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韓国ドラマ「恋の香り」 (SBS 1994年)

 
  チェ・ジンシルとイ・ビョンホン主演の「恋の香り」。二人のツーショットのジャケットがいいですねぇ。「恋の香り」の挿入歌(ハ・スビンとソン・ウミンの歌)の画像が見つかりました。
 秋の夜長に以前に観た韓国ドラマ「恋の香り」を見直しています。イ・ビョンホンが主演ということで、レンタルで視聴した方も多かったと思います。私は2006年にKNTVで観ていましたが、その頃は他に面白いドラマがたくさんあったので、チェ・ジンシルを観るという事だけで何となく観たドラマでした。
 8年経って「恋の香り」を見直すと、今の韓国ドラマの5分の1のスローなテンポ展開です。1994年の作品なので地味ですが、今や大物のイ・ビョンホンやチョン・ドヨン、亡くなってしまったチェ・ジンシルらの若手俳優が素晴らしく魅力的です。
 この頃(1990年代)のドラマ制作陣の良い作品を作ろうとする良心的な姿勢がうかがえて妙に感心するばかりです。例えば愛、人生、生活、小刻みに揺れ動く人間の感情をていねいに描いています。ドラマの基本にあるものが、真摯で真面目な日々の営みを描くことなのでしょう。
 
  
 「恋の香り」 52話 SBS 1994年
 
 演出 キム・ハニョン
 脚本 ユン・デソン
 出演 チェ・ジンシル イ・ビョンホン チョン・ドヨン キム・ヨンエ イ・ギョンジル キム・スミ チョン・ドンファン イ・ギョンジン オ・テギュ ユク・トンイル 
 
 あらすじ
 
 未亡人ながらチェ・ジンシル、チョン・ドヨンら3人の子供を育て上げたキム・ヨンエ。家族は裕福ではないが仲良く暮らしている。大学を卒業してアニメーターになったばかりのチェ・ジンシルは、お金持ちの彼氏にプロポーズされるがその気はない。偶然出会ったイ・ビョンホンに惹かれていく。
 イ・ビョンホンは貧しい学生だが純粋で、カーレースに夢中な仲間やエベレスト登頂を目指す親友がいる。目の不自由な祖母のために休学して、バイトをしながらお金を貯めている。恋愛をする余裕などないイ・ビョンホンはチェ・ジンシルと恋に落ちる。チェ・ジンシルの母キム・ヨンエは、二人の交際に猛烈に反対し、家族は険悪な雰囲気になっていく。キム・ヨンエ自身も会社の顧客のイ・ギョンジルと、ゆっくりとした大人の恋愛を育んでいくが、娘たちには話せないでいる。
 頑張りやさんのチェ・ジンシルはイ・ビョンホンとの結婚に踏み切り、無理して仕事量も増やすが、イ・ビョンホンは逆に生活力のなさを悔やみ、二人はいがみ合ってしまう。キム・ヨンエ自身もイ・ギョンジルとの再婚をギョンジルの母に反対される。ドラマは二組の重苦しい恋愛をゆっくりと淡々と描いていく。
 キムヨンエの友達でアンニュイな舞踊家キム・スミがさりげなく加わり、チョン・ドンファンとイ・ギョンジン夫婦の悩みも描かれます。
 
 チェジンシルの妹役チョン・ドヨンが、はつらつとした大学生でとっても楽しいです。イ・ビョンホンが1993年KBSの「生き残ったものたちの悲しみ」や「明日は愛」と同じく、真面目で純粋な大学生を演じています。チェ・ジンシルは演技が上手で魅力的です。弟で中学生役のユ・トンイルは大人になって、「ポッキ(ボクヒ)姉さん」(KBS2011年)の酒造所の息子テジュ役を演じていました。キム・ヨンエは「波」(SBS1999年)と同じで、夫に先立たれた子供想いだがきつい母親役です。
 
 今見返しても、この時代の韓国ドラマが一番輝いていたのではと想います。
 
 採点(10点満点中6点)
 
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ユ・イクジョン リメイクアルバム「3分の1」より ”愛””悲歌””懐かしさだけが積もる”

 

 

 
1996年リメイクアルバム「3分の1」から”愛”。
 
 
 
 

 

 

  1989年女性歌手ヘ・ウニのヒット曲”悲歌”http://youtu.be/Wlgbk1RLv9sのリメイク。ヘ・ウニで有名な曲ですが、元々作者のユ・ヨンゴンは、ユ・イクジョンに先に歌ってほしかった曲なのだそうです。

