人が生きる世の中(サランサヌンセサン)
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ヘンリー・マンシーニ ㉗「グレート・レース」スウィート・ハート・リリー
映画「グレート・レース(Great Race)」からナタリー・ウッド)Natalie Wood)の歌と、ヘンリー・マンシーニ楽団の演奏で”スウィート・ハート・リリー(Sweet Heart Lilly)”です。
「グレート・レース」は1900年代初頭のニューヨークからパリまでの自動車レースを舞台にしたスラプスティック・コメディーです。悪役のジャック・レモンが何回も失敗しては飛行機から墜落したり、酒場での乱闘やパイ投げなど笑いがいっぱいつまっています。私は映画館、テレビ、LDで3回観ましたが何回観ても面白いです。特に一人二役で悪人のフェイト教授と某国の可笑しな王様を演じるジャック・レモンが最高です。
監督は「ティファニーで朝食を」や「ピンク・パンサー」のブレイク・エドワーズ(Breake Edwards)です。主演はトニー・カーティス、ジャック・レモン、ナタリー・ウッド、脇役にピーター・フォーク、キーナン・ウィン、ドロシー・プロヴァインなどが出演しています。米国では1965年7月に、日本では12月25日に正月映画として公開されました。無声映画の信奉者であるブレイク・エドワーズはこの映画を「無声喜劇映画スターのローレル&ハーディーに捧げました。
音楽はヘンリーマンシーで1900年代初頭の雰囲気を再現しています。劇中歌の”スウィート・ハート・リリー(Sweet Heart Lilly)”は1965年アカデミー最優秀歌曲賞にノミネートされました。
オープニング・タイトル終了後、冒険家のヒーロー、トニー・カーティスが両手をしばられ、気球で空中にあがっていきながら脱出するのに挑戦します。悪役のジャック・レモンとピーター・フォークが気球を打ち落とそうとしますが、トニー・カーティスは落下傘で無事脱出。ジャック・レモンとピーター・フォークの頭の上に気球が落ちてくるというコメディー・シーンです。トニー・カーティスが笑顔になると、口元がピカッと光るのがいいですね。
ジョアン・ジルベルト ③「E Luxo So」「Rosa Morena」「Ho-Ba-La-La」
ジョアン・ジルベルト(Joao Gilbert)のファースト・アルバム「Chega de Saudade」(1959年)から"E Luxo So”です。ブラジルの国民的作曲家のアリ・パポーザ(Ary Barrosa)(1903~1964年)の”作品です。ジョアン・ジルベルトは昔のサンバやサンバ・カンソンでも自分の好きな曲をレパートリーにしていますが、この曲も気持ちよさそうに歌っています。
ジョアン・ジルベルトのファースト・アルバム「Chega de Saudade」から"ホーザ・モレーナ(Rosa Morena)”です。ブラジル音楽の重鎮で、作曲家・作詞家・歌手のドリヴァル・カイミ((Dorival Caymm()1914~i2008年)の作品です。
ジョアン・ジルベルトの2枚目のSP「デサフィナード(Desafinado)」のB面「オーバララ(Ho-Ba-La-La」です。ジョアン・ジルベルトの作詞、作曲でファースト・アルバム「Chega de Saudade」に収録されています。
清越坊の女たち~当家主母⑥
偏見
実際、沈翠喜も偏見を持つ女性でした。夫の雪堂の妾、曽宝琴を「行院の楽戸上がり(妓楼)の卑しい女」と罵ったこともあります。
行方不明だった夫の代わりに任家を守る実業家になったことで、女性蔑視の偏見を身をもって体験したこと。魏良弓を愛した過程で、男性は再婚もできるし、妾をもつことも許されるが、女性は再婚も出来ず、後家として一生を送る。まして恋愛はご法度。魏良弓を命がけで愛した短い時間に多くのことを悟りました。貧しさのない世の中を目指し、悪と闘う勇気も持ちました。魏良弓が亡くなってからは背水の陣のような生き方を進んでいきます。
