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チョ・グァヌ ”あなたが恋しい(懐かしい)” (人が生きる世の中ノ・ムヒョン追悼5回忌ミニアルバム

 
 
  いい歌ですねぇ。
 故ノ・ムヒョン大統領の5周忌を追慕した散文集”あなたが恋しい(懐かしい)”がつくられました。これは政治家、大学教授、作家、詩人など22人がそれぞれノ・ムヒョンに対する想いを描いたものです。テーマ曲をチョ・グァヌが歌いました。
 故人を想い偲ぶ歌”あなたが恋しい(懐かしい)”を作曲したキム・アヨンは、”怒りや悲しみなど激しい感情より、日常を生きる残された人々のおぼろげで弱弱しい恋しさをそこなわないように表現した”と語りました。
 ”慰労”という意図を十分にいかしたメロディに一編の詩のような歌詞、チョ・グァヌの繊細な声で深い余韻が残ります。”感情移入がよくできるテーマ曲であるだけにその意図をいかすように努力した”とチョ・グァヌは答えています。
 
 
 ノ・ムヒョンの座右の銘  「人が生きる世の中」はどのようなことでしょう。映像のなかにその答えがあります。
 
 
  私(ノ・ムヒョン)が考える「人が生きる世の中」とは
 
 
  人が先にある世の中
 国民が主人公である世の中
 子供達に恥ずかしくない世の中
 普通の人の常識が正義になる世の中
 自分の選択に責任を負う世の中
 真実が偽りに勝つことができる世の中
 お金が人より大切でない世の中
 
 
  曲の中で流れるノ・ムヒョンの演説です。
 
 
  「人が生きる世の中」は、サインを求められるときその言葉を常に加えます。私が考える「人が生きる世の中」というスローガンは本質を集約しています。
  人が人として尊敬される社会、これは自由と平等, 人権とデモクラシーを含む概念だと思います
  もっと重要なことは人が人の役割して暮す社会です。道理をつくす人間, 主権を行使する国民。これが私は人間の役割だと思います

 
    ”あなたが恋しい”
 
 
 窓を開けたとき恋しい
 風は花を咲かせるために吹く 
 夜明けの雨のため
 花びらは地面に落ちた
 あなた 私の美しいあなた
 あなたは涙が風の中を流れるように美しい
 *ある日ある瞬間にわかったのです*
 青い鳥が鳴き声で私はあなたの声を聞くことができたため
 *~*
 落ちた花びらの上にあなたの名前を見ることができたため
 5月の窓の外 花風吹き 青い鳥が鳴き
 背を向けた影があなたのように思える 
 まだ窓を閉めることができません
 5月の太陽が美しく輝いたある日
 美しいあなたは蜃気楼の夢だったのですか
 あ~花風の中にあなたはいるのですか
 青い山中の夜明けの霧の中にあなたはいるのですか
 今日はあなたに会いたい
 今日はあなたが恋しい
 
 
 
  12月19日に韓国で「統合進歩党」が、理不尽に解散させられる出来事がありました。有権者によって選ばれた国会議員も輩出している党です。まるで1970年代の軍事独裁政権時代に逆戻りしたかのような「統合進歩党」解体の事件に、"ああ韓国の民主主義は終わりつつあるのか"と思ってしまいました。
 でもまだ芸能人の中に、民主主主義を支持し続けるチョ・グァヌやイ・スンファン、俳優のミョン・ゲナムがいることはとても心強いし、ノ・ムヒョンの”人が生きる世の中”をめざす人々は韓国民の中にはまだまだ大勢います。がんばってほしいです。
 
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チョ・グァヌ  イ・スンファン  ミョン・ゲナム
 
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セシボン文化 「ユン・ヒョンジュの”セシボン、私たちの話”より」②  ドビド ”友” ヤン・ヒウ

 
 キム・ミンギ作”小さな池”ヤン・ヒウン
 これら音楽鑑賞室から1970年代の熱いフォーク文化の息吹を感じることができます。
 
 
 
