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1964年のポップス ㉚ クリフ・リチャード「リヴィング・ドール」「エヴァーグリーン・トゥリー」(1965年)

 

 クリフ・リチャード(Cliff Richard)の”リヴィング・ドール(Living Doll)”(東芝OR-1053)です。1958年の映画「若き非行の群れ(Serious Charge)」の主題歌で、クリフ・リチャードも出演し劇中で歌っています。

 英国では1959年5月に映画のサントラEPがリリースされました。バックはシャドウズ’(当時はThe Drifters)で、7月にはシングル盤がリリースされ、6週間チャートで1位にランクされました。クリフ・リチャード初のナンバー・ワン・ヒットで、1959年に英国で最も売れたシングルになりました。

 日本では”レッツ・メイク・ア・メモリー(Let's Make a Memory”に次ぐシングルとして、1964年春頃に発売されました。ラジオのヒット・チャートにはランクされませんでしたが、とても良い曲でクリフ・リチャードのファンには人気があります。

 

 

 

 クリフ・リチャードの”エヴァーグリーン・トゥリー(Evergreen Tree)”(東芝OR-1168)です。アルバム「Me and My Shadows」(1960年)に収録され、英国ではシングル・カットされませんでした。日本ではシングル盤が1965年に発売されました。クリフ・リチャードのヴォーカルとハーモニカが心に響いてくるような美しいメロディーです。

 B面はアルバム「Me and My Shadows」から”チョッピン・チェンジン(Choppin’n Changin)”です。

 

 

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1964年のポップス ㉙ フランス・ギャル「審判のテーマ」「恋のサバサバ娘」

 

 

 フランス・ギャル(Francs Gall)の日本デビュー・シングル”審判のテーマ(J'Entends Cette Musique)”(PHILIPS FL-1114)です。美しいメロディーで、フランス・ギャルの少女のような清純な声が心に残ります。1964年3月にリリースされたフランス・ギャルのフランスでの初アルバム(10吋LP)「N e'counte pas les idoles」に収録されています。

 映画「審判(Trial, Le Proces)」(1963年)のテーマ曲で、「審判」はカフカの原作、オーソン・ウェルズ(Orson Wells)が監督、主演はアンソニー・パーキンス(Anthony Perkins)、ジャンヌ・モロー(jeanne Moreau)ロミー・シュナイダー(Romy Schneider)です。

 この曲は”アルビノーニのアダージョ”と呼ばれ、バロック音楽の作曲家トマゾ・アルビノーニの作品と言われてきましたが、イタリアの音楽学者レモ・ジャゾットが作曲した楽曲で1958年に初めて出版されたものです。

 

 

 

 フランス・ギャル(Francs Gall)のシングル”審判のテーマ”のB面”恋のサバサバ娘(Ca va je t'aime ) ”です。初アルバム(10吋LP)「N e'counte pas les idoles」に収録されています。日本語のタイトル”恋のサバサバ娘”が自由で素晴らしいです。

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1964年のポップス ㉘ ダイアン・リネイ「恋のセーラーガール(It's in Your Hands )」「夢をかなえて(I Had a Dream)」(1965年)

 

 

 

 米国のポップス歌手ダイアン・リネイ(Diane Renay)は”ネイビーブルー”のヒット後、1964年1枚目のシングル”キス・ミー・セイラー”が全米28位,、1964年2枚目のシングル"Growin' up Too Fast/B面 (Waiting for Joey)が全米134位にランクされました.。

 前作に続きボブ・クリュー(Bob Crew)のプロデュースで、1964年3枚目のシングル”恋のセーラーガール(It's in Your Hands)/B面 A Present for Eddie"をリリース、全米131位にランクされました。1964年はビートルズ旋風でポップス・シーンががらっと変わってしまったので、甘くしっとりとしたメロディーのガールズ・ポップのヒットは難しかったのでしょう。

 

 

 

 

 ダイアン・リネイは"恋のセーラーガール(It's in Your Hands)"リリース後、1964年後半に20世紀FOXからMGMレコードに移籍しました。MGMでの初シングル、”Watch Out Sally/ B面 Billy Blue Eyes"は全米101位にランクされました。

 UPしたMGMでの2枚目のシングル”夢をかなえて(I Had a Dream)/ B面 Trouble Maker)”(1965年)もボブ・クリューのプロデュースで、フィル・スペクター・サウンズのようなアレンジになっています。

 MGMで2枚のシングル・リリーズ後、ダイアン・リネイはボブ・クリューの設立したNew Voiceレコードに移籍、3枚のシングルをリリースしましたがヒット・チャートにはランク・インしませんでした。

 

 日本では”ネイビーブルー”がヒットしたので、20世紀FOXとMGMレコードからリリースされたシングルが全て国内盤シングルで発売されました。以下に日本でのシングル盤を記載します。

"キス・ミー・セイラー(Kiss Me Sailor)/ B面 彼はソフト・タッチ(Soft Spoken Guy)”(ビクターJet-1404)

