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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑥ 朝鮮戦争前史 Ⅴ 麗水の反乱~38度線上での戦闘

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  麗水の反乱~38度線上での戦闘
 
  済州島の反乱が進行するなかで、はるかに大きな関心を集める出来事が起きた。実際に海外で報道されてもいる。最南部の港町「麗水(ヨス)」で、民衆の蜂起が起き、全羅南道や慶尚南道の(キョンサンナンド)のほかの地域へと広がり、韓国の土台を脅かすように思われた。
 
蜂起の直接的な原因とは、1948年10月19日、済州島への反乱鎮圧の任務を帯びた国軍第14連隊と第6連隊の隊員が、済州島への出動を拒否したことである。反乱鎮圧には若い将校らが協力したが、韓国軍の全部隊にアメリカ人顧問が配備されており、実質的にはアメリカ人が済州島民の反乱を鎮圧した。
 反政府勢力が麗水に続いて本土でも勢力を増強するに伴い、アメリカ人顧問は戦闘地域のあらゆるところにおいて、韓国軍に影のように寄り添い、指示をしていた。
 
 1年前には、時の経過とともに、韓国の反政府勢力の活動は盛んになるかに見えた。しかし1949年秋に大きな鎮圧作戦が始まるとおびただしい数の民衆が犠牲となった。アメリカは李承晩(イ・スンマン)大統領が国内の脅威を鎮圧できるかどうかを、自立性を試すリトマス試験紙と考えた。鎮圧がうまくいけば、アメリカの後押しによる封じ込め政策も成功すると考えた。
 
 北の38度線から遠く離れた全羅道の暴動が激しく、ここがアメリカの防御戦となった。この反乱・暴動について一般的に流布するものは、ソ連の後ろ盾がある北朝鮮が反乱部隊を外部から誘発し、李承晩政権は侵入者と戦っている一方で、アメリカは傍観しているというものだ。
 しかし証拠資料は、ソ連は韓国の反乱勢力に関与していなかったということ、北朝鮮が関係したのは韓国北部の江原道(カンウォンド)の反乱活動であった。
 
これに対し、関与していなかったかにみえるアメリカは、対ゲリラ掃討軍を編成して武器を装備させ、最良の情報資料を与えたうえ、戦闘計画を立て直接指揮したこともあった。
 結局、朝鮮の西南部地域では朝鮮戦争(1950年)以前に、政治的暴力で10万人以上の民衆が命を落とした。調査から外れた他の地域を含めれば犠牲者数は13万から20万人に上ると考えられる。
 
  
 
 
 
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韓国は国内の反乱と北朝鮮の脅威に対応して、急速に国軍を拡大した。1949年夏の終わりに国軍の兵力は10万人になった。夏以前、韓国は38度線を越えて数々の小規模な戦闘を仕掛け、北朝鮮は積極的に応戦している。
 境界線での重要な戦闘は1949年5月4日開城(ケソン)で始まった。以後6ヶ月続く境界線上の戦闘が始まる。
 
 この韓国での内戦は1945年の政治闘争に始まり、続く2年間で人民委員会をめぐる抗争として深刻化し、抗争が頂点に達して1946年秋に大規模な反乱が起き、やがて1948年~50年に南北の境界(38度線)付近における戦闘や、限定戦争へとエスカレートしていったのである。1950年6月の北朝鮮の侵攻はそれ自体がひとつの成就あるいは結末であり、これによって、外国の介入がなければ終結したであろう内戦はあらたな重要段階に達したのである。
 1950年6月25日は転換点であり、アメリカ人にとっては始まりとなった。日曜の朝の突然の出来事であったが、それはトルーマン大統領と、強固な反共主義者アチソン国務長官がそうなるように選択したからである。二人はアメリカがその5年前に設定した38度線を回復すべく、当初は限定戦争で対応しようとした。ところが間もなく、戦争遂行にあたっての制限がまったく見えない状況になってしまうのである。
 
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キム・ミンギ、ノ・ムヒョン、ノ・ムヒョン&ノ・チャサ ”常緑樹”

 
 
 
 今日5月23日は韓国元大統領ノ・ムヒョンの命日です。キム・ミンギ作詞作曲の”常緑樹”は、”朝露”とともに韓国の民主化運動を象徴する歌として人々に愛されています。ノ・ムヒョンの愛唱歌としても知られています。
 