 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 
ノ・ヨンシムのリメイク”懐かしさだけが積もる”
 
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ユ・イクジョン ”9月に去った愛””野の花””バラード集”

 

 

  9月に入り涼しくなってきて、秋の気配が漂います。何となく寂しい気持ちになる秋は、ユ・イクジョンの歌を聴きながら過ごしたいと思います。上の曲は1998年発売のアルバム6集「懐かしき顔」から”9月に去った愛”です。
 
 ”私の歌は一つも成就した愛がない”というくらい別れの歌、寂しい歌が多いユ・イクジョンは、他に類のない声の持ち主です。静かな歌声ももの悲しくもあり温かくもあり、心の奥の琴線にふれ、まどろんだ気分にさせてくれます。イメージ 1
 
 59歳のユ・イクジョンは今年でデビュー40周年になります。4月にソウルでユリサンジャやシン・ヒョボムをゲストに迎えて40周年のコンサートを開き、全国20ヶ所でコンサートを開いています。メンバーだったフォークデュオ「ヘバラギ」1集、3集が良いので、ユ・イクジョンはヘバラギのイメージがあまりにも強いのですが、ソロ歌手として1999年までに7枚のアルバムを出した、フォークバラードのソロ歌手です。2008年に8集のリメイクアルバム「3分の2」をリリースしました。
 
 ユ・イクジョンを調べてみました。(ユ・イクジョンインタビュー韓国ブログから抜粋)
 
 ユ・イクジョンは1974年にデュエットグループ”グリーンビーンズイメージ 2”でデビュー。当時の韓国政府の国語順化運動でグループ名を「仏法僧」に変えて、アルバムを出しましたが、あまりヒットはしませんでした。ユ・イクジョンの名前が多く知られるようになったのは、1980年初頭に、イ・ジェホと組んだ「ヘバラギ」の1集からです。70年代後半の初代「ヘバラギ」は4人組の「ヘバラギ」でしたが、イジュホとユ・イクジョンで名前を受け継いで、80年代最高の人気のフォークデュオに浮かびあイメージ 3がりました。人々からは”皆が愛です””'私の心の宝石箱””愛はいつもその場所に””君”などのヒット曲によって、彼をユ・イクジョンと言うソロ歌手よりは、「ヘバラギ」というチームのメンバーとして憶えられています。
 83年初アルバムのラインナップはイ・ジュホとユ・イクジョンでしたが音楽的見解とライフスタイルの違いで、ユ・イクジョンはグループを去り一人立ちの道を選択しました.。彼のソロアルバムからは、”愛の瞳”(1985年)がヒットしましたが「ヘバラギ」のような知名度と人気を得ることはできませんでした。
 一方イ・ジュホがイ・グァンジュンと組んで 、ヘバラギ2集”その日から”を出したイメージ 484年には、”皆が愛です”と ”もう愛することができます”のヒットがうまれ、音楽ファンを完全に魅了しました。1枚のアルバムでコンビ解消し、ユ・イクジョンはソロの道へ進もうと思ってていました(当時イ・ジュホもソロアルバムを準備).。しかし 86年一芸能記者の”イ・ジュホとユ・イクジョンがまたデュオへ”の記事が評判になり、ユ・イクジョンはやむをえずイ・ジュホとまた再びグループを組むことになりました。
 彼は自分の代表曲である ”ただ眺めることだけできても”が収録イメージ 5された2集のソロアルバムを「ヘバラギ」のアルバムより、一日でも先に出さなければなければならないという状況の中、2集にもかかわらず、1集としてリリースしました。したがって彼のアルバムはジャケットに使っている数字よりもう一つ多いのです。
 強いソロ志向にもかかわらず、「ヘバラギ」 3集「長い沈黙は壊れ、愛はいつもその場所で」の収録曲、”私の心の宝石箱””愛はいつもその場所で””君”が大ヒットしたために、ユ・イクジョンは1年半も「ヘバラギ」のグループ活動に拘束されてしまいました。 しかしイ・ジュホとの違いは大きく、彼は結局ソロに戻り 1989年 アルバム2集「離縁」、1991年 3集「車窓に流れる別離」、1995年イメージ 6 4集「反芻「を連続してリリースしました。
 「反芻」に引き続き、1996年にリメイクアルバム「3分の 1」をリリース、1998年には IMFに疲れた人々の魂を慰める性格のアルバム5集 「懐かしさ」を発表しました。
 1999年には忘れ去られるのには惜しい歌を集めた 「Worst」アルバムを発売し、2008年には9年ぶりにリメイクアルバム「3分の2」を発売しました。
 アルバム「Worst」についてユ・イクジョンは、『多分そんなタイトルは私が初めてじゃないでしょうか。1992年にベストアルバムを出した事があって 1999年に良い曲なのに知られていない曲を集めて「ベスト 2集」と言うタイトルイメージ 7の企画アルバムを考えました。すると誰かが” ベスト 2集を出すほど、あなたはそんなにヒット曲が多いですか?”と聞くのですよ。私が言っても通じないので「ワースト」とタイトルを付けたんです』
 5集アルバム「懐かしき顔」について、ユ・イクジョンは『キーワードは懐かしさです。もっと具体的には、成就することができなかった愛に対する懐かしさです。私の歌には一つも成立した愛がないです。”離縁”は他の縁と言う意味でやっぱりかなうことができなかった愛です。それなのにたまに結婚式の祝歌でも歌われるので、まったくもう......です。一番気に入っているアルバムは3集 「車窓に流れる別離」ですよ。私がプロデュースしたこともあって声も気に入っています。一番清冽ですし、青臭さも少ないんです。あの時の声に戻ったらと思います。好きな曲は 「3分の 1」に収録された ”悲歌' そして ”離縁”です。私が楽しむ曲という表現の方ががもっといいですね。』
 
