人が生きる世の中(サランサヌンセサン)
毎日韓国ドラマと映画と音楽でヘンボケヨgooblog
イ・ジョンソン、イ・グァンジョ、オム・インホ「路地~こんな夜は~若い恋人たち」
オム・インホ
路地
こんな夜は
2009年の画像がないので2007年のコンサート7080からです。
2009年に放送されたKBSTV「コンサート7080」からの画像です。
オム・インホ”路地”の後、イ・ジョンソンとイ・グァンジョ、オム・インホの”こんな夜は””若い恋人たち”メドレー。
「コンサート7080」では”こんな夜は””若い恋人たち”を3人で歌い、司会を交えてトーク。その後に”路地”が歌われました。Youtubeにこの画像をUPされたnaragoyoさんは「新村ブルース」のオム・インホのファンなのでしょうか、最初に”路地”が歌われてますね。
1978年に3人で「風船」を結成し、1年間活動していますが、トークでは30年ぶりの3人の集結だそうで、レコードジャケットを見ながら、随分変わったなどと話していました。「風船」は元々イ・グァンジョとオム・インホのデュエットだったのが、イ・ジョンソンが収録でコーラスとギターを担当したことで、3人トリオの活動になったそうです。イ・ジョンソンはその後フォークのジャンルからブルースバンド「新村ブルース」でオム・インホと長い間活動することになります。
30年ぶりの集結に伴い変わったことはと聞かれると、オム・インホの酒量が減ったことなのだそうです。ブールースマン、オム・インホのトレードマークはさらさらの長髪と酒だったのが、寄る年波には勝てなくて酒量が減ってしまったとのことでした。
フォークの”若い恋人たち””こんな夜は”を歌うのでしゃがれ声のオム・インホは悪夢を見たと話していました。イ・グァンジョは針灸に通い、イ・ジョンソンはキングサイズになってしまったとのことです。
路地
*路地に差し掛かるとこの胸は高鳴っていたのさ
カーテンがかかった君の部屋を 黙ってみつめた*
てれくさそうな君の顔が 窓を開けて 表れそうで
やきもきしながら部屋の窓を 黙って見つめた
**顔をあわせると何も言えないのに 別れると名残惜しく胸をこがす
バカみたいに一言もしゃべれず 背を向けては後悔する**
*~* **~** *~*
こんな夜は
こんな夜は何をしよう 眠りは来ず 君はそばにいない
夜は深いのに 雨は降り 君への想いは強まるばかり
電話をかけようか手紙を書こうか 会えずに想いはつのるばかり
*こんな夜は何をしよう 君がいないと寂しくなる
こんな夜 雨は降り 想いはつのる こんな夜は*
*~*
若い恋人たち
睦まじい恋人が手に手をにぎり 歩いていく道
彼方遠く僕たちの楽園が 手を招き 僕たちを呼ぶ
**道は険しく 雨風強くても 互いのためなら
吹雪の中でも 手をにぎりあい 温かなぬくもりを交わす**
*この世のすべてが僕から遠ざかろうと
いつまでも君だけは僕の元に*
*~* **~**
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韓国フォーク イ・ジョンソン 「山の人」「島の少年」 4人組ヘバラギ 「島の少年」
あえてイ・ジョンソンを韓国フォークでUPしました。イ・ジョンソンは1980~90年代にかけてブルース・バンドを結成し活動しましたが、1970年代においては韓国フォークの黎明期の一翼を担ったフォークシンガーです。自然と人をテーマに叙情的な歌を数多く世に送り出しています。”山の人”は1974年発表の歌です。
山の人
幼い頃から山が好きだった 祖父が眠っている 裏山に登って 空を見上げると
無我夢中で楽しかった
大人になっても山が好きだ 小川に足を浸し 山一面に」 紅葉が燃えると
山が好きで離れられない
見れば見るほど本当に深い 山が好きだ 一日また一日経っても
山で暮らす
幼い頃から山が好きだった 祖父が眠っている 裏山に登って 空を見上げると
無我夢中で楽しかった
大人になっても山が好きだ 小川に足を浸し 山一面に」 紅葉が燃えると
山が好きで離れられない
見れば見るほど本当に深い 山が好きだ 一日また一日経っても
山で暮らす
老いても山が好きだ 何も言わずとも 温かい友達
山全体に白く 雪が降った日 私は私は山になる 私は私は山になる
山全体に白く 雪が降った日 私は私は山になる 私は私は山になる
