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韓国ドラマ 「恋の予感」(MBC 1997年) 全16話

 
  2005年に加入したKNTVは、1995~2004年頃までの韓国ドラマが放送されていました。DVD化されていないドラマも多かったので、必死に録画したドラマたちは今では私の大事な宝物です。
 2007年にKBSTVの専門チャンネルもでき、韓国ドラマが目白押しに放送されたので、録画しきれないくらいの忙しさでした。
 KNTVは2008年5月に、韓国2大テレビ放送局(MBC・SBS)との業務提携により、放送内容が変わってしまい、放送中の新しいドラマしか放送しなくなってしまいました。
 それまでのKNTVスタッフの方々は、古き良きドラマを選んで放送してくれて、今思えば2005年から2008年までのKNTVの3年間は、視聴率が高くて面白いドラマを見た最高の3年間だったと思います。
 KNTVは1996年に開局しているので、「冬のソナタ」以前の多くの日本人が見ていない韓国ドラマを9年間も放送していたことになります。局には2005年以前に放送していた、DVD未発売の字幕付きドラマのストックが膨大にあると思います。昔のドラマを放送してくれたらすぐにでも再加入するのに・・・・。
 
 
 
 
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 「恋の予感」は2006年12月31日から2007年の2月18日までKNTVで放送されて夢中になって観たドラマです。 
 90年代韓国トレンディドラマの真骨頂とも言われる「恋の予感」。化粧品会社の内紛、ライバル会社との競争も描き、企業ものとしても面白く、ベテラン・脇役俳優の演技が光っていて、ワクワクドキドキの展開の見ごたえのあるドラマです
 足のきれいな主人公のイ・ヘヨン、やさしいカム・ウソン、クールな上司キム・ユンジン、嫌な感じがないソン・ジチャン、悪役専務のパク・ヨンギュ、ライバル会社の悪役のチョン・ホグン、悪役役員ヤン・テクチョ、同僚のいじわるな女子社員チャン・ソヒら今では考えられない贅沢な配役です。
 
 恋の予感 MBC 2009年 全16話 
 
 演出 イ・スンニョル
 
 脚本 キム・ジンスク
 
 出演 イ・ヘヨン カム・ウソン ソン・ジチャン キム・ユンジン パク・ヨンギュ イ・スンジェ シン・グ チャン・ソヒ イ・ギョンシム ヤン・テクチョ チョン・ホグン 
 
 化粧品会社の工場で販売促進員として働く主人公のイ・ヘヨンは、はつらつとして頑張りやで前向きなOLです。恋人は同じ会社で働くカム・ウソンで将来を嘱望される主席研究員です。工場から本社勤務の辞令を受け、商品企画室に配属。やり手で実力主義のチーム長キム・ユンジンにプロとしての仕事を叩き込まれ、会社の御曹司ソン・ジチャンが理事として入社、イ・ヘヨンと絡みます。
 
 ミスをしたら何が何でも挽回しようとするヒロインの爽やかさが好評で、最高視聴率42.3%を記録。この作品が初主演作となるイ・ヘヨンのキャスティングは大成功でした。
 
 採点 10点満点中 7点
 
 
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「朝鮮戦争論」 ブルース・カミングス著を読んで⑨ 朝鮮戦争Ⅲ

1950年6月に勃発した朝鮮戦争は38度線を挟み、南進北進の攻防が1年続きました。1951年6月以降停戦に向けて幾度も交渉が行われています。途切れ途切れに休戦交渉が行われる中、アメリカは原爆使用もほのめかし、ダム破壊の北爆も決行しました。戦争を終結させたとされる日本の広島、長崎への原爆投下は何一つ正しい行為とは言えません。朝鮮戦争を終わらせるためには核兵器は安上がりだというアメリカの非人間的な感覚は恐ろしいと思います。
 
 
 
 
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  「第1章 戦争の経緯」から
  
   北進
 
  1945年に定められた38度線は国際的に認められた国境ではなかった。それどころか古代から広く認められてきた統一体である朝鮮国家を、二つに分断するものだった。金日成の南侵攻は朝鮮人が朝鮮を侵略したという矛盾した論理を伴う。
   戦争の正しさについてアメリカは、北朝鮮の侵略に対する問題を国連にもちこんだ。ところがアメリカによる北朝鮮への空爆・侵略を正当化するにあたり、38度線は仮想的な線と呼んだ。北朝鮮が38度線を越すと侵略であるが、アメリカが同じことをすると38度線は仮想的な線なので侵略ではないとされた。
 