 ”イ・ジュホとまた「ヘバラギ」で歌う意向は全然ないんですか?人々は今も「ヘバラギ」3集の思い出を忘れることができません”との問いに 『あの時、歌は純粋だったんです。楽しく清かったんでしょう。あの時が羨ましいですね。イ・ジュホとまた歌う?そうね。今ではないが、いつかはすることもできますね。』
 今の歌手については、『歌手がどう歌うのかが重要です。それをまたどんなに判断するのかがカギです. プロデューサーと一緒に、歌手をアピールする位置に立つ人々の判断が重要です。彼らの良心が生きていれば、歌はまともになります。 いくらつまらない歌でも、何回も聞かされれば頭の中に残ってしまいます。そんなことでは良い歌は生まれなくなってしまいます。』
 
 

 

 

 

 
  1996年リメークアルバム「3分の1」から”野の花” 
 40周年記念コンサートの前にKBSTV「コンサート7080」に出演した画像ですね。この回では、他に”ただ眺められれば””愛の瞳”を歌っていました。
 
   野の花
 
 僕はあなたのためだけに咲いた
 あの岩のすきまの一輪の野の花
 *すきまの名も無き 野の花のように咲くとしても
 僕はあなたのために生きるよ*
 いつも穏やかな湖のように
 あなたは僕の胸にいつもたたずみ
 数ある花の中 野の花になっても幸せだよ
 *~*
 七色のまばゆい虹として
 あなたは僕の胸にいつもたたずみ
 数ある花の中 野の花になっても幸せだよ
 
 
 

 

 

 
 
 
  1988年ユ・イクジョン1集から
 
 
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ローマの休日 (1953年 アメリカ映画)

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 1953年アメリカ映画「ローマの休日」は私の洋画ベストテンの中で、1位に輝く永遠の名作です。何度も観ている映画で、特に好きなシーンはラストシーンです。この映画のレビューを読みましたが、やはり多くの人がラストのシーンをあげています。
 古今東西の世界中の映画の王女・お姫様の中で「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーンが一番美しく、高貴な気品に溢れたお姫様です。
 王女としての立ち居振る舞いも優雅ですし、髪を短くカットして白いブラウスとフレアスカートの街の娘になった、キュートなヘプバーンもとても可愛いい。
 
 愛らしい笑顔に、豊かな表情。新聞記者のグレゴリー・ペックをお相手に天真爛漫なお姫様はローマの名所を巡り、庶民の船上の音楽会イメージ 3でダンスを踊り、最高に楽しい休日を過ごします。
 ハンサムなグレゴリー・ペックは紳士で品があり、安心して観ていられる男性俳優なのでヘプバーンを優しく包み込む素敵な男性にはピッタリでした。ヘプバーンとグレゴリー・ペック以外のキャスティングは誰も考えられないほどです。
 甘いロマンスが芽生え、グレゴリー・ペックの親友のカメラマンや、イタリアーノな美容師、王女を探す黒服の秘密警察の登場するコメディシーンは大笑いしますし、ローマの観光名所が随所に登場し、テンポが軽やかで見所いっぱいの楽しい映画です。そして感動的なラストシーンを迎えます。
 