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セシボン仲間 
下左ユン・ヒョンジュ、下右ヤン・ヒウン、真ん中左ソン・チャンシク、真ん中右キム・セファン,上左イ・ジャンヒ、上中央チョ・ドンジン、上右チョ・ヨンナム
 
 
 ユン・ヒョンジュ「セシボン、私たちの話」(朝鮮日報コラムより)
 
 1968年春の事だ。いつものようにソウル音楽鑑賞室 「セシボン」に座っていた。特に人が多い一日だった。200席余りの室内に 300人近い観客がいた。 椅子が足りなくて補助椅子をいっぱい置いた。 普段の時と違いセシボン入口には ”未成年者と高高生入場不可”の立て札が付いていた。その日のプログラムは前衛芸術が予定されていた。
 時間になると現代音楽家ジョン・ケージの音楽が流れた。女性一人が舞台に歩いて出た。ランニングシャツとタイツの身なりだった。頭には白いマフラーを巻いた。他の男たちが出てきて刀でランニングを裂いてタイツを脱がせた。パンティーとマフラーだけ残った。代わりに透明風船で身をくるんだ。この間女性は始終ほほ笑みを失わなかった。急に男たちがその女性の風船めがけて飛びかかった。全身の風船が割れた。上半身を完全に現わしたヌードの彼女だけが立っていた。室内は静かだった。観客たちは拍手することも忘れた。
 ミニスカートを着るだけで皆が眺める時代だった。当時一新聞社は ”奇妙で狂ったような事を繰り返す青年作家たちがした事”と報道した。さらに ”文化的テロリスト”とも言われた。前衛芸術家チョン・カンジャの ”透明風船とヌード”と言うパフォーマンスだった。チョン・カンジャは当時 25歳。”現場に取材にきた記者が ”脱いではいけない”と引き止めても、すべて脱ぐ覚悟で舞台に立った。30年近くたった1997年彼女は朝鮮日報に寄稿した文でこんな事を書いた。”30年前の音楽感想室 「セシボン」を思えば今も胸が震える。そこは今まで熱病に浮き立った人のように暮して来た私の芸術人生を生んだ母のような所だ”

 そうだ、「セシボン」は単純な音楽感想室ではなかった。ギター音楽の誕生の役目ばかりではなかった。私が憶える青年文化の最初集結所が「セシボン」だった.。金大中(キム・デジュン)前大統領、有名マンガ家、清凉里精神病院長、前国会副議長, 前将軍などが舞台に立って青年たちと討論した。詩人や文壇の巨匠たちが詩を朗唱して観客たちと対話を交わした。大学生が主役になることができる唯一の文化空間が「セシボン」だった。

 「セシボン」は 1953年ソウル明洞(ミョンドン)で初めてオープンした。最初主人が誰だったかは確かではない。その後イ・フンワンが引き受けて忠武路と小公洞を経て瑞麟洞に腰を据えた.。そこで今私たちが分かっている ”セシボン時代”を開くようになる。
 セシボンが大学生文化空間で位置づくようになったのは、オーナーのイ・フンワンの役目が大きかった。セシボンを運営する彼の哲学は確固だった。酒は絶対持ち込み禁止だった。酒に酔った人も、暴力を使う人も出入り禁止だった。たまに酒に酔った人が入場しようとする、乱動をしようとする人がいると、大男のイ・フンワンが ”かつぐか””お酒飲んだの?”と言えばそれで終わりになった。

 多様なプログラムも積極的に進めて他の音楽鑑賞室たちを圧倒した。明洞には芯喫茶店と皇室喫茶店, シボネが, 武橋洞にはヨン喫茶店が, 光化門近くにはアカデミー音楽鑑賞室と金蘭喫茶店が, 鐘路にはデ-スェネとルネサンス, アポロなどの音楽鑑賞室がお互いに競争した時代だった。この内セシボンぐらい、多くのプログラムを保有した所はなかった。
 セシボンはソン・チァンシクがデビューした舞台である ”大学生の夜”から ”星占””名詞招待席””三行詩文章大会”など多くのプログラムを進行した。”新曲合評会”も開かれた。アルバムを録音する前に観客反応を見る時間だった。既成の歌手らが、楽団やピアノ伴奏で歌を歌って評価を受けた。
 
