。
 1985年春、イ・ビョンホンは学内で純真でかわいい新入生の女子学生ララに出会います。偶然イビョンホンの所属する”山河”というサークルに入ったララは、警察の理不尽な行為に学生運動に目覚めていきます。法学部のイ・ビョンホンは、仲間やララが突き進む学生運動から一歩引き、司法イメージ 10試験の勉強に努めます。
 公務員の中流家庭の娘で両親に愛されて育ったララは、純粋で真っ直ぐで、正義を追い求め、政治活動に突き進んでいきます。イ・ビョンホンの愛を選ぶことなく、女性活動家として逮捕、組合活動、逃亡生活、飯場労働者との同棲、暴力、極貧の生活を経験し、病に倒れ、温かい両親の待つ実家へ戻ることもなく、冷たく悲しい死をとげてしまいます。
 1990年のイ・ビョンホンは兵役を終え大学へ戻ります。同じ下宿生のディディに出会います。自由奔放なディディ、派手な美貌でボーイフレンドに事欠かず、愛があれば男と寝るとあっけからんに言います。戸惑いながらもディディに影を感じ、愛し始めるイ・ビョンホン。二人は互いに求めあってはいるものの、心のすれ違いでディディは不倫の愛に走り、シングルマザーの道を選びます。 
 自暴自棄になるディディを慰めるイ・ビョンホン。そして立ち直るディディですが、優しく愛情に満ちたイ・ビョンホンを選ばず、お金持ちの男性にプロポーズされてその結婚を選択しますが、シングルマザーということで相手の両親に断られます。仕事を持ち自分の選択した道を歩むディディをイ・ビョンホンは見守っています。ラストで二人は結ばれます。
 可憐なララと大胆なディディは両極端に見えますが、生き方は共通しています。”政治活動”、”愛”と両者共に、自分の生き方を貫いています。同じような女性を愛したイ・ビョンホンは女性たちをただ見守るしかなく、翻弄されてしまいますが、法曹の世界へ進まず、出版社を設立して、ララの軌跡や80年代の記録を出版する方向を選びます。
 出版した本が反共法にふれて逮捕されますが、法廷でのイ・ビョンホンの弁論には胸を打たれ感動し、希望をもたせます。80年代に逮捕されたララ自身の弁論も共感を得ることができました。
 学生運動のリーダーだった先輩は検事になり、イ・ビョンホンを裁きます。検事と被告として互いに時代を背負い、生き残った者の悲しみを抱えながら対峙します。
 検事の側から世の中を変えていくと言う先輩、果たしてそれが出来たのか、1998年に金大中の民主主義政権になって、成果が問われることになるのでしょう。
 ララの壮絶な運命はここまで悲劇に描くの?と韓国ドラマの悲劇性を考えてしまいました。たしかに歴史的にみても、国家と国民の悲劇には事欠きません。それを踏まえて、その先に見えるものは”希望”を暗示しているのかと思いました。
  当時の映像を交えながら、イ・ビョンホンのナレーションとセリフ一つ一つの重みが、原作のドラマ化を成功させている気がします。
 なかなかこのドラマの視聴に踏み切れませんでしたが、いざ観ると大事な事を伝えようとしているようで、面白くてとても考えさせられたドラマでした。しっとりとした音楽も効果的で良かったです。
 
 今から20年前のドラマなので、若きキム・チャンスクやクールなキム・ヨンエ、好青年のユン・ダフンを見ることができました。「松の木と汽車」を歌ったイ・ギュソクがお金持ちのしつこい男として出演していました。
 この頃のイ・ビョンホンは真面目な学生役が多いです。今ではすっかりベテラン映画俳優でトップスターです。実業家のような貫禄もつきました。それはそれで素晴らしいのですが、「別れの来ない朝」(1992)「明日は愛」(1992)「生き残った者の悲しみ」(1993)「恋の香り」(1994)などの大学生役のイ・ビョンホンが好きです。
 
 採点(10点満点/6点)
 
  
イメージ 11イメージ 12イメージ 3イメージ 4イメージ 5
 

 

