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パク・インヒ 「焚き火」

  「焚き火」は1974年のパク・インヒの歌です。
 You Tubeにはパク・インヒの画像がたくさんあります。1970年代を代表するフォークシンガーで詩人のようです。他の歌を聴いてみると、ギターの伴奏で詩の朗読もあります。和訳があるといいのですが。
 この画像はコメントが多く、思い出も多いようです。「焚き火」はKBSテレビの音楽番組「コンサート7080」でもよく歌われる歌で、韓国の人が大好きな歌なのですね。
 
       「焚き火」모닥불
 
 焚き火をたいて 向かい合った
 모닥불 피워놓고 마주 앉아서
 
 私たちのおしゃべりは 終わるところを知らない
 우리들의 이야기는 끝이 없어라

  人生は煙とともに灰だけを残して 
 인생은 연기속에 재를 남기고
  
 静かに去っていく
 말없이 말 없이 사라지는

 焚き火の如く
 모닥불 같은 것

 燃え続け 消える瞬間まで
 타다가 꺼지는 그순간까지

 私たちのおしゃべりは終わらない
 우리들의 이야기는 끝이 없어라
 
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シン・ヒョンウォン「ソウルからピョンヤンまで」

 
 
 
 画像の”ソウルからピョンヤンまで”の歌はシン・ヒョンウォン1995年発売の6集に収録された曲です。フォークグループ「コッタジ」が1994年の1集に収録しましたが、シン・ヒョンウォンは歌詞を少し変えて発表しました。
 
 ”ソウルからピョンヤンまで”は、1991年にタクシー運転手だったチョ・ジュヒョンが作詞をして、ユン・ミンソク(真実は沈まない)が作曲した民衆歌謡です。1991年当時、ソウルからピョンヤンまでのタクシー料金は2万ウォンでした。1995年には5万ウォンになり、2015年には17万ウォンなのだそうです。
 
   ソウルからピョンヤンまで
 
 ソウルからピョンヤンまでのタクシー料金5万ウォン
 ソ連も月の国も行ってないところはないのに
 光州よりもさらに近いピョンヤンはなぜ行けない
 私たち民族の私たちの土地のピョンヤンだけどなぜ行けない
 警笛ならしてソウルからピョンヤンまで
 夢の中でも興がわくように走って行こうとする
 分断勢力追い出して 統一だけになるならば
 お金を受けとれなくても私はいいよ 離散家族置いていくよ 
 帰るときは空車で駈けるよ 泣き暮れて死んだ私の兄弟たち 
 止まった手紙 恨みの霊 でも納めてくれるだろう
 警笛ならしてソウルからピョンヤンまで

 夢の中でも興がわくように走って行こうとする

 

 

 

 
 
 フォークグループ「コッタジ」の”ソウルからピョンヤンまで”は、調子が良くてトロット風です。
 
 
 
 
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パク・イニ(インヒ) KBSTV「不朽の名曲」出演 ”終わりがない道” ”白い貝殻”

 
 
 ”終わりがない道”(1971年)
 
 伝説の女性フォーク歌手パク・イニ(インヒ)が35年ぶりにメディアに姿を現してKBS「不朽の名曲」に出演しました。不朽の名曲出演画像 https://youtu.be/bXcZJjG6Zsk
 
 
 パク・イニは1980年に渡米して以来、芸能界を離れてからマスコミに露出することを避け、韓国放送局長として働きながら暮らしました。凛としたシンプルな容姿や歌声に韓国のファン並びにテレビ局、コンサート企画会社はカムバックの熱いラブコールを送っていたようです。今年4月からソン・チャンシクをゲストに迎えてコンサートを全国で開催。宣伝も兼ねて「不朽の名曲」に出演しました。
 
 司会 35年ぶりに歌うのはどんな気分ですか?
 
