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1961年の洋楽 ⑦ ジョニー・バーネット「片目のジャック」「リトル・ボーイ・サッド」

 

 

 ジョニー・バーネット(Johnny Burnette)の”片目のジャック(One Eyed Jack)”(東芝LB-15)です。マーロン・ブランド(Marlon Brando)が監督した唯一の映画「”片目のジャック」(1961年)にインスパイアされ、スナッフ・ギャレットのプロデュースで制作された作品です。日本ではジョニー・バーネットのナンバー中で最もヒットし、「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1962年年間チャートで41位に選ばれています。日本でのシングルのB面は、米国では”Dreamin'”のB面だった”シンデレラ・ファイアーボール(Cincinnati Fireball)”です。

 ”片目のジャック(One Eyed Jack)”は、米国では”リトル・ボーイ・サッド(Little Boy Sad)”に次ぐシングル、"Big Big World"のB面として1961年にリリースされました。"Big Big World"はポップ・カントリーで米国では58位にランクされました。

 映画はマーロン・ブランドが主演,、カール・マルデン(Karl Malden)、ベン・ジョンソン(Ben Johnson)などが出演、米国では1961年3月、日本では7月に公開されました。音楽は戦前より多くの映画音楽を作曲しているヒューゴー・フリードホーファー(Hugo Friedhofer)です。

 

 

 

 

 ジョニー・バーネットの日本での3枚目のシングル”リトル・ボーイ・サッド(Little Boy Sad)”(東芝LB-20)で、”イカしたあの娘(Girl of My Best Freind)”とのカップリングで発売されました。

 米国では”ユアー・シックスティーン”に次ぐ、リバティー・レコードでの5枚目のシングルとして1961年1月にリリースされ最高位17位、英国では12位にランクされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1961年の洋楽 ⑥コニー・フランシス「ボーイ・ハント」「夢のデイト」

 

 

 米国のポピュラー女性歌手、コニー・フランシス(Connie Francis)の”ボーイ・ハント(Where the Boys Are)”です。米国では1961年1月にリリースされ、全米4位にランクされました。1960年製作の映画「Where the Boys Are)」のテーマ曲で、ニール・セダカ(Neil Sedaka)とハワード・グリーンフィールド(Howard Greenfield)の作品です。

 米国でB面は”No One”で、日本でのB面はエルヴィス・プレスリー(Eivis Presly)のヒット曲”冷たくしないで(Dont Be Cruel)”です。日本では”カラーに口紅(Lipstick on Your Colour)”(1959年~60年)に続くヒットになりました。「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1961年年間チャート12位に選ばれています。

 

 

 

 コニー・フランシス(Connie Francis)の”夢のデイト(Someone Else’s Boy)"です。米国では1961年4月にリリースされ、全米7位のヒットになったカントリー・ソング"Breakin' in a Brand New Broken Heart"のB面でした。

 カントリーは日本では流行らないので、”夢のデイト"をA面にして、日本語版もリリースしました。伊東ゆかりがカヴァーしたので、日本語版のほうが洋楽ファンには馴染みがあると思います。「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1961年年間チャート16位、1962年年間チャート14位に選ばれています。

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1961年の洋楽 ⑤ デル・シャノン、ベンチャーズ「悲しき街角」(1963年)

 

 

 デル・シャノン(Del Shanon)のデビュー・ヒット曲「悲しき街角(Run Away)」(ビクターATL-1072)です。デル・シャノンは歌手、作曲家で高校時代からバンドを結成、将来ミユージシャンになることを決意。1958年に悲しき街角」の共作者でもあるマックス・クロックとともにカントリー・バンドで活動しているところを認められて「BIGTOP」レーベルからから、1961年2月に”悲しき街角(Run Away)”をリリース、米国では4週連続1位、英国、カナダなどでも1位になる大ヒットになりました。B面は日米同じ"ジョディ(Jody)"です。

 日本でもヒットし、飯田久彦がカヴァーしました。「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1961年年間チャートで6位、1962年年間チャートで26位に選ばれています。

 

 

 

 ベンチャーズ(Ventures)の”悲しき街角”(東芝LB-51)です。日本のみのシングルで、映画「世界残酷物語」のテーマ"果てしなき慕情(More)”とのカップリングで1963年に発売されました。

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1961年の洋楽 ④ ニール・セダカ「小さい悪魔」「星へのきざはし」(1960年)

 

 

 ニール・セダカ(Niel Sedaka)の"小さい悪魔(Little Devil)"です。ニール・セダカ(Niel Sedaka)とハワード・グリーンフィールド(Howard Greenfirld)の作品です。

 米国では1961年に"カレンダガール"の次にリリースされ、全米11位にランクされました.日本でもヒットし、「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1961年年間チャートで19位に選ばれています。

 

 

 

  ニール・セダカの"星へのきざはし(Stair Way to Heaven)"です。米国では1960年リリースされ、全米9位にランクされました。ニール・セダカ(Niel Sedaka)とハワード・グリーンフィールド(Howard Greenfirld)の作品です。

 日本でも1960年に発売されましたが、"おお!キャロル(Oh!Carol)(1960年)"や、"君こそわが命(You Mean Everything to Me"(1961年)に比べヒットしませんでした。メロディーも良いですが、曲間に入る"ドーン"という音が面白いです。

 

 

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1961年のポップス ④「カレンダー・ガール」ニール・セダカ、坂本九

 

 

 ニール・セダカ(Neil Sedaka)の"カレンダー・ガールCalender Girl)"です。当時のテレビで放映された映像だと思いますが、ビートルズ以前のアメリカとアメリカン・ポップスの明るさ(能天気と言ってよいほど)には感動してしまいます。