 
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

不朽の名曲 「韓国民謡編」

2周年記念の「不朽の名曲」では6曲の民謡がアレンジされました。
      ”アリラン”  パク・エリ&ポッピン・ヒョンジョン
      ”ケジナチンチンナネ”  チョン・ドンハ
      ”ニルリリヤ”  4minute
      ”焼き栗タリョン”  ムン・ミョンジン
      ”鳥タリョン”  イム・テギョン
      ”恨五百年”  パダ 
 韓国民謡、伝統音楽には3つの言葉があるそうです。長く引き継がれてきた”脈”、民族の苦しみを代弁する”恨”、そして“興”。
 ”アリラン”は日本人にもよく知られ、”恨”の情緒を代弁する韓国の代表的な民謡です。1926年映画「アリラン」の主題歌に使われてヒットしました。「不朽~」で歌った民謡歌手のパク・エリは”昔の歌だけでなく今も、様々な形にアレンジして歌われているのが凄いと思います”
 ”ケジナチンチンナレ”は即興的な歌です。”~がしたいケジナチンチンナレ”みたいな感じです。慶尚道地方の軽快な民謡で、何人かのやりとり方式の曲です。主に民族打楽器で歌います。チョン・ドンハのラフなロック調でアレンジされました。
 ”ニルリリヤ”は京畿道の民謡です。流れる歳月の無情さを歌いますが、4minuteがかわいくポップにアレンジしていました。
 ”焼き栗タリョン”京畿道の民謡で栗とは無関係な自然や愛を歌っています。ムンミョンジンはR&Bのアレンジでした。
 ”鳥タリョン”は鳥の鳴き声と遊ぶ姿を描いた南部地方の民謡です。”鳥が飛ぶ”で一気に盛り上がります。イム・テギョンが曲に忠実に歌い高得点で優勝しました。
 ”恨五百年”は1980年にチョ・ヨンピルが国際歌謡祭熱演賞を受賞。江原道の民謡で曲調が”アリラン”に似ています。高麗の滅亡を嘆いて歌った歌です。パダの熱唱でした。
 民謡をいろいろなアレンジで聴きましたが、一番良かったのが控室でパダが歌った”農夫歌”です。お父さんが民謡歌手なので民謡を聴いて育ったパダ。こぶしがよく回って、スタンダードな民謡でステージの歌よりも素晴らしい歌でした。「食糧がなくても働かなきゃいけないので辛さを癒すために民謡を歌ったそうです」とパダは話していました。
 
  「農夫歌」
 
 農夫よ聞いておくれ 農夫よ話を聞いとくれ
 早く作物を育てて8月9月にすべて収穫して
 きれいな水で洗い トントンと精米しよう
 できたよできた 収穫まであと半月だ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

アニタ カー ② Anita Kerr (1961~65年)

    
   アニタ・カー・シンガーズは1961年に、RCA Victorと契約します。アニタ・カー・シンイメージ 1ガーズはアニタ・カーのアレンジで、ブレンダ・リー、ペリー・コモ、パット・ブーン、ローズマリー・クルーニー、ロイ・オービソンなどRCAのトップミュージシャンの録音に数多く参加、チェットアトキンス・ジムリーブスとヨーロッパ・ツアーもしました。
 またアニタ・カー・シンガーズ、アニタ・カー・クァルテットとして「From Nashville」(1962年)「Vocal Stylings of ~」(1962年)「Tender Words」(1963年)「Mellow Moods of Love」(1965年)「We Dig Mancini」(1965年)「Sunday Serenade」(1965年)の6枚のアルバムをリリースしました。
イメージ 2 特にヘンリー・マンシーニの曲を集めた「We Dig Mancini」は、グラミー賞の「最優秀ヴォーカルグループ賞」(1964年)を獲得しました。
アニタ・カーとヘンリー・マンシーニのソフトで優雅、繊細で美しい音楽性がぴったりと合った名盤です。UPした曲はオードリー・ヘップバーン主演の「ティファニーで朝食を」(1961年)から「アカデミー歌曲賞」を受賞した”ムーンリバー”です。
 
 
 
  
 「We Dig Mancini」より、1964年の映画「ディア・ハート」(日本未公開、「ニューヨ   ークの恋人」の題名でテレビ放映)からテーマ曲です。
 
 
 