  一緒にすごした御伽噺のようなたった一日の出来事は、二人が惹かれあうには充分な時間でした。ローマでの休日は王女ヘプバーンにとって、生涯忘れえぬ一日になることでしょう。大切な思い出を胸にしまって、公人として生きていくヘプバーンの後姿が忘れられません。
 悲しいのに、潔くて強く、切なくて温かく、いつまでも心に残る素敵なラスト。グレゴリー・ペックがゆっくりと歩くラストシーンの余韻は深く、大粒の涙が溢れてしまいます。 
 
   ローマの休日 1953年 アメリカ映画
 イメージ 2
 監督 ウィリアム・ワイラー
 脚本 ドルトン・トランボ
 出演 オードリー・ヘプバーン グレゴリー・ペック エディー・アルバート
 
 あらすじ(Wikiより)
 
 ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の王女アンは、ヨーロッパ各国を表敬訪問中であった。最後の滞在国であるイタリアのローマで、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついにアンはヒステリーを起こしてしまいます。
 その夜、密かに城を抜けだした王女は、睡眠用の鎮静剤のせいで無防備にも路傍のベンチでうとうとしはじめる。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーだった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう。
 翌朝になって彼女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをモノにしようと、職業を偽り、友人のカメラマンであるアーヴィングの助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。
 アンはまず美容院で髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べる。その後ジョーとスクーターに二人乗りしてローマ市内を廻り、「真実の口」を訪れ、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーに参加する。その様子をアーヴィングが次々にスクープ写真を撮っていくうち、永遠の都・ローマで自由と休日を活き活きと満喫するアン王女とジョーの距離は次第に近づいていくのであった。
 
 主役の王女役にウイリアム・ワイラー監督が新人のイメージ 4ヘプバーンを抜擢、グレゴリー・ペックも彼女の才能を認め、新人であるにもかかわらず、ヘプバーンをクレジット・タイトルでトップに扱うことに賛成しました。「真実の口」のシーンではグレゴリー・ペックがアドリブで口の中に手を入れ、ヘプバーンは本当に手がちぎれたと思い込んで驚いてしまったそうです。
 また脚本家ダルトン・トラボンは1950年代初期、アメリカで「赤狩り」と呼ばれる共産主義者排斥運動でパージされ、このため友人の脚本家イアン・ハンター名義で参加をしたことなど、「ローマの休日」には数多くのエピソードがあります。
 
 「ローマの休日」はあまりにも有名な名作なので観るのをためらっていました。映画雑誌「スクリーン」で、いつもオードリー・ヘプバーンが”好きな女優1位”に選ばれ、グラビアを飾っていたのがとても不思議だったことが思い出されます。「ローマの休日」を観てその理由がわかった、遅れてきた”ヘプバーンファン”です。
 
 
 採点(10点満点中 特別に11点)
 
 
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1966年のポップス ⑪ ベンチャーズ ジョニー・リバース ”秘密諜報員” Ventures Johhny rivers "Secret Agent Man 

 
 
 1962年公開の「007死ぬのは奴らだ~ドクターノー」に始まる、スパイ映画のブームが1960年代を席捲し、特に「007ゴールドフィンガー」と「007サンダーボール作戦」の世界的な大ヒットで,1966年は映画・TV・音楽にスパイ物が人気となりました。
 ジョニー・リバースのヒット曲”Secret Agent Man(秘密諜報員)"をベンチャーズがカヴァーし、文化放送「ユアーヒットパレード」で6月27日に最高位6位、文化放送「9500万人のリクエスト」では6月16日にベンチャーズとジョニー・リバース両方、最高位6位にランクされました。  
 
 
 
 
 
 
 
 ジョニー・リバースの”秘密諜報員”です。アメリカでは  ヒットチャートで3位になりました。    (Kann Dorao)
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1966年のポップス ⑫ ジョニー・リバース Johnny Rivers ”僕らの街 (Poor Side of Town)” "マディーウォーター"

 
  
 ジョニーリバースは1950年代後半から音楽活動をしていましたが、1964年にライヴ録音の”メンフィス”が全米2位の大ヒットになりました。
 ライヴアルバム「At the Wiskey a Go Go」、「Here We a Go Again」もリリース、ポップス系のロックンローラーとして活躍、”Mountain of Love"(1964年),”Seven'th Sun"(1965年)、"Secret Agent Man(秘密諜報員)"(1966年)が全米チャートの10位以内にランクされました。
 その後アルバム「Changes」(1966年)で、ティム・ハーディンやジミー・ウェブ、ヘンリー・マンシーニなどの曲を取り上げ、フォーキーな大人のシンガーにイメージチェンジしました。このアルバムからシングルカットした”Poor Side of Town(僕らの街)”が、全米1位の大ヒットになりました。ジャズ畑のマーティー・ペイチのアレンジが素晴らしいナンバーです。
 日本では1966年の暮に発売され、文化放送「9500万人のリクエスト」で、1967年1月に最高位5位にランクされました。
 