 パク・イニ 「罰を受けてる気分です」「この会場にくる途中で、今年初めての桜をみました。桜を見てときめき、みなさんにあって胸が躍り・・・」
 
 司会 ずっと米国にいたそうですね。少し韓国に滞在する間にこの番組に来てくださいました
 
 パク・イニ 「この番組は一度は出演してみたかったんです。夢が叶いました」
 
 「”トアエムア”は1年だけ活動したあと解散し、再結成できませんでした」
 
 「米国で不朽の名曲を観ていてこの番組に出たいと思ったのは、後輩たちを世界に誇れると思ったからです。ドラマを観ている気分で後輩たちの歌を聴いてうっとりとしています」
 
  「公演を控えて今も緊張で震えます。美しい春が過ぎる前に皆さんにお目にかかって挨拶したいと思いました。4月30日ソウルのオリンピック公園を皮切りに、全国を回りながら愛してくれた方たちと、恋しい者同士の会話のようにコンサートを行う予定です」
 
 「”懐かしいどうし”はシンムロキルという道があって(今の慶照宮道)、自宅がその近くでした。だから数十年間毎日のようにその道を歩いていました。その道を歩きながらある日突然、もともとあった歌のように口ずさみ始めたんです。その後ギターでメロディを描き、鼻歌で歌って歌詞を忘れないように書き留めて作った曲です。私がギターでこの曲を作った時は麻の服を着てシンムロキルを歩いていたとしたら、キム・ソヒョン、ソン・ジュノさんお二人の歌は、ベルベットの服でヨーロッパの石畳を歩くような美しい風景でした」
 
 「”白い貝殻”は私が小さな海辺の砂粒を表現したなら、ソン・スンヨンさんは果てしない海自体を表現していたと思います」
 
 
 
 

 

 

 
 ”白い貝殻”(1974年)
 
 鼓動を吹きかける白い貝殻 遠い海の音がまた懐かしい
 夕焼けの水平線に帆船が一つ 
 白い貝殻が花の色に染まる
 耳にあててみる白い貝殻 古い友の歌声がまた懐かしい
 黄昏の砂場に影一組
 白い貝殻の夢に浸る
 白い貝殻が花の色に染まる
         
 
 
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シン・ゲヘン 「秋の恋」「愛そして別れ」

 
 
 シン・ゲヘンは1985年”秋の恋”でデビューしました。済州島出身で女性フォーク歌手のウニやキム・ヒジンと同郷です。
 2007年のKBS「コンサート7080」に出演したシン・ゲヘン。1集収録曲”秋の恋”を歌いましたが、司会者とのトークもなく、1曲だけの舞台でした。この頃の「コンサート7080」はトークをして数曲歌う出演者もいましたが、1曲歌うだけの地味な歌手も出演していました。
 
   秋の恋
 
 あなたの愛は秋の恋 紅葉が色づくと分かれ
 あなたの愛は秋の恋 落ち葉が舞うと去りゆく
 あなたの愛は秋の恋 青い空はあなたの顔
 あなたの愛は秋の恋 朝もやはあなたの想い
 秋よ秋 もう行かないで 秋 秋 この想い分かって
 *あなたの愛は秋の恋 野道にはあなたの足跡
 あなたの愛は秋の恋 雨音はあなたの声*
 秋よ秋 もう行かないで 秋 秋 この想い分かって
 *~*
 
 

 

 

 シン・ゲヘン1集より”愛そして別れ”。2013年頃の「コンサート7080」でしょうか。
 
    愛そして別れ
 
 私たちは愛しました 一瞬の夢であっても
 とてもとても愛したために 世の苦痛も知らずに 
 私たちは別れました。
 理由と理由の中で とてもとても胸痛い別れに
 そのありふれている涙もなく
 
*思い出だと言わないで 私たちの愛も佗びしくて
 胸深く刻まれた あなたの真実でない本当の言葉
 もう忘れなければいけない
 暖かい春の日の記憶 今私は秋の落葉の上で
 世の苦痛を感じています*
 *~* 
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ヤン・ヒョンギョン&ヤン・ハヨン ”引越しした日~夜雨”

 

 