 ニール・セダカ(1939年~)は子供の頃にクラシックの演奏家を目指してピアノを始めましたが、中学時代に学校の仲間達とポップ・グループを結成、その後ジュリアード音楽院で学ぶかたわら、友人のハワード・グリーンフィールド(Howard Greenfield)とともに大手音楽出版社のアルドン・ミュージックに入社。作曲家として活動しながら、歌手としてデビュー、"恋の日記The Diary)”(1958年)が全米14位、"おおキャロル(Oh! Carol)"(1959年)が全米9位にランクされました。

 ”カレンダー・ガール”は1960年にリリースされ、1961年に全米4位にランクされるヒットになりました。ニール・セダカとハワード・グリーンフィールドの作品です。「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1961年年年間チャートで7位に選ばれています。

 

 

 

 坂本九の”カレンダー・ガール”です。坂本九は1958年に「ダニー飯田とパラダイス・キング」に参加、1959年にレコード・デビュー。"カレンダー・ガール”は「坂本九/ダニー飯田とパラダイス・キング」のシングル盤として1961年6月に発売されました。

 坂本九の歌の上手さ、天性の発声法とリズム感の良さには感心するばかりです。弘田三枝子とならんで戦後の歌謡界を代表する天才歌手だと思います。

 

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1961年のポップス ③ スティーヴ・ローレンス 「悲しき足音」「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」

 

 スティーヴ・ローレンス(Steve Lawrence)(1935年生~)は1952年にアーサー・ゴッドフリーのタレント・スカウトで優勝したのをきっかけにキングレコードに入社、その後コーラル、ABCパラマウント、ユナイテッド・アーティストなどに在籍しました。1957年にはイーディー・ゴーメ(Eadie Gorme)と結婚、ソロ歌手だけでなく奥様とコンビで活躍しました。1962年には二人揃ってCBSに移り、ソロ・アルバム以外に、ルイス・ボンフ(Luiz Bonfa)ァと共演したアルバム「Steve & Eadie,Vonfa & Brazil」などのアルバムをリリースしました。

「悲しき足音(Foot Steps)」は米国では1960年4月にリリース、最高位4位にランクされるヒットになりました。作曲はバリー・マン(Barry Mann)です。

 日本では1961年に発売され、「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」では1961年の年間ランキングで16位、1962年年間ランキングでは40位に選ばれまています。またこの曲は日本では1968年にリバイバル・ヒットし、「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」では1968年年間ランキング88位に選ばれています。

 

 

 

 「ゴー・アウェイ・リトル・ガール(Go Away Little Girl)」はキャロ・ルキング(Carol King )、ジェリー・ゴフィン(Gerry Goffin)、コンビによる作品で、ボビー・ヴィー(Bobby Vee)が1962年5月に初レコーディングしました。

 スティーヴ・ローレンス(Steve Lawrence)は1962年11月にリリース、1963年1月にはビルボードで1位にランクされるヒットになりました。この曲はオズモンド・ブラザーズのダニー・オズモンドが1971年にカヴァー、ビルボードで1位に3週ランクされました。

 

 

 

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1961年の洋楽 ② ヘレン・シャピロ、弘田三枝子 「悲しき片想い」

 

  ヘレン・シャピロ(1946年~)は音楽一家に育ち、10歳よりアマチュア・バンドで歌うかたわら、シンギング・アカデミーに通学、EMIのプロデューサーとして有名なノリー・パーマーのもとで”子供じゃないの”(Don't Treat Me Like a Child)でレコード・デビュー、大人の声をもった天才少女と言われました。

 ”悲しき片想い(You Do't Know)”は、英国ではセカンド・シングルとして1961年6月にリリース、1位にランクされるヒットになりました。日本では「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」で年間ランキング1961年22位、1962年5位に選ばれました。

 

 

 弘田三枝子(1947年2月生)は幼稚園の頃から将来は歌手になることを決意、7才で週1回「日本ジャズ学校」に通い、中学からは進駐軍のキャンプでポップスやジャズを歌っていました。1961年にわずか14才で、 ヘレン・シャピロのカヴァー”子供じゃないの”(Don't Treat Me Like a Child)でレコード・デビューしました。

 UPしたのは”子供じゃないの”のB面、”悲しき片想い(You Do't Know)”で、両面ヒットになりました。14才とは思えない歌の上手さ、立派さ、天才少女歌手としか言いようがないです。洋楽をこれだけ完璧に自分ものとして歌える歌手は弘田三枝子以外にはいないと思います。

 

 

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1961年の洋楽 ① アル・カイオラ楽団 「落日のシャイアン」 「荒野の7人」

 
 
  アル・カイオラ(Al Caiola)は1920年生まれのアメリカのギタリストです。11歳のころからギターを弾き始め、16歳の時にプロ活動に入りました。1955年に初レコーディング、その後CBS放送局のスタッフミュージシャンとなり活躍。1957年に自分の楽団を編成し、UAレーベルよりレコードデビュー、”ボナンザ””荒野の7人”のヒットで有名になりました。
 UPしたのは、日本で1961年の暮れから1962年にかけてヒットした”落日のシャイアン(Autumn in Cheyenne)”です。この曲は日本だけのヒット曲です。 
 「TBS今週のベストテン」では1961年12月14日に8位で初登場、1962年2月8日に最高位6位、3月1日まで10位以内にランクされました。
 洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)では、「1961年年間ベスト50」で38位、「1962年年間ベスト50」で27位に選ばれています。
 
 
 
 
 
  アル・カイオラ楽団でヒットした、映画「荒野の7人(Magnificent Seven)」のテーマです。「TBS今週のベストテン」では、6月19日に8位に初登場、7月10日まで4週間連続8位、7月24日まで10位内にランクされました。
 洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)では、「1961年年間ベスト50」で29位に選ばれています。   (Kann Dorao)
 
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