 フォークデュオ「ツインフォリオ」の前はセシボントリオで活動した。1967年10月に結成しメンバーが軍に入隊し、1月に解散、長続きはしなかった。PDが二人でやればといい、ソン・チャンシクと二人で「ツインフォリオ」を結成。私たちは当時20歳、楽しかった。ラジオ番組は夜の11時に始まり、終ると12時が過ぎて”通行禁止”(当時は戒厳令がひかれていた)で家へ帰れずセシボンで寝た。私たちはクリフ・リチャード、ビージーズ、ハリー・ベラフォンテや、童謡や歌謡曲も歌った。”白いハンカチ”がヒットして歌謡曲のパティ・キム、イ・ミジャ、ナム・ジンらと一緒に出演もした。1968年冬はツインフォリオの絶頂期だった。
 セシボンに初めて足を踏み入れたのは1967年。多くの人に出会った。チョ・ヨンナム、イ・ジャンヒ、ヤン・ヒウン、キム・セファン、キム・ミンギ、ハン・テス、チョン・ユソン、ソ・ユソク、1960年代に始まったギター文化を一緒にわけた人々だ。その中でもソン・チャンシクは20代の一番長い時間を一緒に過ごした。1960年代1万ウォン持っていればそのお金は私のお金ではなく、私たちのお金だった。そんな心で歌も喜んで分けあった。
 
 
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セシボン文化 「ユン・ヒョンジュの”セシボン、私たちの話”より」②  ドビド ”友” ヤン・ヒウ

 
 
  ”チング”は1970年のフォーク・デュオ「ドビド」の歌です。「ドビド」はキム・ミンギがソウル大美大に入学して、友人キム・ヨンセと作ったフォークデュオです。1960年代終盤から音楽鑑賞室(ライブハウス)「セシボン」始め、いくつもの音楽鑑賞室ができました。ドビドはYWCAの集まり場、「雨蛙」のメンバーとして歌っていました。浪人中だったヤン・ヒウンはそこでキム・ミンギと出会いました。
 
 
 
 
 キム・ミンギ作”小さな池”ヤン・ヒウン
 これら音楽鑑賞室から1970年代の熱いフォーク文化の息吹を感じることができます。
 
 
 
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セシボン仲間 
下左ユン・ヒョンジュ、下右ヤン・ヒウン、真ん中左ソン・チャンシク、真ん中右キム・セファン,上左イ・ジャンヒ、上中央チョ・ドンジン、上右チョ・ヨンナム
 
 
 ユン・ヒョンジュ「セシボン、私たちの話」(朝鮮日報コラムより)
 
 1968年春の事だ。いつものようにソウル音楽鑑賞室 「セシボン」に座っていた。特に人が多い一日だった。200席余りの室内に 300人近い観客がいた。 椅子が足りなくて補助椅子をいっぱい置いた。 普段の時と違いセシボン入口には ”未成年者と高高生入場不可”の立て札が付いていた。その日のプログラムは前衛芸術が予定されていた。

 時間になると現代音楽家ジョン・ケージの音楽が流れた。女性一人が舞台に歩いて出た。ランニングシャツとタイツの身なりだった。頭には白いマフラーを巻いた。他の男たちが出てきて刀でランニングを裂いてタイツを脱がせた。パンティーとマフラーだけ残った。代わりに透明風船で身をくるんだ。この間女性は始終ほほ笑みを失わなかった。急に男たちがその女性の風船めがけて飛びかかった。全身の風船が割れた。上半身を完全に現わしたヌードの彼女だけが立っていた。室内は静かだった。観客たちは拍手することも忘れた。

 ミニスカートを着るだけで皆が眺める時代だった。当時一新聞社は ”奇妙で狂ったような事を繰り返す青年作家たちがした事”と報道した。さらに ”文化的テロリスト”とも言われた。前衛芸術家チョン・カンジャの ”透明風船とヌード”と言うパフォーマンスだった。チョン・カンジャは当時 25歳。”現場に取材にきた記者が ”脱いではいけない”と引き止めても、すべて脱ぐ覚悟で舞台に立った。30年近くたった1997年彼女は朝鮮日報に寄稿した文でこんな事を書いた。”30年前の音楽感想室 「セシボン」を思えば今も胸が震える。そこは今まで熱病に浮き立った人のように暮して来た私の芸術人生を生んだ母のような所だ”