行院送りになった、仇敵曹文彬の娘幺嬢を気にかけるのも翠喜の生き方の一つだといえるでしょう。
曹夫婦が恩赦になるも娘の幺嬢は行院から出られず。父親の曹は娘に近付くためにあの手この手を使い娘に危害を加えようとします。女子の名節、美徳、貞操を守る為、家、自身のメンツのためにです。これらの行為は男性が優位な社会の弊害ともいえます。
沈翠喜は幺嬢の様子を探るため行院に着物の採寸で赴きます。お嬢様だった幺嬢は翠喜の前ではしたたかに生きている女を演じます。
「母は元気なの?」「お嬢様の身を案じています」「私は元気だしここでの前途は明るいの」必死さが逆に翠喜の心を揺さぶってしまいます。翠喜は曹夫人と会い「賢いです。行院でもうまく立ち回るでしょう」夫人「染まっていたのね」
しっかり生きていると様子を伝えると夫人は手紙を託し、夫と無理心中して娘を夫の魔の手から守るのでした。
父親の不祥事で娘は賤民の身分に落とされて行院へ。泣くのはやはり女子。翠喜は仇敵の娘幺嬢を救う手立てをあれこれ考えますが、身分制度が強固な社会では不可能に近いことでした。
行院で辛酸を味わった曾宝琴は「勅旨があれば賤民から平民に戻れるけれど。なおかつ江南は保守的な地域。影に日向に避難される。救い出すのは容易ではない」 翠喜は「それは承知。あの子は哀れ。仇敵は父親、娘ではない」曾宝琴「姉さんに合えた幺嬢は果報者。でもそれは難題、御上だけでなく偏見とも戦う必要がある。姉さんは一度決めたことは絶対負けない人」
翠喜が離れた任家の清越坊は翠喜が技術を開放したので、清越坊の独占がなくなり売り上げが減る一方で、職人から給料未払い騒ぎも起きました。
曾宝琴は翠喜の残したデザイン画を使用せずオリジナルのデザイン開発に励みます。自分の特技と持ち味を考え、気を照らず技術で勝負しよう。
北京で国中の織子を集めて天下一を決める競技会が開かれることに。天下一の称号を得たら皇太后が喜び、褒美が出る可能性があるとのこと。
翠喜は曹夫人の”娘を頼む”と書いてある遺書を持って再び幺嬢に会いに行きます。幺嬢は客揚げの機会を邪魔され「じゃあ私をここから連れ出してよ!行院から出してよ!」と翠喜をなじります。
翠喜は「生きてほしいの。あなたを守るため夫婦で心中し身を挺して守ってくれた母君の御苦労に報いるのよ。軽はずみな行動ははやめて。私を信じて。必ずあなたを助けだす。待っていて」
固い決意をした翠喜は競技会に臨みます。
全国屈指の工房の織女たち。各地の秀逸な刺繍、織物を真剣に作品を織る織女たち。
競技会の最中に曾宝琴の織機が壊れてしまいます。交換しようにも時間がない!。翠喜は「同門であり、作品は漢字で同じ」自分と一緒に織らせて欲しいと頼み、ひとつの織機で二人の合同作品を織っていきます。
出来上がった作品はそれぞれが素晴らしいもの。
皇太后が選抜された織女の作品を高覧し、曾宝琴と沈翠喜合同作品、中心に「寿(字体の違うそれぞれの寿)」の図、周りを「福の字を百」描いた図を一位に決定します。
二人は皇太后に褒美は何がほしいかと聞かれます。翠喜は迷わず、行院にいる幺嬢のらくせきを願いました。しかしそれは官僚制度の罰則に反するもの。
皇太后は「官吏一家を罰するには理由がある。官吏は民に奉仕し、ないがしろにするべきではない。戒めるため。救うべきではない。救うべき女子は他にたくさんいる。願いを変えなさい」
翠喜「私は生死や栄誉が男次第である女子が哀れでならないと思うだけです。悪事を尽くした男が一旦名声を失えば女子の末路は死のみ。だから私は前例を破り、女子を救いたいのです。家族のせいで蔑まされる幺嬢のような女子を。幺嬢の活路が開けば不本意に生きる世の女子も望みがもてます」と陳情。
願いが叶えられて幺嬢は解放されます。
曾宝琴は皇太后直筆の”清越坊”の書を願います。
