goo

ジョー・スタッフォード、パイドパイパーズ ⑤「アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン」「ウィスパリング」

 

 

 

 フランク・シナトラ(Frank Sinatra)が1940年にトミー・ドーシー(Tommy Dorsey)楽団に加入し、パイド・パイパーズPied Pipers)とともに、トミー・ドーシー楽団の黄金時代が始まりました。

 トミー・ドーシー楽団はフランク・シナトラのヴォーカルをフューチャーした、”アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン(I'll Never Smile Again)”を1940年4月にリリース、6月に1位になり、12週間に渡り1位にランクされました。フランク・シナトラはソフトな甘い歌声で、当時女性ファンの人気がすごかったのが納得できます。

 

 

 

 トミー・ドーシー楽団とフラン・クシナトラ、パイド・パイパーズで"ウィスパリング(Whispering)"です。ウィスパリング(Whispering)"は1920年に作曲されたポピュラー・ソングで、ジャズのスタンダード・ナンバーになっています。ポップス・ファンにはニーノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンス( Nino Tempo & April Stevens)とシリアポール/大滝詠一のヴァージョンがお馴染みだと思います。

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

④ジョー・スタッフォード、パイド・パイパーズ「what Can I Say After I Say I'm Sorry 」「My ! My !」「

 

 

 トミー・ドーシー(Tommy Dorsey)楽団とパイド・パイパーズ(Pied Pipers)が1940年2月に録音した”what Can I Say After I Say I'm Sorry ”です。ビッグ・バンド黄金時代らしく、パイド・パイパーズのコーラスは2分過ぎから始まります。

 この曲は1926年に書かれたポピュラー・ソングで、ジャズのスタンド・ナンバーになり。エラ・フィッツジェラルド、ペギー・リー、オスカー・ピーターソンなど多くの人がレコーディングしています。

 

 

 

 トミー・ドーシー楽団とパイド・パイパーズが1940年3月に録音した”My!My! ”です。6月にヒット・チャートで13位にランクされました。 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ジョー・スタッフォード 、パイド・パイパーズ ③「What This Thing Called Love」「In a Little Spanish Town」

 

 

 パイド・パイパーズ(Pied Pipers)は1930年代後半に結成されたコーラス・グループで、女性歌手ジョー・スタッフォード(Jo Stafford)と7人の男性歌手で構成されていました。トミー・ドーシー(Tommy Dorsey)楽団のアレンジャーだったポール・ウェストン(Paul Weston)とアクセル・ストーダル(Axcel Stordahlがこのグループを聴き、トミー・ドーシーに推薦。1939年にパイド・パイパーズは楽団のメンバーになりましたが、六週間後楽団のスポンサーが異議を唱え解雇されました。

 パイド・パイパーズはカリフォルニアに帰り、ジョー・スタッフォードと男性3人のコーラスグループとして再出発しました。1939年後半にトミー・ドーシーから”4人組なら楽団のメンバーになってほしい”と伝えられ、シカゴに戻り楽団に復帰しました。

 UPしたのはトミー・ドーシー楽団に呼ばれ、シカゴで1939年6月にオクテット(8人組)時代に、レコーディングした”恋とは何でしょう(What This Thing Called Love)”です。オーケストラはトミー・ドーシー以外の楽団で、他に”Polly Wolly Doooie All the DAy””Sugerfoot Stamps””In A Little SpanishTown”を録音しています。コーラスが精緻で、ジョー・スタッフォードのヴォーカルはデビューの時から品格があって美しいです。

 

 

 

 1939年6月にレコーディーグした”In A Little SpanishTown”です。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ROSEMARY CLOONY 「THE LADY IS A TRAMP」「Tendary」 ローズマリー クルーニー 「ザ レディー イズ トランプ」 「テンダリー」」

 

 