 そうだ、「セシボン」は単純な音楽感想室ではなかった。ギター音楽の誕生の役目ばかりではなかった。私が憶える青年文化の最初集結所が「セシボン」だった.。金大中(キム・デジュン)前大統領、有名マンガ家、清凉里精神病院長、前国会副議長, 前将軍などが舞台に立って青年たちと討論した。詩人や文壇の巨匠たちが詩を朗唱して観客たちと対話を交わした。大学生が主役になることができる唯一の文化空間が「セシボン」だった。

 「セシボン」は 1953年ソウル明洞(ミョンドン)で初めてオープンした。最初主人が誰だったかは確かではない。その後イ・フンワンが引き受けて忠武路と小公洞を経て瑞麟洞に腰を据えた.。そこで今私たちが分かっている ”セシボン時代”を開くようになる。
 セシボンが大学生文化空間で位置づくようになったのは、オーナーのイ・フンワンの役目が大きかった。セシボンを運営する彼の哲学は確固だった。酒は絶対持ち込み禁止だった。酒に酔った人も、暴力を使う人も出入り禁止だった。たまに酒に酔った人が入場しようとする、乱動をしようとする人がいると、大男のイ・フンワンが ”かつぐか””お酒飲んだの?”と言えばそれで終わりになった。

 多様なプログラムも積極的に進めて他の音楽鑑賞室たちを圧倒した。明洞には芯喫茶店と皇室喫茶店, シボネが, 武橋洞にはヨン喫茶店が, 光化門近くにはアカデミー音楽鑑賞室と金蘭喫茶店が, 鐘路にはデ-スェネとルネサンス, アポロなどの音楽鑑賞室がお互いに競争した時代だった。この内セシボンぐらい、多くのプログラムを保有した所はなかった。

 セシボンはソン・チァンシクがデビューした舞台である ”大学生の夜”から ”星占””名詞招待席””三行詩文章大会”など多くのプログラムを進行した。”新曲合評会”も開かれた。アルバムを録音する前に観客反応を見る時間だった。既成の歌手らが、楽団やピアノ伴奏で歌を歌って評価を受けた。
 
 フォークデュオ「ツインフォリオ」の前はセシボントリオで活動した。1967年10月に結成しメンバーが軍に入隊し、1月に解散、長続きはしなかった。PDが二人でやればといい、ソン・チャンシクと二人で「ツインフォリオ」を結成。私たちは当時20歳、楽しかった。ラジオ番組は夜の11時に始まり、終ると12時が過ぎて”通行禁止”(当時は戒厳令がひかれていた)で家へ帰れずセシボンで寝た。私たちはクリフ・リチャード、ビージーズ、ハリー・ベラフォンテや、童謡や歌謡曲も歌った。”白いハンカチ”がヒットして歌謡曲のパティ・キム、イ・ミジャ、ナム・ジンらと一緒に出演もした。1968年冬はツインフォリオの絶頂期だった。
 
 セシボンに初めて足を踏み入れたのは1967年。多くの人に出会った。チョ・ヨンナム、イ・ジャンヒ、ヤン・ヒウン、キム・セファン、キム・ミンギ、ハン・テス、チョン・ユソン、ソ・ユソク、1960年代に始まったギター文化を一緒にわけた人々だ。その中でもソン・チャンシクは20代の一番長い時間を一緒に過ごした。1960年代1万ウォン持っていればそのお金は私のお金ではなく、私たちのお金だった。そんな心で歌も喜んで分けあった。
 
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セシボン文化「ユン・ヒョンジュの”セシボン、私たちの話”より」① ソン・チャンシク 「鯨狩り」