皇太后の書いた”清越坊”の看板で再び客が清越坊に戻り繫盛。任家当主の雪堂は石碑を建てて翠喜を称えます。
曾宝琴との会話、弟子たちへの言葉、翠喜は「皇太后も女子。女子であれば他人事ではないはず。罪を犯したのは父親だけよ。我ら女子には自らの定めはない。父親、夫、子供の定めに家族や妻、そして母親として従っているだけ。でも父や夫、息子の罪にまきこまれるのは女子が悪いせい?では何故女子を罰するの?他人の罪なのに」
翠喜の工房に幺嬢を迎え入れます。
世の女子に手に職をつけてほしいから、技能を伝授することだけが私にできる唯一のこと。女子たちが緙絲(こくし)、刺繍を覚えれば家族の金銭的な支えになる。
酒浸りの父親や冷酷で薄情な姑、賭博好きな夫にもうないがしろにはされない、いつかその日がくる。女子であっても何も恐れなくていい。自らが望む暮らしや居場所を持てる自分の家を。
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素晴らしい翠喜の活躍、考え方。今現代にも通用する考え方です。泣くのは女という考えはもう開放しても良いでしょう。
ジョアン・ジルベルト ②「Aos Pes Da Cruz」「Morene boca de ouro」
「ボサノヴァの歴史」(ルイ・カストロ著)で”すべてを変えた1分59秒”と呼ばれた、ジョアン・ジルベルト(Joao Gilbert)のSP”想いあふれて(Chegade Saudade)”と”ビンボン(Bimbom)”は1958年8月にリリースされました。続いてSP”デサフィナード"と”オバララ(Ho-Ba-La-La)”が1959年11月にリリースされました。
アントニオ・カルロス・ジョビンはジョアン・ジルベルトのLPを制作するために、オデオン・レコードに働きかけ、1959年1月にファースト・アルバムの録音が始まりました。
SPで発売された4曲以外にジョビン作曲の”喧嘩にさよなら(Brigas Nunca Mais)”、カルロス・リラの”Lobo Lobo”"Saudade Fez Um Samba""マリア・ニンゲン(Maria ninguem)”、アリ・パポーザの”Morene boca de ouro” "E Luxo Só"、 ドリヴァル・カイミの”ホーザ・モレーナ(Rosa Morana)”、マリーノ・ピントの"十字架の木の下で(Aos Pés da Cruz)"の録音が2月4日に終わり、ファースト・アルバム「Chega DE Saudade」は4月にリリースされました。
「ボサノヴァの歴史」(ルイ・カストロ著)より
ボサノヴァの歴史を作った、ジョアン・ジルベルトのファースト・アルバム「Chega DE Saudade」(1959年)から、マリーノ・ピント(Marino Pinto)の"十架の木の下で(Aos Pes Da Cruz"です。
マリーノ・ピントは300曲以上作曲し、"十字架の木の下で(Aos Pes Da Cruz"はマリーノ・ピントの最初の大ヒット曲です。ジョビンとの共作も”数学の授業(Aula de matemadica””スセデウ・アシム(Sucedeu assim)”他全5曲あります。
ジョアン・ジルベルトの小さな声でスムースに歌うヴォーカルは、それまでのブラジル音楽にはないものでした。若く瑞々しい歌声も素晴らしいです。
ジョア・ンジルベルトのファースト・アルバム「Chega DE Saudade」から、アリ・パポーザ(Ary Barrosa)(1903~1964年)の”Morene boca de ouro”です。アリ・パポーザはブラジルの国民的作曲家で、”ブラジルの水彩画(Aquarela Do Brasi)l”は1942年にディズニー映画に使われ、世界中で多くの歌手や演奏家に録音されました。