 男女混声デュオの「ペタラギ」のメンバー、ヤン・ヒョンギョン(左の人)と、女性フォークシンガー、ヤン・ハヨン(右の人)のデュエットで”引越しした日~夜雨”。
 この曲は1970年代の女性デュオ「サンイスル」の曲です。今だ現役の歌手たちに、1970~80年代のフォークが歌い継がれている韓国。頼もしいと思うと同時に羨ましく思います。韓国フォークのともし火がなくならないようにと願います。
 ヤン・ヒョンギョンは仁川で「開かれた音楽会」というカフェを経営し、自身もライブをしているそうです。ヤン・ハヨンは1963年生まれの52歳。これからもずっと韓国フォークを歌い続けてほしいです。
 
  夜雨

 降ってる夜雨はきれいなあなたの心
 乾いた私の心濡らしてくれるのね
 雨したたり落ちるあなたの声
 さびしい窓際で私を呼ぶのね
 *雨よ、雨よきれいな雨よ一晩降って
 恋しい私の心が終りがないように降って下さい
 夜雨よ一晩降って

 風は吹いて夜雨、風のように
 雨窓をたたくのに
 寂しく灯りをともして待つのあなたを
 この夜も奥深く夜は深いのに

 
 
 
 
   オリジナルを歌ったサンイスルは1974年にデビュー、1975年にアルバム「最後の残ったこと」をリリースしました。パク・ギョンエとチュ・ジョンイの二人組み。
 
 サンイスル”夜雨”
 
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ナムグン・オクブン ”夢を食べる若者” ”再会”

 

 
 KBSTV「コンサート7080」から、”夢を食べる若者”です。ナムグン・オクブンの飾り気の無い透き通ったような人柄と、柔らかくてハキハキした歌声に元気がでます。ナムグン・オクブンは今も現役で、韓国女性フォーク歌手の重鎮として歌い続けています。キム・ヒジン、ヤン・ハヨン、マウムグァマウムら後輩のフォーク歌手たちとのデュエットもまた素敵なハーモニーを聴かせてくれます。
  ナムグン・オクブンは1970・80年代の韓国フォークソングを広く大衆化させたギター歌手として、1979年にアルバム「分かるようになるつもりの」収録曲”会いたい友達を発表してデビューしました。
 デビュー後 CBSラジオ「セブンティーン」という番組でDJを引き受けました。1981年には”愛愛誰が言ったの”が大ヒットして「 KBS放送歌謡大賞新人歌手賞」を受賞して大衆の注目を集めました。
 1982年の”夢食べる若者”で、ナムグン・オクブンは「MBC 10大歌手賞」「KBS 歌謡大賞女性歌手賞を受賞し、トップ歌手の仲間入りをしました。 またギター歌手の集まりだった「垣根クラブ」で粘り強い活動を引き続き行いました。
 1983年にはMBCで歌謡曲番組の司会で活躍。さらに”私の愛君のそばで”がヒットして、1984年 「KBS 歌謡大賞女性歌手賞」を受賞しました。韓国Wikiより
 
  
    夢を食べる若者
 
 燃え上がる夢を抱いて生きる若者よ みんなで楽しく歌おうよ
 青い翼を広げて 夢を食う若者よ 怒れる波のように今を楽しもう
 幸せはいつも心の中にある 苦しみはみんなあの川に捨てて
 愛と欲望を飲み込んで 明日のために若さを燃やそう
 
 
 
 
 
 
 1986年に発売した”再会”は、フォークグループ「詩人と村長」のハ・ドッキュの作詞作曲”悲しい再会”を歌ったものです。ナムグン・オクブンの7集アルバムに収録された歌で、その年の各種歌謡チャート 1位を記録し、「MBC10大歌謡祭最高人気歌謡賞、最高人気歌手賞」「KBS歌謡大賞」を受賞して人気を集めました。
 
 
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ナムグン・オクブン ”会いたい友達” Jean Shepard & Ferlin Hus

 

 