 
     中国がすぐそばに
 
   1950年9月から10月にかけてアメリカの情報機関は、中国は戦争に介入しないだろうというおおよその結論にいたっていた。戦争が始まる前、ソ連と中国は分業を行っていた。1950年ソ連は北朝鮮に、中国は北ベトナムにいたのだ。意識的、計画的な分業というより、第2次大戦後にソ連は北朝鮮を占領し、中国が北部ベトナムを占領した結果であった。毛沢東とホー・チ・ミンが延安時代から関係が深かったこともある。
 毛沢東はもしアメリカが北朝鮮を侵略するのなら結果として、北朝鮮の援護に出なければ成らないと考えていた。北朝鮮の高官は中国の軍事援助を要請し、金日成が中国大使と緊急に会合を持ち、人民解放軍の援助を要請した。すでに中国の介入は確実なもので、毛沢東はスターリンに12個師団の派遣を決めたと告げた。しかしソ連は中国がアメリカに対して大規模な攻勢をしかければ、世界戦争を引き起こすことになるかもしれないと恐れた。
 毛沢東は戦争の初期から、もし北朝鮮がつまずけば中国は助ける義務があると決めていた。革命で、抗日戦争で、内戦で多くの朝鮮人が中国のために犠牲となった(満州の抗日運動は90%が朝鮮人だった)。中華人民共和国は過去数十年間にわたって我々の側に立ってくれた朝鮮人民に対する恩義について語っている。10月1日毛沢東は介入を決断する。
 同じ日マッカーサーは軍事作戦地域は、軍事的緊急事態および朝鮮の国境線にのみ限定される。したがっていわゆる38度線は要因とはならないと書き送っている。
 
 10月末中国部隊が攻撃に出て多くのアメリカ兵の血を流した。しかしアメリカ部隊は進軍を再開した。中朝軍はアメリカ兵を北朝鮮内陸部へと誘い込み、補給線を引き延ばして冬を待った。
 戦場では11月23日に感謝祭を迎えたアメリカ兵たちは、伝統的な七面鳥ディナーを堪能していた。だが「雑穀入りの袋1個」を背負い。零下34度のなかで運動靴を履いた何千人もの中国兵に取り囲まれていたのだった。
 1週間も経たないうちにアメリカ軍大7師団は金日成の心臓地域である甲山(カプサン)を確保し、鴨緑江(中国と朝鮮の国境)まで何の抵抗にもあわずに到達した。
 しかし11月27日共産軍は猛攻を開始し、国連軍を圧倒、国連軍は2日もしないうちに全面的な撤退になった。共産軍は平壌を占領し、さらに2週間あまりで北朝鮮から敵部隊を一掃してしまった。大晦日に始まった中朝連合軍の攻撃を前に、ソウルは2度目の陥落寸前となっていた。
 中国軍が北朝鮮領内に侵攻するやいなや、マッカーサーは北朝鮮領内の地域のあらゆる「軍事施設・工場・都市・村」に空爆を命じた。米軍の作戦は満州との国境から開始し南進、途中のあらゆる村を標的にした。恐るべき破壊が進んだ帯状の地域は中国軍を追って広がり、ついに韓国までいたった。
 「ニューヨーク・タイムズ」のパレット記者は「近代戦の冷厳性を示すおぞましい証拠」を目にした。
  ”村や田畑の至るところで、住民たちが米軍のナパーム弾を浴びて殺害されていた。ナパーム弾に襲われたときの姿そのままだった。自転車に乗ろうとしている男、孤児院で遊んでいる50人の少年少女。そして不思議なことに目立った外傷がない女性。その手にはカタログの1ページが握られたままで、ピンク色のガウンの注文番号にクレヨンで印がつけてあった”
 アチソン国務長官はこの種のセンセーショナルな報道を差し止められるよう、検閲当局に対する報告を指示する必要があると考えた。11月30日トルーマン大統領は、アメリカは中国を阻止するためにはいかなる兵器も使う事が出来ると述べて、原爆使用をほのめかした。
 やがて国連軍はソウルを奪還し、1951年の晩春には現在朝鮮の非武装地帯となっているところとほぼ同じ線に沿って戦闘が固定化した。
 共産主義者は陣地を拡大しようとして2回にわたり最後の攻勢をかけたが成功せず、消耗は大きかった。アメリカ空軍は、北朝鮮の食糧生産の75%に水を供給する灌漑用ダムを爆撃した。
 