ジョア・ンジルベルトはボサノヴァやモダンなナンバーにこだわらず、自分が好きな昔のサンバやサンバ・カンソンの曲をレパートリーにしていました。
1967年のポップス ㊼ クリフ・リチャード「太陽をつかもう」「マリーは恋人」
クリフ・リチャード(Cliff Richard)の日本で1967年4月に発売された”太陽をつかもう(Finders Keepers)”(東芝OR-1688)です。クリフ・リチャードとシャドウズ(The Shadows)主演の映画「太陽をつかもう(Finders Keepers)」の主題歌で、英国では1966年12月に"イン・ザ・カントリー(In the Country)"のB面としてリリースされました。サウンド・トラック・アルバム「Finders Keepers」は英国では6位にランクされ、18週間チャート・インしました。映画は英国では1966年12月に、日本では1967年7月に公開されました。
文化放送「オール・ジャパン・ポップ20」では5月4日に15位で初登場、6月22日、29日、7月9日、16日に1位、8月20日に13位までランクされました。TBS「今週のベスト10」では4月30日に18位で初登場、6月11日、18日に1位、8月27日に18位までランクされました。「洋楽ヒットチャート大事典」では1967年年間チャートで12位に選ばれています。
1968年には"コングラッチュレイションズ(Congratulations)”の大ヒットもあり、1967~68年はクリフ・リチャードがポップス・シンガーとして日本で一番人気のあった頃だと思います。
クリフ・リチャードの「マリーは恋人(The Day I Met Mariie」(東芝OR-1804)です。英国では1967年8月にリリースされ、10位にランクされました..
TBS「今週のベスト10では1967年11月12日に18位で初登場、11月17日に最高位4位、1968年1月21日に15位にランクされました。文化放送「オール・ジャパン・ポップ20」では11月19日に19位で初登場、12月10日に最高位9位、12月17日15位までランクされました。「洋楽ヒットチャート大事典」では1967年年間チャートで40位に選ばれています。
1966年のポップス ㉚ ベンチャーズ 「ブルー・スター」レス・バクスター(1955年)
ベンチャーズが日本で1966年9月にリリースした”ブルー・スター(Blue Star)”です。米国で1954年から1956年に放映されたテレビ・ドラマ「The Medic)」のテーマ曲で、映画音楽の巨匠ヴィクター・ヤングの作曲です。ベンチャーズの演奏は原曲のメロディーの美しさを描き出した素晴らしいアレンジです。米国では1966年にリリースされ、120位にランクされました。B面は日本と同じ”カミング・ホーム・ベイビー(Comin' Home Baby)"です。
シャドウズが1961年にレコーディング、シングル”Shadoogie”のB面でリリース、ファースト・アルバム「The Shadows」に収録されています。
文化放送「9500万人のポピュラーリクエスト」では1966年9月15日に20位で初登場、11月3日に最高位4位、12月1日まで18位にランクされました。
レス・バクスター(Les Baxter)楽団の演奏がテレビ・ドラマ「the Medic」のテーマに使われました。
シングル”The Medic-Theme(Blue Moon)”は、”Unchained Melody”のB面で、米国では1955年2月にリリースされました。
1965年のポップス ㉓ べンチャーズ「逃亡者」「クルーエル・シー」
ベンチャーズが日本で1965年7月にリリースした”逃亡者(The Fugitive)”(東芝-LR1300)です。米国ではアルバム「THE FABULOUS VENTURES」(1964年)に収録され、シングルは全米126位にランクされました。テレビドラマの「逃亡者」とは関係ないオリジナル曲で、イントロの犬の鳴き声から始まる、とても格好良いナンバーです。