 徴兵のある韓国で、入隊した若者に送る歌は数々あります。この”会いたい友達”も、入隊した男友達への淡い恋心と慰労の思いを綴った歌です。
 この歌はディスクジョッキーとして高名なイ・ジョンファンが”A Dear John Letter” (Jean Shepard & Ferlin Husk)を翻案し、ナムグン・オクブンが1979年デビューアルバムに収録した曲です。手紙部分をナムグン・オクプンが歌い、状況をイ・ジョンファンが語るという物語のような構成になっています。
 イ・ジョンファンは1960年代中盤からMBCラジオのプロデュサー&DJとして韓国フォークの草創期に携わりました。新人歌手をスカウトしてアルバムを作るなどレコード製作にも関与し、外国曲を翻案して多くの曲に作詞をしました。
 イ・ジャンヒ、ソン・チャンシク、ユン・ヒョンジュ、キム・セファンなどセシボンの仲間たちは、イ・ジョンファン社団(グループ)と呼ばれた歌手でした。
 その後イ・ジョンファンは1973年ソウル明洞(ミョンドン)で音楽喫茶「シェルブール」を経営しました。シェルブールから多くの歌手がデビューしていますが、ナムグン・オクプンもイ・ジョンファンが育て上げたシェルブールを代表する歌手です。
 上の画像は2013年5月に亡くなったイ・ジョンファンを追悼し、KBSTV「コンサート7080」で放送された「シェルブール特集」からです。
 
 
   会いたい友達
 
 語り
休み時間でした。私が鉄兜を枕にして休んでいる時、誰かが私に手紙1通を伝えてくれました。故郷に残してきた唯一の女友達オクプンが送った手紙でした。うれしかったり驚いたりでもあって、とにかく私は変に胸がときめくことを感じることができました。
 
♪会いたい友達 君へ どうぞよろしくお願いします
 形式ばらない文章、喜んで読んでくれることを
 少女は両手を合わせお祈りします
 
 語り
故郷にいる時オクプンと私はいつも友達のように過ごしました。といえどもいつからか、私たちは男と女という考えをなくしてしまうことができなかった。もしかしたら私はオクプンを愛していたのかもしれない。しかし私たちはそのようなことについては、どうでもないように何の話もしなかったのです。
 
♪会いたい友達 君よ 勇ましい私たちの国軍兵士です
 昨夜夢路では 胸に階級章がもっときらめき輝いて 美しく光っていました
 
 語り
オクプンを思う私の心に変化があるように、私を思うオクプンの心にも少しは変化があったようです。故郷を離れて私が軍に入隊し、オクプンの名残惜しいような表情は今も忘れることができません。オクプンはこんなにきれいで短い手紙を書いてきました。
 
♪会いたい友達 君よ 去るとき言おうとしたことを
 3年を待つ私を思っても 勇ましい国軍として勤めてください
 私の心すべて捧げます 私の心すべて君に捧げます
 3年を待つ私を思っても 勇ましい国軍として勤めてください
 私の心すべて捧げます 私の心すべて君に捧げます
 
 
 
 
 
 ”A Dear John Letter” は朝鮮戦争へ出兵した恋人を想う歌ではなく、なんと「離婚要請状」なのだそうです。カナシイ!韓国でも入隊したあと、恋人どうしが別れてしまうケースもあるそうで、何だか複雑な気持ちになってしまいます。
 1953年にジーン・シェパードとフェーリン・ハスキーのデュエットでリリースされた”A Dear John Letter”。ビルボードカントリーチャートで4位にランクインされて、二人は一躍有名な歌手になったそうです。
 
 
 
 
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ウニ(ラナエロスポ) 「愛してる(サランヘ)」

  
   「愛してる」
 
 愛してるあなたを 本当に愛してる
 あなたが私の側を 離れて行った後に
 どんなに涙を 流したかしれません
 愛してるあなたを 本当に愛してる
 憎いのあなたを 本当に憎んでいます
 あなたが私の側を 離れて行った後に
 夜毎に恋しい 会いたい私の愛する人よ
 愛してるあなたを 本当に愛してる