 
 1975年発売禁止曲になったソン・チャンシク”鯨狩り”。1971年ソン・チャンシクの1集アルバム収録曲です。
 今はもう無くなったソウル武橋洞にあった『セシボン(C'est Si Bon)』は、韓国で最初にできた音楽鑑賞室(ライブハウス)です。このセシボンからソン・チャンシク、ユン・ヒョンジュ、キム・セファン、チョ・ヨンナム、イ・ジャンヒなど「フォーク第1世代」のスターが輩出されました。
 
  ソン・チァンシクは朝鮮戦争で父が戦死して, 母も行方不明になり祖父母のもとで不遇な学生時代を過ごしました。ソウル芸術高校を卒業して、1967年ふらりとセシボンに現れて歌曲を歌い喝采を浴びてデビューしました。医大生のユン・ヒョンジュとフォーク・デュオ「ツインフォリオ」を結成して、1968年」「ツインフォリオ1集アルバム」を発売、ナナ・ムスクーリの翻案曲”白いハンカチ”で歌謡界にデビューしました。男性フォークデュオの元祖として大学生から多大な人気を得ます。
 人気絶頂の中、1969年にツインフォリオを解散して、翌年の1970年にソロ歌手に転向して大成功します。1974年に”笛を吹く男”で大きな人気を博しました。1975年にもヒット曲を出し歌謡祭でさまざまな賞を受け、しばらく歌謡界を掌握しました。1978年には3年連続で「MBC10代歌手賞」を受賞しました。
 
   鯨狩り
 
 お酒を飲んで歌と踊りを踊ってみても 胸には一ついっぱい悲しみだけだね
 何をしようかと 見回しても見えるのは すべて背を向けている
 さあ行こう 東海の海へ 3等3等普通列車 汽車に乗って
 昨夜に見た夢の世界は朝に起きたら忘れるが
 それでも思い出す夢の一つは 小さくてきれいな一匹の鯨
 さあ行こう  東海の海へ 神話のように息をする鯨取りに
 私たち愛が終るとしても すべてのものをいっぺんに失うとしても
 私たち胸の中には残っている 小さくてきれいな一匹の鯨
 さあ行こう  東海の海へ 神話のように息をする鯨を捕りに
 さあ行こう  東海の海へ 神話のように息をする鯨を捕りに
 
 
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 ユン・ヒョンジュ「セシボン、私たちの話」(朝鮮日報コラムより)
 
 「セシボン」は大きくなかった.。ソウル武橋洞に位置した小さな音楽鑑賞室(ライヴハウス)だった。しかしそこで私の若い日が始まった。「セシボン」と一緒にギター文化も始まった。私の中でギター文化元年は 1968年だ。その年,チョ・ヨンナムは”ディライラ”(トム・ジョーンズのカバー曲)を歌って一躍スターになった。ツインフォリオが結成され、継いで、ハン・テスが”水はいくつかの住所”を歌って、韓国情緒がたっぷり込められたフォークソングの時代を開いた。
 
 ギターひとつ抱えてて舞台に上がった私たちは当時としては不慣れな姿だった。舞台なら適当に楽団がなければならない。観客が見るのに私たちはとても身軽だった.。しかし感性をありのまま率直に伝えた私たちの音楽に、多くの人々が呼応し始めた。ギター文化はただ音楽にだけ限定された文化ではなかった。小説家、映画監督、時事マンガ家画家、前衛芸術家など多くの分野で同じ考えを共有した人々が同時多発的に活動した。
 
 セシボンに引き続き、明洞(ミョンドン)で「オービスキャビン」(コンサートホール)の時代に繋がり、YWCAでの集まりでは、キム・ミンギ、ソ・ユソクなどが集まって意識あるフォークソングを作った。 そして 1970年代「ツーコリンズ」「シェグリン」「4月と 5月」「ツーエース」「エボニス」「トゥルダソッ」などフォーク・デュエットが爆発的に増えた。「オニオンズ」を通してはじめて、ギター文化はただの若者文化から、大衆に受けるヒット歌謡として大きな人気を博した。
  