 韓国のブログ「キム・ハクスンの書斎で」に”常緑樹”について詳しい記事が載っていました。
 
 1977年5月に軍から除隊したキム・ミンギは、富平の縫製工場に就職しました。倉庫業務を担当したキム・ミンギは、女工たちの厳しい労働環境と生活を目の当たりにします。工場で使われる簡単な英語でさえ読む事ができない女工たちのために、『朝学』(朝の勉強会)を始めました。女工たちはほとんど日々続く夜勤のため、「夜学」は不可能でした。それで思いついたのが『朝学』だったのです。
 その間キム・ミンギは一緒に生活した労働者たちの合同結婚式を取り持ち、祝歌を作詞作曲しました。友人のソン・チャンシクが作ってくれた歌も一緒に歌いました。
 それが多くの人々の心の琴線に触れて、勇気を奮い立たせた”常緑樹”です。
 ”常緑樹”はキム・ミンギが唯一目的を決めて書いた歌だといいます。その後この歌はヤン・ヒウンのアルバム7集に収録されました。しかし公式発売と同時に禁止曲になりました。
 ”常緑樹”は軍事独裁政権に抵抗した大学生たちの声で、労働者たちの声で、幾多の民衆の声で歌われながら青々と育ちました。
 ”常緑樹”は1987年の「6・10民主化抗争」の成果で禁止曲が解けました。
 1998年には韓国政府樹立50周年を記念して、IMF危機のために作ったテレビ広告で主題歌に使われました。2002年「3・1節記念式」の時は、ヤン・ヒウンによって祝い歌として歌われました。政府公式行事で大衆歌手が祝い歌を歌ったことは、初めての出来事でした。
 禁止曲、政府広報曲、公式祝い曲として燃え上がった”常緑樹”
 
   「常緑樹」
 
 荒野のあの青い松を見よ 誰に見守られるでもなく
 雨風吹雪が打ちつけようと この世の果てまで青く染める
 辛く苦しかったあの日々も 二度とは姿を現すなと
 汗を流そう 悟ろう 荒野の松となろう
*手にしたものは少なくとも 手に手をとって 涙を流せば
 我がいく道 遠く険しくとも 突き進み必ずや勝利する*
*~*
 
 
 
 
 

 

 
 2002年、ノ・ムヒョン大統領候補の象徴でもあった”常緑樹”。ノ・ムヒョンがギターを弾いて直接歌う選挙広報映像が大きな反響を呼び、大統領就任式で”常緑樹”はさらに多くの人々の胸を打ったのでした。この歌はノ・ムヒョンの心の中で、永遠の青さを保つ常緑樹のように位置していたのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 人間ノ・ムヒョンの魂が込められた”常緑樹”は、彼の逝去とともに国民の胸に深く根を下ろし、追慕最後の夜と、ソウル広場の葬祭の時に絶頂に達したのでした。”常緑樹”は寒い冬であればあるほど、もっともっと青々さを誇る樹であるように。
 
 この画像「ノ・ムヒョンのためのレクイエム」は、3周忌を記念して2012年9月に発売された追慕アルバムからです。
 ノ・ムヒョンの歌の後に、フォークグループ「ノチャサ」とチャン・ピルスンがドラマティックに歌い上げています。
 
 
 
 
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ノチャサ/アン・チファン”清算を叫び呼べば” 「人が生きる世の中」 人が生きる世の中を壊すTPPに反対します

 
 
 
 
 「人が生きる世の中」とは本質的で自然な言葉ですが、「人が生きる世の中」は容易なことではありません。資本主義が高度に発展した「新自由主義」の名のもとに、巨大企業(資本)が国(政治家)と国民の上に立つ、”人々が生きにくい世の中”の嵐が韓国でも日本でも欧米でも吹き荒れています。人の命(医療、食料)も、戦争と平和もすべて資本が決めてしまう世の中になってしまいました。お金が最優先される世の中は人々が最も生きにくい世の中です。
 日本でもTPPが成立したら、日本の金融・保険・医療・教育・農業・インフラなど多くの分野が、欧米の巨大企業(資本)に支配されるようになってしまいます。
 TPPの具体的な内容や『ISD条項』の恐ろしさについて、マスコミ(テレビ・新聞など)は一切報道しません。国民にとって都合の悪いことを報道しないのが、現代日本のマスコミの姿です。
 
 今日5月23日は韓国元大統領、ノムヒョンの命日です。
 
 ノ・ムヒョンの座右の銘は「人が生きる世の中」です。それははどのような世の中なのでしょう。
 
 
  ノ・ムヒョンが考える「人が生きる世の中」とは
 
 
  人が先にある世の中
 国民が主人公である世の中
 子供達に恥ずかしくない世の中
 普通の人の常識が正義になる世の中
 自分の選択に責任を負う世の中
 真実が偽りに勝つことができる世の中
 お金が人より大切でない世の中
 
 ノムヒョンの演説より
 
 「人が生きる世の中」は、私がサインを求められるときその言葉を常に書き加えます。私が考える「人が生きる世の中」というスローガンは本質を集約しています。
  人が人として尊敬される社会、これは自由と平等, 人権とデモクラシーを含む概念だと思います
  もっと重要なことは、人が人の役割をして暮す社会です。道理をつくす人間, 主権を行使する国民。これが私は人間の役割だと思います
 
 
 文京洙(ムン・ギョンス)著の「韓国現代史」(岩波新書)を読んでいます。日本人の私には想像できないほどの過酷な現代史です。その中でもノ・ムヒョン大統領の大きな実績は、葬られた過去に光をあてた、過去の歴史を清算する行動に出たことだと思います。
 