 ブログで”韓国音楽”の旅をしていて本当に良かったと思ったのが、この歌「愛してる」です。
 2006年に韓国ドラマ「波」(1999年SBS全72話)を観ました。心に残る名作ドラマでした。主演のキム・ヨンエが病魔に襲われ、親友と息子たち4人でカラオケに行き、この歌を歌いました。キム・ヨンエと親友のキム・エギョンと二人で歌いながら、涙が溢れて声がつまると、息子のキム・ホジンと親友の息子チョン・ウンインが、母親たちをかばうように一緒に歌いました。このシーンと歌が忘れられず、ずっと今日まで探していたのです。曲名もわからず、♪イエイエイエイエ♪のハミングと、♪サランヘ♪の歌詞だけしか覚えていなくて、「7080」や「開かれた音楽会」でも聴いたことがなくて、探しようが無かったのです。
 今日たまたまYou Tubeで韓国フォークを探していたら、「開かれた音楽会」の記念コンサートでパティ・キム、イ・ミジャ、チョ・ヨンナムが歌う「愛してる」の画像があって、やっと曲名がわかりました。
 「愛してる」は1971年に男女デュエットグループ”ラナエロスポ”(ウニとハンミン)が歌い大ヒットしました。わかりやすいメロディとハミングです。昔韓国へ仕事で行った人は、皆覚えて日本に帰ってきたというエピソードがあるくらい、韓国中で流れていたそうです。
 女性のウニと男性のハンミンで歌う画像もありますが、ウニの歌のほうが心に響いてくるので、フォークギターで歌うウニの画像をUPしました。
 ”KBSTV小説”は1970年代をよく描いています。喫茶店ではトロットや、フォークの歌が流れていますが、この歌を聴いていると、私も1970年代の韓国の人たちと同じ気持ちなのねと思います。
 
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ユン・ソルハ 「ポンオリ・ヴァイオリン」フォークメドレー「幸せな国~ハルパン~風に吹かれて(ボブ

 
 
 姉のユン・ソルヒと対照的な低い声のユン・ソルハ。低くても声はやわらかくて美しいです。
 1991年発売の1集に収録された”ポンオリヴァイオリン”(もの言わぬヴァイオリン)は、レナード・コーエンの1984年のアルバム「Various Positions」の1曲目に収録されている”Dance Me to the End of Love(哀しみのダンス)”の翻案曲です。
 レナード・コーエンの重い独特な歌声から、タイトル・歌詞・歌声丸ごと韓国フォークの世界にアレンジされた”ポンオリヴァイオリン”。
 1963年生まれのユン・ソルハは、俳優でロックバンド「サヌルリム」のキム・チャンワン率いる「クロキドゥル(いたずらっ子たち」のメンバーとして活動した時期もあります。
 姉のソン・ソルヒの音楽性とは違い、黒人霊歌や虚無感漂うロック系フォークを好むようです。それでもユン・ソルハの歌は難しい歌を穏やかな声で歌い、厳かで静かな表現力で聴く人の胸を打ちます。
 
  「ポンオリヴァイオリン(物言わぬヴァイオリン)」
 
 私の心に響いた 君のバイオリン
 主人のいない空き部屋に 一人で置かれているのね
 もう君が歌った悲しい歌たちは
 誰が聞かせるくれるの 誰が聞かせてくれるの 
 夢が多い人々の都市を発って
 野辺のスミレになりたくて
 欲のない善良な目が涙ぐんだ
 君は今どこに 君は今どこに

 夜のとばりが降りた通りを 寂しく歩いたら
 君の清い笑いがふと浮び上がって
 小さなそのカフェーを訪ねたけれど
 君はいなかったの 君はいなかったの
 沈黙の川に浮かんでいる 古いバイオリン
 あの日の閉じている胸を開こうか
 ほとんど全てが暗い屈折を どこの辺りで
 また目を開こうか また目を開こうか
 ラララララ