”逃亡者”とのカップリングで発売された”クルー・エルシー(The Cruel Sea”です。米国では1964年に”Walk Dont Run '64"のB面としてリリースされました。オリジナルは英国のグループ、ダコタス'(The Dakotas)で1963年に全英18位にランクされました。
文化放送「9500万人のポピュラーリクエスト」では1965年9月2日に21位で初登場、10月14日、21日に4位、12月16日に18位までランクされました。TBS「今週のベスト10」では8月1日に18位で初登場、9月26日には9位にランクされています。「洋楽ヒットチャート大事典」では1965年年間チャートで37位に選ばれています。
「笑点」立川晴の輔について思うこと
立川晴の輔が言葉合わせと語呂合わせや、当たり前の答えしか言わないのは、若手大喜利で3年間位レギュラーで出演していたので、笑点のプロデューサーやディレクターはわかっていたはず。それなのに「ナンセンスな笑いの王様」木久扇のあとにメンバーにするとはプロデューサーやディレクターの責任が大きいと思います。
林家たい平がフ・フ・フナッシーで晴の輔に飛ぶと、"笑点ってこんなことするんですか?” たい平のフナッシーを知らないとは、今まで「笑点」を観たことがないのでしょうか。
桂宮治へ
家族のことを言われるのが嫌なら,寄席やホールで落語をやっていた方が家族にとって良いと思う。
桂歌丸にさんざん”破壊された顔”のことを言われても”巷(ちまた)では”と粋、キザを通した三遊亭小円遊がいる。歌丸も奥さんネタで何回死んだことか。先代の円楽も借金や顔の長いことをネタにされても、平気で笑ってシャレにしていた。たい平にいたっては”師匠のこん平に毒をもった”といわれても笑いにしてしまう、落語の世界はスゴイなあと思っていました。宮治も晴の輔も家族や師匠のことを言われると 真顔になって”テレビで観ているから”やめてくれ”というのは話にならない。笑点に出演するのは止めたほうが良いです。
韓国フォークソンググループ/ヒョンギョンとヨンエ「本当にきれいですね」Peter, Paul & Mary - Oh, Rock My Soul (
Peater、Paul&Mary "Oh,Rock My Soul(オー、ロックマイソウル)”を韓国の翻案曲にアレンジして美しいハーモニーで楽しく歌っています。1970年代に1枚だけアルバムを出して音楽活動をやめたヒョンギョンとヨンエです。
Peater、Paul&Mary(ピーター、ポール&マリー PPM) "Oh,Rock My Soul” 観客席を半分に分けて別々のパートを同時に歌うパートナーソング?が楽しい。一緒に歌っています。
キム・ヒジンとヤン・ハヨンも「本当に綺麗ですね」をデュエットしています。
この画像は2013年のKBSTVコンサート7080」に出演したときのものです。女性フォーク歌手のデュエット大好きです。
韓国フォークソング/ヒョンギョンとヨンエ "クリウォラ(懐かしいよ)" "美しい人" - 毎日韓国ドラマと映画と音楽でヘンボケヨgooblog
ヒョンギョンとヨンエ「鐘の音」 - 毎日韓国ドラマと映画と音楽でヘンボケヨgooblog
キム・シヌ「愛と別れ」 コンサート7080出演ライブ「帰去来辞」
「帰去来辞」のキム・シヌ。1996年第3集収録曲「愛と別れ」良い曲なのでアップしました。ペ・ヨンジュンやチェ・ジンシルが出演する1990年代韓国ドラマのティストにあふれていますね。
これまでキム・シヌは2回載せています。
キム・シヌ 「帰去来辞」「The Man」 - 毎日韓国ドラマと映画と音楽でヘンボケヨgooblog
キム・シヌ THA MAN - 毎日韓国ドラマと映画と音楽でヘンボケヨgooblog