  
 
 1960年代にRCA Victorは、「Living Voices」の名前でイージー・リスニング・コーラスのアルバムをリリースしていました。アニタ・カーは自らのグループ以外で「Living Voices」の名前でアレンジとプロデュースをしています。
 UPした曲はチャップリンの映画「モダン・タイムス」(1936年)より”スマイル”です。  ボサノヴァ・タッチの爽やかで明るいポップなアレンジで、「Living Voices」の録音でも、ソフトでスマートなアニタ・カーらしさが発揮されています。   (Kann Dorao)
   
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

カン サネ 「川を遡る強い鮭のように」

 

「川を遡る強い鮭のように」

 

 この画像は2008年3月29日のものです。

 2008年3月に「コンサート7080」に出演したカン・サネ。司会は「長い間歌手活動の電源をオフにされていた方です。6年ぶりのカムバックです。期待しましょう」とカン・サネを紹介しました。

 1曲目”イェロルララ”を歌ったあとトークに入りました。
司会  「ニューアルバムを出されましたね。久しぶりですが心持はいかがです               か」 
カン・サネ「周りの人たちに悪いことをしたなと。もちろん僕を御応援してくれるファンもいますが、一緒に音楽活動をしている仲間たちをたくさん苦しめてしまいました。長い時間をかけたので。でも追求し続けてたくさん時間をかけたからと、必ずいいとは言えないですね」
 
司会   「今回のアルバムのジャケットは奥様手がけられたそうで」
カン・サネ「そうですね。彼女はここにいるカン・サネという人物を作り上げるアートディレクターの役割を。もちろん家事もよくしてくれて、アルバムのジャケットを手がけてくれたり、”君は出来る””~鮭”の2曲とも妻が作詞したんです」
司会   「僕たちが目にしている歌手カン・サネの姿は奥様によって作られているんですね。久々に会えてよかった。ニューアルバムに期待しています」
カン・サネ「それは、、、、どうでしょう。僕にもわかりませんね」
 
 まさに自由人のカン・サネという感じのトークでした。カン・サネバンドはフレンドリーで、メンバーたちは楽しそうに演奏しています。特にキーボードは人が良さそうで、心から音楽を楽しんでいる姿が和みます。
 カン・サネは奥さんが日本人と言う事でもあり、日本のミュージシャンとも縁が深いことで知られています。韓国、日本に限らず、多くのアジアの音楽家の繋がりもあり、国境を越えた本当の意味での”愛と自由”の人なのですね。
 ”川を遡る鮭のように”はアン・ドヒョンの詩集「鮭」とサケのドキュメントを見て作ったそうです。1990年代後半のアジア通貨危機の時には、人々に大きな勇気を与えました。
 
 
 
 原題「逆に川を遡るあの力強い鮭たちのように」(1998年4thアルバム「鮭」から)はタイトルが19字にも及ぶ長いことで有名です。
 
    川を遡る強い鮭のように
 
 流れる川を遡る鮭のはかり知れない
 固有な神秘な理由のように
 いったいいつからか歩み続けてきたこの道
 これからあとどれほど歩まねばならない
 
 何本もの道の中 もしもこの道が 僕が歩んでる
 遠周りするほかない 曲がりくねった道だとしても
 硬くなっていく足の裏 絶えず歩み続ければ
 あの広い花畑に横たわり僕は休めるだろう
 
 何本もの道の中 もしもこの道が 僕が歩んでいる
 真っ暗な暗闇で 星の光すらない道だとしても
 投げ出すことはできない 絶えず歩み続ければ 
 熱く僕のため砕かれた 日差しを見られるだろう
 
 それでも僕は充分すぎる祝福だと知っている
 無数の歩んでいくべき僕の前途がある
 再び歩み続ければ たえず歩み続ければ
 ある日そのすべてに感謝するのだろう
 
  見えない果て 疲れた肩を落としてため息をつく君
 怖れないで 川をさかのぼる力強いさけのように
 歩き続けていれば 歩き続けていれば 歩き続けていれば
 

 

 

 