 
 
 
 
 
 1966年、全米チャート最高位19位になった”マディー・ウォーター~( I Washed My Hands by )Muddy Watrter”です。
 日本では1969年にシングルカットされ、「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」では、「1969年間ベスト100」で68位に選ばれています。    (Kann Dorao)
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ルイス・ボンファ マリア・トレド Luiz Bonfa Maria Toredo "Cancao Do Mar” (映画「Copacabana Palace」より)

 

 

 「Copacabana Pallace」(1962年)は、日本未公開のブラジル映画です。映画はつまらないようですが、ブラジル音楽を代表するルイス・ボンファ、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビンが出演して、3人でルイス・ボンファ、マリア・トレド作詞作曲の”Cancao Do Mar”を海辺で歌うシーンがあります。
 映画ではボンファ、ジルベルト、ジョビンが順に歌いますが、アップしたのは映画のOSTから、ルイス・ボンファとマリア・トレドが歌っているヴァージョンです。
  イントロの海鳥の鳴き声、ボンファの囁くようなヴォーカルと幻想的なほどに美しいオーケストラアレンジ、琴線に響くコーラス、素敵ですね。   (Kann Dorao)
 
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1966年のポップス ⑩ ベンチャーズ Ventures ”君といつまでも” ”夜空の星”

 
 
 1966年は若大将加山雄三の”君といつまでも”が大ヒットした年でした。前の年1965年に日本中にエレキブームを巻き起こし、人気絶頂だったベンチャーズがこの曲をカヴァー、ポップスチャートの1位になりました。
 TBSラジオ「今週のベスト10」では3月第4週から1位、文化放送「9500万人のリクエスト」では5月第一週から5週間1位、文化放送「ユアーヒットパレード」では4月から7月まで1位の大ヒットとなりました。「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」では、「1966年年間ベスト100」で6位に選ばれています。
 
 
 
 
 
  
 ベンチャーズ”君といつまでも”のB面、同じく加山雄三作曲の”夜空の星”です。
      (Kann Dorao)
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ルイス・エサ Luiz Eca ”Tema de Luciano” (TVドラマ ”Veu de Novia"より) タンバトリオ ”マシュケナダ”

 
 
 ルイス・エサ(1936年生~1992年没)はブラジルのジャズ・ピアニスト・作曲家です。1963年にジャズボサノヴァ・トリオ「タンバ・トリオ(Tamba Trio)」を結成、Phillipsよりアルバムをリリース、ナラ・レオンやエドゥ・ロボらと共演のアルバムもあります。
 1967~8年にはアメリカのCTIレーベルから、「タンバ4(Tamba4)」としてアルバムをリリースしています。
 UPした”Tema de luciano”は1969年のブラジルのテレビ番組のOSTからで、ルイス・エサの他に、エリス・レジーナ、マルコス・ヴァーレらの曲が収録されています。
 流麗なピアノとストリングスが美しい、クラシカルななかに、ブラジルの香りがするロマンチックな曲です。
 
 
 
 
 
 タンバ・トリオの1963年のアルバム「Avanco」から、ジョルジュ・ベンの”マシュケナダ”です。   (Kann Dorao)
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ホニー&セントラル・ド・ブラジル Ronie e Central Do Brasil "Remelexo" "Somento O Samba"

 
 
 ボサノヴァ・ジャズピアノトリオのボサ・トレス(Bossa Tres)や、セルジオ・メンデスのボサ・リオ(Bossa Rio)のメンバーだった、ドラマーのロナルド・メスキータ(Ronald Mesquita)は、1975年にリーダー作「ホニー・アンド・セントラル・ブラジル」をリリースしました。
 UPしたのはこのアルバムから”Remelexo"です。スタイリッシュで都会的、洗練されたアレンジとメローなコーラスハーモニーが格好いい、ブラジル音楽の名曲です。
 
 
 
 
 
  同アルバムから”Somento O Samba"です。1960年代後半のCTIのような、エレピの音が気持ちよいソフトなボサノヴァナンバーです。コーラスとサウンドに暖かみがあっていいですね。   (Kann Dorao)
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