 画像の歌はノチャサの”清算を叫び呼べば”(2007年KBS開かれた音楽会から)は削除されましたのでアルバムからです。詩人ヤン・ソンウの詩。
 
     清算を叫び呼べば
 
 清算を叫び呼べば 私すでに去って 私は長い死の時代
 夢もなしに横になってから
 私はすでに大きい川を越えて去ったと答えなさい
 その深い所へ魂の叫び その丘の所へ民主の痛恨の苦痛
 私の小さなこの身歴史に捧げて闘うと愛しようぞ
 清算を叫び呼べば 私すでに去って
 土埃、灰を使ってあなたといて土地を助けて
 新しい夜明けの霧の中に発ったと答えなさい 
 
清算とは (明るさ、希望の世界、政治的圧制の鎖から解放されること、自由、民主、平和がおとずれること)
 
私とは (現実に抑圧されて、自由をも失した民衆)
 
長い死の時代とは (独裁政権の不幸な現実、朴(パク)・全(チョン)大統領の軍事独裁時代の世の中)
 
夢もなしに横になってからとは (未来を見ることができず、あきらめながら暮らす絶望的な姿)
 
私はすでに大きい川向こう (暗い死の時代を壊そうとする長い闘いに参加する)
 
 
 
 
 
 アン・チファンの”清算を叫び呼べば”。ノムヒョンの人柄が偲ばれる画像です。
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ヤン・ヒョンギョン&ヤン・ハヨン ”引越しした日~夜雨”

 

 

 男女混声デュオの「ペタラギ」のメンバー、ヤン・ヒョンギョン(左の人)と、女性フォークシンガー、ヤン・ハヨン(右の人)のデュエットで”引越しした日~夜雨”。
 この曲は1970年代の女性デュオ「サンイスル」の曲です。今だ現役の歌手たちに、1970~80年代のフォークが歌い継がれている韓国。頼もしいと思うと同時に羨ましく思います。韓国フォークのともし火がなくならないようにと願います。
 ヤン・ヒョンギョンは仁川で「開かれた音楽会」というカフェを経営し、自身もライブをしているそうです。ヤン・ハヨンは1963年生まれの52歳。これからもずっと韓国フォークを歌い続けてほしいです。
 
  夜雨

 降ってる夜雨はきれいなあなたの心
 乾いた私の心濡らしてくれるのね
 雨したたり落ちるあなたの声
 さびしい窓際で私を呼ぶのね
 *雨よ、雨よきれいな雨よ一晩降って
 恋しい私の心が終りがないように降って下さい
 夜雨よ一晩降って

 風は吹いて夜雨、風のように
 雨窓をたたくのに
 寂しく灯りをともして待つのあなたを
 この夜も奥深く夜は深いのに

 
 
 
 
   オリジナルを歌ったサンイスルは1974年にデビュー、1975年にアルバム「最後の残ったこと」をリリースしました。パク・ギョンエとチュ・ジョンイの二人組み。
 
 サンイスル”夜雨”
 
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キムチケッ(キムチキャッツ)、シル・オースティン、小林旭 ”黒い傷あとのブルース”

 
 
   大好きな韓国の女性デュオ「チャップンハナ」が、KBSTV「歌謡舞台」で歌った”黒い傷あとのブルース”を聴いて、オリジナルを調べると1960年代の「キムチケッ(キムチキャッツ)」という女性デュオの歌でした。日本のザ・ピーナッツを思わせるハーモニーが気に入りました。ビッグバンドジャズで洒落たアレンジもいいですね。韓国ドラマ「トライアングル」の中で歌われていたということです。
 画像を見ると香港や東南アジアで旋風を巻き起こすくらい大人気だったようです。
 
     
     黒い傷あとのブルース
 
 あなたは私を捨てて 誰のところに行ったの 心の傷 癒すすべもない
 *消え去った美しい愛の影
 情熱のバラ色の愛も 黒い傷の苦しみも 心の奥底に 悲しみを残した
 あなたよ 今夜も私はすすり泣いている*
 
 
 
 
 
 
 
 キムチケッの”黒い傷あとのブルース”は外国の翻案曲でしたので、調べると魅惑のムード・テナー奏者シル・オースティンの”黒いきずあとのブルース(Broken Promises)”に韓国の歌詞をつけた歌でした。作曲者はジョン・シャハテル。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    1961年の日活映画「黒い傷あとのブルース」主題歌。小林旭と吉永小百合の共演です。観てませんが二人の共演はどうだったのでしょう。吉永小百合は清純なバレリーナのようです。
 「黒い傷あとのブルース」映画の詳細はこちら http://movie.walkerplus.com/mv20379/
 チャップンハナの韓国音楽から始まり、魅惑のムード・テナー、日活映画までたどりついた音楽の旅。面白いです! 
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