  KBSTV「コンサート7080」に出演のカン・サネは奇抜な衣装で目も耳も楽しませてくれます。原色使いの大きな水玉模様や、首に大きなリボンをつけたり、不思議なパンツや帽子などです。
 ルージーな雰囲気のカン・サネを司会は”シラフでも一杯ひっかけてきたような感じだ”言うと、客席も共感の笑いに溢れました。”お酒を飲むとどんな感じに?”と聞くとカン・サネは”自分で言うのも恥ずかしいんですが、面白いそうですよ。僕って面白いんです”と答えました。メンバーに確認をすると、釜山なまりのキーボードの人は”飲んだら帰ろうと言っても絶対帰らないと。最後まで残ってまるでゾンビのように、、、”と言い笑っていました。
 そんなカン・サネとバンドのメンバーは20年近くの付き合いだそうです。和気あいあいとしたバンドは脇役俳優チュ・ホ似で楽しいキーボードと、逞しいドラムと、普通の人っぽいギターがずっと一緒ですね。ベースは変わったようですが。UPした映像にはパーカッションが加わっています。この画像にはドラムの人がいませんね。
 演奏にハーモニカが入ると点数が高いんです。カン・サネ、ハーモニカの演奏が抜群です。
  カン・サネ・バンドはヒップホップ、ニューウェイヴの影響のない、R&R・FUNK・ブルース・カントリー・フォークなどのルーツ・ロックがベースになっています。70’Rockやルーツロックを好きな方にはお勧めです。日本のロックファンは、ワールドミュージックが流行った1980~90年代を思い出して、韓国やアジアの音楽を聴いてもいいのではと想う今日この頃です。
 
   イェロルララ
 
 イェロルララ 日差しが砕け イェロルララ 空は高い
 イェロルララ 穏やかな風が吹き すがすがしい野原は広い
*草の匂い 土のにおい 久しぶりだ
 いい気分 天国のような世の中だ ヤッホー 僕は生きている
 こんな日は一人でも不満じゃない
 もどかしいすべての悩みも忘れられる
 ハーモニカを加えて イェロルララ*
 
 イェロルララ 鳥が飛ぶ イェロルララ 自由は素晴らしい
 イェロルララ 汽車は颯爽と走るのに やるせないこの気持ち
 *~*

 

 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

韓国ドラマ「夢見るサムセン」(KBS 2013年)

イメージ 1
 
 
 