”おませな水兵さん(Growin' up Too Fast)/B面 ジョイを待ちわび(Waiting for Joey)”(ビクターJet-1434))

”恋のセーラーガール(It's in Your Hands)/B面 "エディーのプレゼント(A Present for Eddie)"(ビクターJet-1463)

”涙のサリー(Watch Out Sally)/ B面 ビリー・アイズ (Billy Blue Eyes)"(キングDM--1019)

"トラブル・メイカー(Trouble Maker)/ B面 夢をかなえて(I Had a Dream)"(キングDM--1051)(日本ではAB面逆にして発売)

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1964年のポップス ㉗ ダイアン・リネイ「ネイビー・ブルー」「キス・ミー・セイラー」

 

 

 米国の女性ポップス歌手、ダイアン・リネイ(Diane Renay)の"ネイビー・ブルー(Navy Blue)"です。ダイアン・リネイ(1945年~)は1962~63年にAtco レーベルから2枚のシングルをリリース。ヒットしませんでしたが、2枚目のレコードを作曲しプロデュースしたボブ・クリュー(Bob Crew)は、自作曲を自分のプロデュースでレコーディングするという契約をダイアン・リネイと結びました。ボブ・クリューはフォー・シーズン(Four Seasons)のプロデューなどで有名でした。

 ダイアン・リネイは20世紀FOXレコードから、ボブ・クリューの作曲とプロデュースで"ネイビー・ブルー(Navy Blue)を1963年12月にリリース、1964年にビルボードで最高位6位にランクされました。

 文化放送「9500万人のポピュラーリクエスト」では4月9日に14位で初登場、6月11日、18日、25日、7月2日に1位、8月13日17位までランクされました。TBS「今週のベスト10」では4月26日に15位で初登場、6月21日、28日に2位にランクされ、日本では米国以上のヒットになりました。「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1964年年間チャートで15位に選ばれています。

 日本でのシングル盤は「ネイビー・ブルー/(B面)彼はスーパー・ボーイ'Unbelievable Guy)」(ビクターJET-1372)で米国とAB面同じです。

 

 

 

 ダイアン・リネイの"ネイビー・ブルー"に続くシングル"キス・ミー・セイラー-(Kiss Me Sailor)"です。ボブ・クリューのプロデュースで作曲はEddie Rambeauです。米国では1964年4月にリリースされ、5月に最高位29位にランクされました。日本ではヒットしませんでしたが、メロディーも良く、フィル・スペクター・サウンドを意識したようなアレンジも面白いです。

 日本でのシングル盤は「キス・ミー・セイラー/(B面)彼はソフト・タッチ(Soft Spoken Guy)」(ビクターJET-1404)で、AB面米国と同じです。

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1964年のポップス ㉖ ペギ-・マーチ「霧の中の少女」「いつでも夢も」

 

  

 リトルがとれたペギ-・マーチ(Peggy March)の”霧の中の少女”(ビクター SS-1489)です。ペギ-・マーチは1964年に初来日してから、積極的に日本語でのレコーディングを始めました。米国でのヒット曲の日本語ヴァージョンだけでなく、歌謡曲も日本語で歌いました。”霧の中の少女”もオリジナルは久保浩の1963年のヒット曲です。オールド・ファンには久保浩よりペギーマーチの歌のほうが印象深い方も多いかと思います。

 

 

 

 ペギ-・マーチ(Peggy March)の”いつでも夢を”です。橋幸夫と吉永小百合のデュエットで大ヒットした名曲です。

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1964年のポップス ㉕ ベンチャーズ「パイプ・ライン」「ロンリー・シー」

 

 

 ベンチャーズ(Ventures)の”パイプ・ライン(Pipe Line)”です。日本では1964年7月に発売されましたが、米国ではシングル未発売で、アルバム「Surfing」(1963年)に収録されています。1965年にベンチャーズ・ブームになってからヒットしました。

 

 

 

 ベンチャーズの日本でのシングル、”パイプ・ライン”のB面”ロンリー・シー(The Lonley Sea)”です。この曲も米国ではシングル未発売で、アルバム「Surfing」(1963年)に収録されています。

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1964年のポップス ㉔ ベンチャーズ「ウォーク・ドント・ラン」「イエロー・バード」

 

 

  ベンチャーズは1959年にドン・ウィルソン(Don Wilson)とボブ・ボーグル(Bob Bogle)のギタリスト2人により結成され、1960年にノーキー・エドワーズ(Nokie Edwards)、1962年にメル・テイラー(Mel Taylor)が参加。米国では”ウォーク・ドント・ラン(Walk Dont Run)”が全米2位にランクされ、LP「Walk Dont Run)」(1960年)は11位にランクされました。

 Dolton レコードから1961年には3枚、1962年には4枚、1963年には5枚、1964年には3枚とコンスタントにLPをリリース、アルバム「The Ventures Plays Telstarand Lonly Bull」(1963年)は全米8位にランクされました。

 1962年日本にドンとボブの2人がボビー・ヴィーなどと来日、1965年1月にアストロノウツなどとのパッケージ・ツアーに参加。ドン・ウィルソンとボブ・ボーグル、ノーキー・エドワーズ、メル・テイラーのメンバーで演奏し、若者の間にエレキブームを巻き起こしました。