2003年に韓国ドラマ「死ぬほど好き」のエンドタイトル”帰去来辞”に使われてこの歌のファンになって約20年弱。2012年にKBSテレビの歌番組「コンサート7080」に初めて出演し、”帰去来辞”作者であり、歌手であるキム・シヌを生コンサートは心からうれしかったし、YouTubeにもアップされたことは最良の喜びでした。(途中で「帰去来辞が消去されたのは残念)
ブログを始めたころは歌手のことも調べずに曲の良さだけでアップしていました。
改めてシンガーソングライターキム・シヌを調べてみました。
上は画像内のYouTubeを見るクリックで観ることが出来る500万回視聴された画像です。「コンサート7080」に2回目に出演したときの演奏だと思われます。帰去来辞をロック風に激しく歌いあげるキム・シムがカッコイイです。
キム・シヌ
1994年9月、キム・シヌは本人がプロデューサーを務める正規1集『Kim Shin Woo 1994』を発表し、タイトル曲〈記憶してくれ〉が注目された。 <記憶してくれ>は今でもバラード名曲編集アルバムにしばしば含まれるほど着実に愛される曲だ。
デビュー以来、キム・シヌは自作曲でアルバムを満たしてきた。 「自作曲を歌わなければ曲の感じをきちんと表現できる」とし、他の人が書いた曲を受ければ原曲の感じを生かすことが難しいからだという。
だが、所属事務所やマネージャーとの葛藤など音楽外的な問題のため、1995年の2集『Kim Shinwoo 2』と翌年の3集『Kim Shin Woo』、1999年の4集『帰去来辞去』まですべてファンに知らせる機会も得られず、埋もれている痛みを経験しなければならなかった。
そんな状況でも、1996年キム・シヌが作詞・作曲・歌ったアニメ映画のOST〈マリ〉 が人気を集め、映画興行には失敗したが、OSTレコードは20万枚以上売れる記録を立てた。同年発売されたキム・シヌの3集に〈マリ〉とメロディは同じで歌詞を変えた「太陽」という曲をまた収録した。
また4集の収録曲である〈帰去来辞 〉は人生の虚しさを込めたフォークロックで、 2003年MBCドラマ「死ぬほど好き」のOSTで使われ、もう一度愛された。 2006年2月の第1週のオンラインミュージックチャートで34位を占めた。
キム・シヌは同僚の歌手たちのアルバムにも作詞家、作曲家、プロデューサーとして多く参加した。 特にアン・サンスの「永遠に僕に」(1995年)、イ・スンフンの雨の街(1997年)などヒット曲を作詞・作曲した。
2001年正規5集『The Man』を発表した。 今回のアルバムでも全曲を直接作詞・作曲・プロデュースし、韓国的メロディ中心のロックバラード曲、そしてカントリーミュージックとロックを組み合わせたサザンロック(Southern Rock)色彩が強い曲で行われた叙情的なアルバムだ。
キム・シヌは2002年中央日報とのインタビューで「帰去来辞」にまつわる切ない事情を伝えたことがある。 「キム・グァンソクさんがある日からずっとそう伝えるのです。 ”次のアルバムはあなただけを信じる、良い曲をたくさん作れ''と言う。そうなんです。」
これまでコンサートを通じてファンとコミュニケーションを行ってきたが、テレビ放送活動はしなかった。
2015年5月、キム・シヌが作詞・作曲・編曲・プロデュース・演奏まで果たした正規6集『Slow & Analogue』を発表した。 タイトル曲〈時には〉をはじめ、〈夕暮れ時〉、〈そのまま〉、〈プレゼント〉など新曲13曲で満たされた。SBSバラエティ番組イタリアの自然に溢れている場面でキム・シヌの6集音楽が使われて話題になったことがある。
キム・シヌ:「私が曲に満足しなければ他人も満足しない。最高の商品性はお金を使った。単純にするのがもっと大変だった。しなかった」と惜しみがあるからまた歌を作っている」
キム・シヌは自身の音楽活動を続けており、弟子も育てている。