 しかしそこまでだった。1975年12月の「マリファナ騒動」を経験して、ギター文化は断絶してまった。4年後にギター文化の主役たちの活動禁止が全面解除されたが, すでに時間はたくさん過ぎていた。ギター文化は自ずと忘れられた。
 ギター文化に共感した人々も自分の思い出を忘れて行った。思い出を何度もじっくり考えるには忙しすぎる時間だった。私たち世代は熱心に前だけ見て駆けて来た世代だ。政治的激変をくぐって経済成長のために目まぐるしく働いて来た世代だ。たまにギター文化が取り上げられても私たち世代は多くの関心を寄せなかった。
 
 2010年MBCのTV 番組にソン・チャンシク、キム・セファン、チョ・ヨンナムとともに出演した時、初めて忘れられたギター文化が大きい関心を集めた。彼らといっしょに私たち世代は自分の思い出を取り戻した。私はいつもコンサートで言うことがある. ”このコンサートは思い出の宝石箱”と。
 セシボンコンサートは長年タンスの奥に閉った「思い出の宝石箱」を開いて、ほこりの積もった宝石を一つ一つ拭きながら、自分の思い出がどんなに大切なものなのかを反芻する席になった。その舞台に私の役目があるということ、今日までその世代の前に立って歌うことができるということ、まだ私の歌が愛されているということは大きい祝福だった。
 
ツーコリンズhttp://youtu.be/E7zMbZhqvPs
シェグリン 
キム・ミンギ 
四月と五月 
トゥルダソッ 
オニオンズ
 1970~80年代の音楽にスポットを当てたKBSTVの歌番組「コンサート7080」が2004年から始まりました。この番組が韓国フォークの再評価に大きな影響を与え、「セシボン」人気に繋がったのかもしれません。
 

 
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イ・ジョンヨン 「君(ノ)」

 

2007年2月17日「コンサート7080」より

 
 
 最近はKBSTV「全国のど自慢」や「歌謡舞台」でしか、韓国音楽に接することができなくなりました。先週の「全国のど自慢」で、イ・ジョンヨンの”君”を、どう見てもトロットを歌いそうな中年男性がとても気持ちよく歌っていたのが印象深くて、観ていて私も楽しくなりました。
 ”君”は1975年に大ヒットして12月には大賞に輝いた歌です。フォーク歌手イ・ジョンヨンは現在牧師で、アメリカ、ロサンゼルスの教会で教会活動を行っています。
 
    君
 
 落ち葉舞うあの森で 青い海辺で 震える手をにぎってくれた君
 星影のような瞳で 永遠を約束し 僕のため祈りを捧げていた君
*微笑み目を閉じた君 僕の元を去った後 孤独なジプシーのように
 夜を焦がした無数の日々 今日も思い出の中を彷徨い 
 疲れ果てた蒼白な僕の魂*
 風に吹かれて 雨音が遠くで 忘れてしまった君の声
 乱れた髪を銀色のようになびかせて 立ち戻った君の昔の面影
 *~*
 
 韓国ドラマ・韓国音楽で韓国の歴史を知れば知るほど、もっと生々しく韓国を感じることができます。
 1975年に大ヒットした”君”が愛唱歌だという韓国ブログの方の記事で、『1975年の韓国』が掲載されていました。その年の政治や文化の様子がよくわかりました。大変な歴史です。
 
 
 1975年の韓国(韓国ブログから抜粋)
 