 ベンチャーズ来日以前の1964年3月に日本で”ウォーク・ドント・ラン'(急がば廻れ)”がリリースされました。発売当時はヒットしませんでしたが、1965年のエレキブームの際にはベンチャーズの代表曲として人気を集めました。

 

 

 

 

 ”ウォーク・ドント・ラン”のB面”イエロー・バード(Yellow Bird)”です。米国ではアルバム「COLOUFUL VENTURES」(1961年)に収録されています。

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1964年のポップス ㉓ クリフ・リチャード 「コンスタントリー」 「バチェラー・ボーイ」

 

 

 英国の歌手クリフ・リチャード(Cliff Richard)の”コンスタントリー”Constantry)です。英国では1964年にリリースされ、全英4位にランクされました。オリジナルは1958年のイタリアの曲(L'Edera)で、原曲に英語の歌詞をつけたものです。

 日本では文化放送「9500万人のポピュラーリクエスト」で1964年12月3日に初登場 1965年2月11日に最高位2位、3月18日に17位までランクされました。「洋楽ヒットチャート大事典」(八木誠著)では1964年年間チャーで93位 1965年年間チャートで45位に選ばれています。

 

 

 

 クリフ・リチャード(Cliff Richard)の”バチェラーボーイ”(Bachelor Boy)です。英国では”ネクスト・タイム(The Next Time)"のB面として1962年11月にリリースされました。英国では両面ヒットになり、”ネクスト・タイム”は1963年1月に3週間1位にランクされ、”バチェラーボーイ”は全英3位にランクされました。作曲はシャドーズのメンバー、ブルース・ウェルチ(Bruce Welch)とクリフ・リチャードです。

 日本では文化放送「9500万人のポピュラーリクエスト」で1964年8月27日に初登場 10月15日に最高位5位、11月15日に15位までランクされました。

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1964年のポップス ㉒ レスリー・ゴーア 「メイビー・アイ・ノウ」 「ルック・オブ・ラヴ」

 

 レスリー・ゴーア(Lesley Gore)の米国での7枚目のシングル、“メイビー・アイ・ノウ(Maybe I Know/B面 Wonder Boy)“です。作詞・作曲はエリー・グリニッジ(Ellie Greenwich)とジェフ・バリー(Jeff Barry)です。1964年7月にリリースされ、米国では最高位14位にランクされました。

 エリー・グリニッジは自身のアルバム「Let It Be Written,Let It Be Sung」(1973年)でこの曲を歌っています。

 日本ではシングル”メイビー・アイ・ノウ”のB面は、米国での6枚目のシングル“失恋はいや(I Don't Want Be a Looser)”が収録されました。「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」の「1964年間ベスト100」では91位に選ばれています。

 

 

 レスリー・ゴーアの米国での9枚目のシングル”ルック・オブ・ラヴ”(Look of Love)、作詞・作曲は”メイビー・アイ・ノウ”と同じ、エリー・グリニッジ(Ellie Greenwich)とジェフ・バリー(Jeff Barry)です。前作の”Hey Now"がモータウンサウンドのような黒人色の強い曲でヒットしなかったため、本来のサウンドに戻ったのでしょう。米国では1964年12月にリリースされ、最高位27位にランクされました。なおダスティー・スプリングフィールドの”ルック・オブ・ラヴとは同名異曲です。

 日本では1965年に発売されましたが、ヒットはしませんでした。    (Kann Dorao)

 

 

 

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1964年のポップス ㉑ ジョニー・リヴァース” ”メンフィス”、”マウンテン・オブ・ラブ

 1957年の初レコーディングから1964年始めのシンウル、”ドリーム・ドール(Dream Doll)"まで12期全てがチャートにランク・インすることのなかった ジョニー・リヴァース にチャンスが訪れます。

 1963年にハリウッドのクラブ「Gazzams」に出演し、多くの観客を集めたのです。1964年にはウェスト・ハリウッドに開店した「Wisky A Go Go」と1年契約を結び、ライブ・ステージが大きな人気を呼びました。有名プロデューサーのルー・アドラー(Lou Adler)の目に止まり、ビートルズ旋風のなか、アルバム「 At the Wisky a Go Go」が制作され、全米最高位12位にランクされるヒットになりました。

 

 

 アルバム「 At the Wisky a Go Go」で、最もリクエストが多かったナンバーが”メンフィス(”Menphis")(オリジナルは1959年のチャック・ベリー)で、シングルカットされ、全米2位にランク、ミリオン・セラーになりました。

 

 

 

 1964年には"Maybeliene"(オリジナルは1955年のチャック・ベリー)が、最高位2位にランクされ 続いてセカンド・アルバム「in Action」からの”マウンテン・オブ・ラブ(Mountain of Love)”は全米9位にランクされました。

 2曲とも日本ではビクター・レコードからリリースされましたが、ヒット・チャートにランクインするヒットにはなりませんでした。

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