1950年に大邱で生まれたイ・ジョンソンは1968年ソウル美大に進学しましたがベンチャーズなどの洋楽に熱中。2年のときキム・ミンギが同大学に入学してきました。ギターの上手なイ・ジョンソンはキム・ミンギにコードを教えながら交流を深めます。
美大在学中に軍楽隊に入隊し、編曲された合奏楽譜を引き受けながら、編曲の世界に目覚めました。軍楽隊生活を通じて、作詞・作曲・編曲・演奏・歌などのアルバム制作全過程を一人で処理することができる、音楽的基盤を兼ね揃えるようになりました。
1969年末休暇で部隊から出ると、後輩のキム・ミンギはフォークデュオ 「ドビド」を結成して活動をしていました。
除隊した翌年の1973年2月に明洞(ミョンドン)のYWCA大講堂で 「イ・ジョンソン歌発表会」を開いて公式的なデビュー舞台を飾りました。
1974年に韓国最初の、すべての曲を作詞・作曲・編曲・歌・演奏までしたデビューアルバム「イ・ジョンソンあちらこちらに」をリリース。9曲が発売禁止曲となったため、同年次に発売したアルバム「イ・ジョンソン島少年」が公式的な 1集アルバムとされています。
1975年にイ・ジョンソン、イ・ジュホ、ハン・ヨンエ、キム・ヨンミの4人組で、ヘバラギを結成し活動。”雲、花、石、恋人”が収録された1集を発売します。
イ・ジュホがメンバーから脱退、変わりにイ・グァンジョが参加し1979年”綿雲””夏”が収録された2集アルバムを発売しました。その後それぞれが自分の道へと進みました。1986年に外国で暮らしていたキム・ヨンミが帰国したことに伴い、臨時にヘバラギを再結成し、3集アルバムをだします。
イ・ジョンソンのフォークロックの活動は、ヘバラギの後1979年にイ・グァンジョ、オム・インホとともに、バンド「イ・ジョンソンと風船」を結成して1年間活動。
1986~1997年までオム・インホとともにブルースバンド「新村ブルース」を結成、ハン・ヨンエ、キム・ヒョンシク、イ・ウンミなどがバンドのボーカルとして参加しました。
イ・ジョンソンは一方ではプロの編曲家として数々のアルバムに参加。特に1977年「MBC大学歌謡祭」を始め「川辺歌謡祭」「海辺歌謡祭」などの入賞曲を作り、歌謡際のアルバムに編曲、演奏者として参加しました。
イ・ジョンソンは数々の音楽教本を出版、音楽普及に活躍しました。同徳女子大音楽学科教授として在職し、2年間は同大学の公演芸術学長を歴任しました。
KBSTV「コンサート7080」でも、ナムグン・オクプンと一緒にフォークメドレーを歌っています。
島の少年
人里離れた波の上 小さい島の村の少年は
いつも海を見ている
海 あの遠くカモメになるなら
少年は夢の中の王女を呼んだ
いつも海を見ている
海 あの遠くカモメになるなら
少年は夢の中の王女を呼んだ
波は言ってくれたの 海の中 夢の国を
波は言ってくれたの 待っている少年
波は言ってくれたの 待っている少年
ある風が吹き起こる夕方に
綺麗な人魚が少年を捜した
綺麗な人魚が少年を捜した
村人が来て島を探しても
あの少年には会えなかった
波は言ってくれたの 海の中 夢の国を
波は言ってくれたの その少年はどこに
波は言ってくれたの 海の中 夢の国を
波は言ってくれたの その少年はどこに
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イ・スンファン 「一緒にいる私たちは会いたい」 ノ・ムヒョンに捧ぐ(人が生きる世の中)
48歳の童顔王子イ・スンファン。才能溢れるアーティストであり、実業家でもあります。特異なファッションでKBSTV「開かれた音楽会」や「コンサート7080」に出演していますが、イ・スンファンといえば私の中では、韓国女優チェリム(「カイスト」「ただいま恋愛中」)の元旦那様としてでした。
ノ・ムヒョン元大統領の法事の記念コンサートに、イ・スンファンが出演していて驚きました。さらにユ・ヒョルの音楽番組で、コンサートスタッフ養成事業の成功などの話を聞いて、子供っぽくみえる人なのに、随分賢くて気丈な人なのだなと、ある意味尊敬の念を持ちました。
”一緒にいる私たちは会いたい”は2014年に発売した11集アルバムの中の収録曲です。アメリカで録音を済ませ、仕上げの合唱団にトップクラスの合唱団も考えましたが完璧主義者のイ・スンファンは、この曲のテーマにふさわしい合唱をとのことで、「平和の木合唱団」に決定しました。
”一緒にいる私たちは会いたい”
*私たちが一緒にいる姿を見たい あなたと一緒にいる私たちは会いたい*
星がささやく音のように私の元へ来るあなた