 米国の女性ジャズ・シンガー、ローズマリークルーニーはヒット曲「テンダリー(Tendsrly)」をタイトルとする10インチレコードを1955年にリリースしました。
 UPした画像はそのレコードから「ザ・ レディー・イズ・トランプ(The Lady Is Tramp)」です。ギタープラスピアノ・トリオをバックに軽快にスウィングするロージーのヴォーカル。ジャズの楽しさに溢れています。   
 (Piano)  Stan Freeman   (Guiter) Mundell lowe   (Bass) Terry Sydner   (Drums) Jimmy Crawford
 
 
 アルバムのタイトル,1952年の全米ヒット曲「テンダリー(Tendary)」です・
   
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ジョー・スタッフォード Jo Stafford ② Pide Pipers "It Started All Over Again""Winter Weather"

 
 ジョ-・スタッフォードとパイド・パイパース、フランク・シナトラは、トミー・ドーシー楽団のバンドシンガーとして、1940年から3年間コンサートツアーやレコーディングを続けますが、1942年にトミー・ドーシー楽団を辞め、それぞれの音楽活動を始めます。 
 パイド・パイパーズはカリフォルニアに戻り、映画やラジオ・ショウに出演、作詞家のジョニー・マーサーなどが設立したキャピトル・レコードの、最初のコーラスグループになりました
 Upしたのは当時の映像から、”It Started All Over Again"です。気品と品格がありながら、堅苦しさのない、暖かで親しみやすいジョースタッフォードの歌と、パイドパイパーズのコーラスが素晴らしいです。
 ピアノ・トリオにヴァイオリン・チェロ・ハープなどが加わった楽団の演奏も豪華で、この時代の音楽の豊かさが伝わってきます。
 
 
 
 
 
 パイド・パイパーズとトミー・ドーシー楽団の"Winter Weather"(1942年)です。
      (Kann Dorao)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ジョー・スタッフォード Jo stafford ① Tommy Dorsey Orch. Pied Pipers "Manhattan Serenede""Ther's Such a Things"

 

 

  ジョー・スタッフォードは1917年生まれのアメリカの女性歌手です。ハイスクール時代に二人の姉とスタッフォード・シスターズ(Stafford Sisters)を結成し、ラジオや映画音楽のバックコーラスをしていました。

 スタッフォード・シスターズは1938年に、20世紀フォックスのスタジオで一緒だった他のコーラスグループのメンバーと、8人組の「パイド・パイパーズ(Pide Pipers)」を結成します。
 トミー・ドーシー楽団の編曲者だったポール・ウェストンは、彼らのコーラスを聴いて感心し、楽団のコーラスグループにすることをトミー・ドーシーに提案します。ポール・ウェストンは”パイド・パイパーズのサウンドはユニークで、コーラス・アレンジメントはオーケストラの楽器のようだった”と語っています。
 パイド・パイパーズはその後8人組から、ジョー・スタッフォードと男性3人の4人組になり、トミー・ドーシー楽団のコーラスグループとして活躍しました。
  ジョー・スタッフォードはトミー・ドーシー楽団で、コーラスだけでなく、ソロ歌手としてもレコーディングしています。
 Upしたのはジョー・スタッフォードとトミー・ドーシー楽団の”マンハッタン・セレナーデ~Manhattan Seranade”(1942年)です。ミュートを使ったトランペットの柔らかいサウンドとオーケストラのアレンジが素晴らしく、ジョー・スタッフォードの気品のあるヴォーカルに花を添えています。
 
 
 
  
 
 フランク・シナトラは1940年に、バンドシンガーとしてトミー・ドーシー楽団に加入しました。フランク・シナトラはトミー・ドーシー楽団で、1960年代のビートルズと同じように若い女性の人気を得ました。
 Upしたのはパイド・パイパーズがバックコーラスの"There Are Such Things"で、1942年に全米1位になりました。スウィートで夢見るような歌とコーラスに、うっとりとしてしまいます。    (Kann Dorao) 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ペギーリー ⑤ 「ハート」「君住む街角で」  Peggy Lee "Heart""on the Street Where You Live"

 
 