 120話やっと終わりました。最終回に119話分全部詰め込んだ感じの終わり方でした。「夢見るサムセン」はこれまでのTV小説とは一風変っています。
  タイトルに”漢方医の夢”とつくのでヒューマンなドラマと思いきや、「夢見るサムセン」は一言で表すと”悪意に満ちたドラマ”でした。
 ストーリーは子供すり替えで巻き起こる物語です。ソウルで一番裕福な漢方医院に赤ちゃんが生まれましたが体が弱く、巫女に「身代わりの赤ん坊を」と言われ、使用人の赤ん坊を連れてきます。朝鮮戦争が起きて疎開する中、子供が使用人によってすり替えられます。
 漢方医院の娘なのに薬草取りの貧しい娘とすり替えられたサムセン。酷い人格の継母(イ・アヒョン)に食事を与えてもらえず、ひもじさのあまり宝物の500年ものの「山参」を食べてしまい、継父にもうとんじられながら育ちます。
 それでもたくましく育ったサムセンは一家を背負うために家政婦としてソウルへ出て、偶然にも実家の漢方医院で働きます。使用人の娘なのに、漢方医院の娘としてグモクは何不自由なくわがままに育ちました。グモクと一緒に暮らす使用人の叔父さんはグモクの本当の父親です。
 家政婦で来た娘がサムセンだと知った叔父は、毒を食事に混ぜてサムセンに罪を着せ追い出そうとします。薬草を勉強するシーンで毒草のことにも触れるので、ドラマで毒草が使われるのだなと暗示します。
 いまや薬品会社の社長になった叔父は自分の罪と娘の秘密を守ろうとして、つぎつぎに罪を犯して、真実を知ったサムセンの継父を薬殺してしまいます。悪事をあばこうとしたサムセンにも災難が降りかかります。
 サムセンと幼馴染の、薬品会社で働くドンウはサムセンが好きです。グモクはお金持ちのジソンが好きです。4人の若者たちは四画関係に発展していきます。
 最初に悪意と書きましたが、シャーロックホームズが好きなジソン少年が”砒素を使えば完全犯罪になる”といったり、いじめの仕返しに死んだねずみ入りの牛乳を飲ませるなどあって、”あれ?TV小説にしては変だぞ”と思いながら観ていました。
 登場人物で継母のイ・アヒョンが最低の人物を演じていて観ていられなかった。サムセンの幼少時代から悪意が感じられ、観ていていい気持ちにはなれないドラマでした。ストーリーが暗いだけで、回想シーンを多用し、ドラマのテンポやバランスが壊れた、駄目な脚本の典型でした。
 ”すべての物事は回りまわる。沈む月があれば昇る太陽がある。悪いこともあれば良い事もある”、サムセンが漢方医院から追い出されるとき本当の父親である漢方医がこのセリフを言います。The Byrdsの”Turn,Turn,Turn”の歌詞でもあるこのセリフ。脚本家はこの曲をイメージして物語を書いたのかなあと思います。
 グモクが真実を知ったときByrdsのレコードを壊します。その事を象徴として、ドラマの展開が一気に悪い方向へ進んで行きます。好きな曲なので新鮮ではありましたが、この曲を憎むグモクが残念でたまりませんでした。
 ソウルの医院を追い出されたサムセンは、山中で仙人のように暮らす漢方医に医術を教わり、漢方医としての道を歩みます。
 ドラマの終盤では、三流暴力映画を観ているような気分にもなりました。ラスト2話ですべてが解決し、皆良い人になり、多すぎる回想シーンにため息をつきながらも、めでたしめでたしでドラマは終了しました。つまらないと思いながら最後まで観た、初めての韓国ドラマです。
 演出も人物たちの描き方が悪いので、晴れ晴れとして観る事ができませんでした。
 
 一つ褒めるとしたらサムセンの少女時代を演じたヒョン・スンミンが好演したことです。不遇な環境の中でたくましく賢く明るく元気なサムセンを演じていました。
 KBSTV小説は1970年代を舞台に朝鮮戦争で起きたさまざまな悲劇や人間模様を描いたり、70年代の韓国や歴史を知る上でも楽しみに見ているシリーズです。「ボクヒ(ポッキ)姉さん」はとても良い作品でした。新しく始まるTV小説「ウンヒ」はどうでしょうか。
 
 採点(10点満点/1点)
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ペク・ヨンギュ 「悲しい季節に会いましょう」

 
 
 
 1980年にヒットした「悲しい季節に会いましょう」です。秋の歌にぴったりな物悲しい歌です。「コンサート7080」でペク・ヨンギュはこうお話していました。「曲を書いたのが秋なので秋の歌だと思われるのですが、実際のところは分かれた人と四季のない世界で会わせてあげたいという歌です」
 ペク・ヨンギュは雰囲気も地味なうえに、物悲しさが漂います。韓国フォークは、ブワっと明るい「のど自慢」では人気がないのも納得ですね。ですが、私はこのマイナーな韓国フォークのメロディは大好きです。 
 KBSドラマ「母さんに角が生えた」などのチャン・ミヒ主演映画「悲しい季節にあいましょう」(1980年)のサントラのようです。You tubeに映画のポスターの画像もあります。若きチャン・ミヒのベッドシーンですが、相手の男優はペク・イルソプに似ていますが誰なんでしょう。
 
   「悲しい季節に会いましょう」
 
 コオロギの鳴き声は 胸に深くしみるのに
 聞こえないあの声は かすめる風の音
 風の中に見えるかと あの人を待ったけれど
 残された舞い散る落ち葉に抑えきれず 僕は泣いた
 
*愛だとは知っていたけど 別れが来るとは知らなかった
 こんなにも悲しい歌を 胸に抱くとは思わなかった
 心の故郷を追って 傷ついた心を消し去り
 悲しい季節に会いましょう 白く澄んだ姿で*
 
 *~*
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