 現代史の中で 1975年は特別な年です。1975年は軍事独裁の朴政権の抑圧と恐怖政治が、さらに大きく動き始めた時期です。
 新年初頭から朴大統領は「維新憲法賛否国民投票」を強行して、野党は投票拒否で, 学生たちはデモで対立しました。
 3月には白紙広告で抵抗した「東亜日報」が発行禁止になり、4月には高麗大学に休校を命じて軍隊が進入する「緊急措置 7号」が宣布されました。人民革命党事件関連者たちに対する宣告公判に引き続き、4月 9日にはこれら 8人に対する死刑を執行しました。
 4月の最後日ベトナム戦争敗北が伝わり、全国で「官制反共決起大会」につながりました。
  5月には '維新憲法を不正·反対·歪曲または誹謗する、その改訂または廃止を主張·請願·煽動または宣伝する行為を禁ずる'「緊急措置 9号」が宣布されました。.
 6月にはソウル大で学徒護国団が結成され、7月には防衛税が新設されて、9月には汝矣島(ヨイド)国会議事堂が竣工されました。
 同じく9月には「民防衛隊」が発足しました。韓国男性の中で予備軍訓練を終えた現役や、補充役や第2国民役を終えた 20歳から 50歳までの全員を対象'にしたこの新兵役制度は、大学に入ることができなかった高校卒業生たちにも編制されました。小学校で開かれた発起式に中年たちとともに参加しながら、僕(韓国ブログの筆者)はこの制度に毒づきながらもそこにいました。
 12月には仏教徒の護国僧軍団発起式がありました。「軍事政権の下で戦時中のような安保動員体制, すなわち仏教徒も僧兵体制で転換させたこと」という評価を受けたりもしました。16世紀壬辰倭乱(文、慶長の役)当時の僧兵を思い浮かぶこの制度を通じて、朴大統領は永久政権と兵営国家の夢を実現しようと思ったのでしょう。
 しかしおよそ 40余年ぶりに確認するこの現代史の大事件は、当時20歳の高校卒業生には不慣れなことでしかなかった。20歳の青年にとって1975年は、将来への希望と絶望の交錯だけでした。

 1975年で浮び上がるのはむしろ政治社会的事件ではなく、文化や芸能記事が先に出ます。 韓国芸術文化倫理委員会がほしいままにした『大衆歌謡弾圧』は、おおよそ230余曲を禁止曲にしました。倫理委員会が明らかにした禁止理由は、否定的な歌詞・暗い歌、退廃風潮助長, などたやすく納得できないものでした。
 シン・ジュンヒョンバンドが歌ってまさに国民歌謡になった”美人”、ソン・チァングシクの”鯨狩り”は言うまでもなくて、キム・チュジャ”嘘だ”、イ・ジャンヒ”それは君”など、過ぎ去ったヒット曲たちさえ禁止曲判定をもらいました。この禁止曲判定は単純に放送禁止だけではなく生産と流通、公演まで全面禁止することで歌謡界を凍りつかせました。
 
  1975年を飾った最後のハイライトは、12月初めの「マリファナ喫煙芸能人拘束事件」でした。拘束された芸能人は歌手シン・ジュンヒョン、イ・ジャンヒ、ユン・ヒョンジュ、チャン・ヒョン、キム・チュジャなど 18人でした。シン・ジュンヒョンは”美人”を国民歌謡級でヒットさせましたが、禁止曲判定をもらったので監獄に行かなければなりませんでした。
 
 ”君”を歌って8ヶ月連続 1位歌手で、12月3日に黄金トロフィーを受ける事になった歌手イ・ジョンヨンはトロフィーの代わりに逮捕されてしまいました。
 イ・ジョンヨンが歌った”君”は 1975年を飾った歌でした。魅力的なこの歌を僕はかなり楽しんで歌っていました。
 僕は高速道路で仕事をし、夕方には簡易停留場の下にいる運転手食堂で同僚労動者たちとマッコリを飲みました。お酒を飲みながら、おはしでチャンチキチとに歌を歌うのが自然だった時代でした。僕たちはたまにお酒に酔ってその頃の流行歌を合唱したりしましたが、僕が歌った歌の中では”君”が断然ずば抜けた歌だったのです。
             (韓国ブログから抜粋)
 
 1975年の一番のヒット曲”君”を歌ったイ・ジョンヨンが一番最初にマリファナで捕まりました。180日間拘束され、イ・ジョンヨンは最後まで無実を訴えました。元々キリスト教の信者だったのですが、拘置所で27歳の死刑囚に会い聖書を進められ、”私の分まで生きてください”といわれ、信仰心が更に深くなっていったそうです。出所後教会関係者になったイ・ジョンヨン。
 1979年にパク大統領の突然の死亡で、4年ぶりに政府の放送出演禁止令が緩みました。イ・ジョンヨンはその後ミュージカル 「ジーザス・クライスト・スーパースター」のキリスト役で出演。ミュージカルが終った後に、牧師になろうと決意しました。”冬の子供”のヒットのあとアメリカへ渡り神学を勉強します。多くのバイトをして生活費と学費を稼ぎ、教会を建てました。
 