花がふれるように近づくあなた
毎日会うことはできないあなた
ただ一度だけ会うあなた
*~*
あなたに行く道 つらくても見えなくても
それでもあなたは道だ あなたが道だ
*~*
あなたよ 希望よ 私の道よ
あなたは希望で 私の愛です
この曲とイ・スンファンについて詳しい韓国ブログにありましたので、抜粋します。
イ・スンファンは11集アルバムを発表し、インタビューで堂々と”一緒にいる私たちは会いたい”という歌は故ノ・ムヒョン前大統領に対する懐かしさを表現した歌と明らかにしました。
普段から尊敬するノ・ムヒョン大統領に対する歌を作るためにメロディを先に作り、ト・チョンファン詩人に作詞を頼みました。完成した歌をイ・スンファンはノ・ムヒョン前大統領を思って歌ったと言いました。
イ・スンファンはインタビューを通じて自分のこのような行動は、主張ではなくて個人の性向(性格)だと言いました。不当な抑圧と圧力に対しての勇気ある主張ではなく、人間なら誰もが持つ個人的性向というのです。
イ・スンファンは光州民主化抗争と全斗煥前大統領に関する映画「26年」を製作するときも10億ウォン投資して参加。まわりの不穏な視線と自分に向けた避難と脅迫で、恐ろしい目に会った経験があると言います。
それでも彼が「米国産牛肉の輸入反対」集会や「竜山惨事遺族助け合い」コンサートに参加することは、一人の人間として持っている考えと所信を守るための勇気ある行動でした。
イ・スンファンの言葉のように、芸能人が自分たちの政治的性向を明らかにするのに、あえて主張という言葉まで必要のないそんな時代がきたらと思います。
私(ブログ主)がイ・スンファンの”ノ・ムヒョンを偲ぶ歌”に拍手を送る理由は、堂々と自分の政治的所信を貫いたことにあります。
この数年の間に韓国の芸能人たちが自分たちの政治的立場や主張を明らかにしたという理由で、魔女狩りのような非難を浴びるとか、放送出演禁止などが多々ありました。
ラジオで時事プログラムを進行したコメディアン、キム・ミファは進歩的という理由でブラックリストに上がり、ノ・ムヒョン大統領の追悼祭の司会をしたコメディアンキム・ジェドンはしばらく放送に出演することができませんでした。その他にも数多くの芸能人たちがイ・ミョンバク、パク・クネ政権を批判したり、野党の立場に同調したという理由で陰に陽に非難と圧力を受けました。
今でも芸能人が政治的な問題や社会的な問題に対する発言をすれば、”芸能人が何で政治か”という皮肉や、”放送文化を政治的道具で利用する”という非難を浴びる場合がたびたびあります。もちろん放送を政治的目的に利用することはありえないことです。 しかし芸能人だと言って自分の政治的性向を明らかにすることができないようにする権利は誰にもないのです。
韓国の憲法は 一部の特定職業群を除きすべての韓国国民に政治的自由とこれに関した意思表現の自由を保障しています。芸能人は政治的中立を守らなければ
ならない公務員ではないのです。彼らが放送という媒体を通じて国民に影響を与えることができる可能性が多いからという理由で、一般の人々より高い道徳性を要求されることはあります。しかし政権を批判するとか、社会的問題に自分の意見を言うとか、政治的性向を明らかにすることはこんな道徳性とはなんらの関連がないことです。
それでも多くの人々は芸能人は大衆に及ぶ影響が大きいという理由で、彼らの政
治的意思表現に拒否感を示しています。もし芸能人たちの政治的性向表現が本当に問題になるなら現在芸能人とか過去に芸能人だったすべての人々の選挙参加と政治参加を禁止させなければならないでしょう。 韓国ブログより。
日本でも状況は同じです。宝田明や故菅原文太が戦争に進む道に異を唱えていますが、まだまだ芸能人は言いたい事がいえません。自主規制の名の下で。
イ・スンファンは「ろうそく集会」や「MBCストライキコンサート」などに積極的に参加しています。「3・8・6世代」ではありますが1980年代、時代の流れに参加することなく一人静かに大学生活を送ったイ・スンファン。多くの人々がその時代を忘れ、イ・ミョンバクやパク・クネ政権を支持していても、ノ・ムヒョンの「人の生きる世の中」を目指して活動するイ・スンファンは立派な人だと思います。
”一緒にいる私たちは会いたい”の収益金は白血病子供財団に寄付されました。
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