 
 
 
 
 
 TBCTVの「Old Houseコンサート」から、1970年代の3大抵抗歌手と位置づけられる『キム・ミンギ、ハン・デス、ヤン・ピョンジン』のヤン・ピョンジンを迎えて、ユン・ソルハとのジョイントコンサートです。
 ハン・デスの曲”幸せな国””ハルパン”、ボブ・ディラン”風に吹かれて”メドレー。ユン・ソルハ”ポンオリヴァイオリン”、ヤン・ピョンジン”二回りで行く自動車”
 
 
 ユン・ソルハアルバムから”さすらいの終わり”
 この曲もいい曲です。”私が助けられれば”http://youtu.be/Fqa8vTcoUdk
 
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キム・ヒジン 「永遠の私の愛」「僕たちの物語」「たき火」

 

 

 ”永遠の私の愛”は「キム・ヒジン2集」の中の曲です。
 フォーク界のIU(アイユー)と呼ぶばれているキム・ヒジン。38歳なので”大きいIU(オルンユー)”というニックネームをコメディアンにつけてもらったということです。
 いつまでも変わらない美しくて暖かい声に、顔もきれいで雰囲気もシンプルなキム・ヒジン。
 ギターを持って公演活動を続ける姿はいちファンとして、応援したい気持ちでいっぱいです。いろいろな場所で歌うので、ワイワイガヤガヤと意にそぐわないこともあるでしょうが、それでもギターを鳴らし淡々と歌う姿はフォークの伝道師のようでもあります。
 ハングルで検索すると、キム・ヒジンは混声デュオ「ラナエロスポ」の最後の女性メンバーだそうです。1971年初代「ラナエロスポ」の女性メンバーキム・ウニが"愛してる”をレコーディングして後、発売してすぐに脱退して以降、リーダーのハン・ミンはメンバーを変えながらも「ラナエロスポ」を続けていたのですね。「ラナエロスポから独立したウニ(キム・ウニ)がソロになって、初めてリリースした”花の指輪をはめて”をキム・ヒジンが持ち歌にしている理由がわかったような気がします。 
 
 「永遠の私の愛」
 
 葦の葉の先の水玉のように あなたの清い瞳
 いつも私だけを愛するその心に
 私は私は幸せです
 
 いつも愛でかばってくれる あなたの温かい心に
 私はいつも あなたに感謝しています
 
 *あなたは私の人生 永遠の私の愛
 いつもあなたと一緒に 永遠の私の愛*
 
 野に咲く可憐な花のように あなたのきれいな姿
 いつも私だけを信じてくれるその心に
 私は私は幸せです
 
 淋しい時悲しむ度に いつも野の花みたいなあなたよ
 あなたの根強いその心に
 私はいつも あなたに感謝します
 
 *~* *~*
 
 キム・ヒジンはKBSTV「歌謡舞台」の出演も多く、フォークをゆったりと歌う画像がいくつかありました。
 フォーク歌手ユン・ヒョンジュの”僕たちの物語”を”私たちの物語”として歌っています。
 

 

 

    「僕たちの物語」
 
 笑みを浮かべた大きな瞳 長い髪に静かな笑みが
 ライラックの香りが漂っていた日 校庭で僕たちは出会った
*夜空の星と同じくらい たくさんの僕たちの物語
 風のように去るとしても いつまでも僕は忘れない*
 
 雨が好きで雨の中を歩き 雪が好きで 雪道を歩いた
 ガランとした喫茶店で向かい合い 夜遅くまで落書きもした
*~*
 
 
 「歌謡舞台」でパク・インヒの”焚き火”を歌っている画像です。
 

 

      「焚き火」
 
 焚き火をたいて 向かい合った
 私たちのおしゃべりは 終わるところを知らない
 人生は煙とともに灰だけを残して 
 静かに去っていく
 焚き火の如く
 燃え続け 消える瞬間まで
 私たちのおしゃべりは終わらない
 
 
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