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ホン・ミン 「惜別」「告別」

 

 KBSTV「コンサート7080」から”惜別”
 KBSTV「歌謡舞台」でトロット唱法ではない、低音で歌う正統派歌手ホン・ミンに興味を持ち、ホン・ミンを調べてみることにしました。するとホン・ミンの家族史が朝鮮戦争の社会史の一片であることを知り、驚きましした。
 韓国ドラマで1950年代から80年代の韓国の社会を少しは知ることができました。朝鮮戦争がもたらした朝鮮半島南北分断。2つの国家に別れ、いやおうなく家族がバラバラになり、「全国のど自慢」の名司会者ソン・ヘなど離散家族も多く、悲しみは今も続いています。
 ホン・ミンの家族史は稀なケースだと思いますが、ホン・ミンの父親は1951年に自ら北へ渡った越北者なのです。
 韓国ドラマ「東洋劇場」(KBSTV2001年)では最終回に、演劇人たち(作家、演出家、俳優たち)が、佳き国をめざして北朝鮮へ渡りました。その後の彼らを知る由もありませんが、成功したのか、粛清されたのかとても気になっていました。実際ホン・ミンの父親のような人がいたのですね。
 
 ホン・ミンの家族史(2001年のインタビューから)
 
 1947年生まれのホンミン。4歳のとき、父親ホン・ヒユは家族を残して北へ行ってしまいました。当時ソウル大学教授だった父親は、日本留学時代に社会主義思想に接しました。母親は大学で声楽を専攻した知識人だったので、夫の行動はよく理解していました。朝鮮戦争の際、母親は6歳の姉と一緒に父親を訪ねるために家を出て、そのまま行方不明になりました。ホン・ミンは2歳の弟と母の実家で過ごしましたが、弟はすぐに病気で死んでしまいました。ホン・ミンは孤児になってしまったのでした。
 母の実家で経済的な苦労はせずに育ちましたが、実家では父親の越北事情に対して誰も口にせず、秘密を守り通しました。1980年代中盤まで、そのことを隠しながら暮らしていました。
 政府によって一家はパスポートの交付は禁止され、海外旅行はできませんでした。現在では自由に海外へ行けるようになりましたが、心配事はなくなることはありませんでした。例えばホンミンの息子の入隊で、音楽を専攻したので軍楽隊へ希望。軍楽隊は大統領府の青瓦台へ出入りして演奏するため身元調査します。越北した祖父のことで問題になるのではないかと心配しましたが、幸いにも無事に軍楽隊へ入隊することができました。
 それでもホン・ミンは言います。”父の選択は尊重します。日本の植民地からの解放後、父は自分の信条を最期まで守ろうと努力したと思います。北でも学者として認められて願い通り堂々と北で暮らしました。本も出版しています。会えなくてもその本で父を感じることができます。そんな父が誇らしい。父が韓国にいて主張を変えたら多分恥ずかしかったでしょう。父の著書を見れば1990年初盤まで生存したようですが、もう高齢なので。生死がわかるあてもありません”
 
 ホン・ミンは1969年ポップ・フォークコンテスト入賞し、1973年”告別”でデビュー。1974年に”惜別”を発表。1976年同タイトル”惜別”イ・ジョンギル主演映画が作られる。1996年韓国文化人協会選定一番文学的な歌手に選ばれる。
 
   惜別
 
 去るこの心も 送るその心も 
 お互いに言いたいこと 終えることはできないが
 それでもぜひ一言残したい その言葉は 
 お前だけを愛している 本当に愛している
 愛の喜びを 別離の悲しみも
 これからは君と僕 成す事はできないが 
 それでもぜひ一言残したい その言葉は 
 お前だけを愛している 本当に愛している
 
 
 
1973年デビュー曲”告別”
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