 ペギー・リーは1960年に、スタンダード・ナンバーやミュージカルの曲をラテンのアレンジで歌うアルバム『Latin ala Lee』をリリースしました。
 ペギーリーのソフトで軽くスウィングするヴォーカルはラテン・ナンバーにぴったりで、ジャック・マーシャルのアレンジも都会的で洒落ていて、ペギーリーのヴォーカルの魅力に花をそえています。
 このアルバムの成功で、続編のアルバム「Ola alaLee 」をリリースしますが、「Latin ala Lee」と同じく、スウィングする楽しさにあふれた好盤でした。
 UPしたのは「Latin ala Lee"から"Heart"です。
 
 
 
 
 
 
 ミュージカル「マイ・フェアー・レディー」から”君住む街角”です。ラテンのアレンジでもいいですね。   (Kann Dorao)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ペギー・リー Peggy Lee ④ "Just in Time" "It's a Wonderful World" ”The Folks Live on the Hill"

      

 

 

   ペギー・リーは1957年にキャピトル・レコードに移籍し、1972年まで多くのレコードをリリースします。ネルソン・リドル、ジャック・マーシャルなどのアレンジャーにも恵まれ、ペギー・リーのヴォーカルもますます脂がのって、アルバムとして1957年から1960年代前半までが最高の時代だったと思います。
 1957年にネルソン・リドルの美しいストリングス・アレンジで、アルバム「The Man I Love」をリリースします。スィングする曲だけでなく、バラードを歌っても素晴らしいペギー・リー。
 1959年にはネルソン・リドルのアレンジで、アルバム「Jump for Joy」をリリースします。前作とは変わって、スィングするビッグバンドに乗って、ペギー・リーがいきいきと歌います。
 Upした画像は「Jump for Joy」から"Just in Time"です。
 
 
 
 
 
 1959年にジャック・マーシャルのアレンジでアルバム「Things Are Swingin'」をリリースしますが、これまた「Jump for Joy」に優るともおとらない、スィングする楽しい傑作アルバムです。UPしたのは"It's Wonderful World"です。
 
 
 
 
  
 
  
 1957年の美しいバラード・アルバム「The Man I Love」から"The Folks live on the Hill"です。   (Kann Dorao)
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ペギーリー Peggy Lee ② "Why Don't you Do Right"

          

 
 
  ペギー・リーは1943年にベニー・グッドマン楽団をやめ、ソロ歌手になり、1943年には”Why Don't You Do Right"が100万枚売れるヒットとなりました。1944年にはキャピトル・レコードと契約し、1951年までに120曲以上の録音をしますが、なかでも1948年の”マニャーナ”は年間売り上げ1位のレコードになりました。
 
 UPしたのは当時の映像ですが、楚々たる趣のあったベニーグッドマン楽団の頃とは違う、20台半ばと思えない姉御肌の貫禄です。ブルージーでスイング感たっぷりのヴォーカルで、バックの演奏もいかしています。ギターはペギーリーの夫だったデイヴバーバーです。     (Kann Dorao)              
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ペギーリー Peggy Lee ③ "Mr. Wonderful"

 
 
 ペギー・リーは1952年にキャピトル・レコードからデッカ・レコードに移籍し、ジャズ歌手としてだけではなく、ポピュラー歌手、映画女優としても活躍します。映画音楽の”ジョニーギター”は日本でも大ヒットしました。ディズニーの”わんわん物語”では声優を、「Pete Kelly's Blues(皆殺しのトランペット)」ではアカデミー賞女優助演賞にノミネートされました。
 1952年~56年のデッカ時代には多くのレコードをリリースしました。「Blak Cofee」が日本では一番評価が高いですが、個人的には「Dream Street」が一番好きです。
 キャピトルに移った1957年以降も、未発表だった多くの録音がデッカから発売されました。"Misterr. Wonderful"は、アルバム「Miss Wonderful」(1959年)からで、ペギーリーのヴォーカルが表現力に富んでいて、優雅でロマンチックなムードに仕上がっています。    (Kann Dorao)

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