 
   
 
        停戦
 
 1951年6月23日、ソ連の国連大使は交戦当事者が休戦合意に向けて話し合いを開始する事を提案し、トルーマンはこれに同意した。
 場所は高麗時代の古都開城(ケソン)。交渉は停止期間を何回もはさんで、とぎれとぎれに続き、やがて交渉地は板門店(パンムンジョン)の村に移された。双方の軍事ラインをいかに適切に設定するかをめぐり、はてしのない論争がくりかえされたが、交渉が長引いた主な要因は双方の膨大な捕虜の送還問題であった。
 最も重要なのは、本国送還における本人の選択の自由であって、アメリカが持ち出した問題だった。北朝鮮人捕虜のおよそ三分の一と、それよりも大きな割合の中国人捕虜は、共産主義支配下の本国に戻りたくなかった。
 韓国の捕虜収容所では事実上の戦争が起きていた。親北朝鮮・親韓国・親中国・親台湾と、それぞれのグループが相争い、捕虜たちの奪い合いをしていたのである。
 南北朝鮮双方とも、捕虜を政治的に「転向」させようとした。韓国では何年も収容され、その後解放された捕虜たちは家族のもとに帰る前に、さらに6ヶ月間の「再教育」をうけなければならなかった。
 1953年6月8日捕虜の問題がようやく解決した。本国復帰を拒否する捕虜は3ヶ月間、「送還委員会」の保護の下に置き、その期間を過ぎた時点でなお本国帰還を拒否する場合は釈放することで共産側が合意したのである。
 
 戦闘はもっと早い時期に終らせることができたのだが、朝鮮が全面戦争に発展する恐れがなくなったからには、ソ連もアメリカも戦闘を続けておくことに関心があった。アイゼンハワー政権は朝鮮で核兵器を使えば、通常兵器よりも安上がりだと述べた。ネバダで続いた核実験は北側に対する威嚇の一部であり、休戦協定に調印するほうが得策だよとのメッセージを伝える手段であった。
 1953年7月27日休戦協定が調印された。この協定によって4キロメートルの緩衝地帯が朝鮮半島の真ん中に横たわることになった。この強固に防備された「非武装地帯」は、1953年の休戦協定とともにいまだに朝鮮の平和を保っている。北と南の間には、いかなる和平条約も調印されていないため、朝鮮半島は厳密にいえばいまだに戦争状態にある。
  いくつかの百科事典によれば、3年に及んだこの争いによる死傷者数は400万人を超えるという。そのうち少なくとも200万人は民間人であった。この比率は第2次世界大戦やベトナム戦争よりも高い。
  朝鮮の戦場で命を失ったアメリカ人は3万6940人、9万2134人あまりのアメリカ人が戦闘で負傷し、8176人が数十年たってもまだ行方不明とされた。
  韓国の死傷者数は131万2836人、そのうち死者は41万5004人である。
  国連軍に参加したほかの同盟国は、あわせて1万6532人の犠牲者を出した。このなかには死亡した3094人が含まれる。
  北朝鮮の死傷者は推計で200万人、そのうちおよそ100万人が民間人で52万人が兵士であった。
  また戦闘で命を犠牲にした中国人兵士は推計およそ90万人にのぼる。
 
    心にとどめておかなくてはならない重要な点は、これが内戦であったということだ。真の悲劇は戦争そのものではなかった。朝鮮人の内輪だけの争いであったなら、それは植民地主義や国家分断や外国の介入によって生まれた異常な緊張を、ときほぐしていたかもしれない。
 真の悲劇はこの戦争によって何も解決しなかったことにある。休戦が和平を維持しただけであった。
 
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チェ・ベコ ”迎日湾の友よ””朝露”

 
 
  KBS「全国のど自慢」で出場者が”迎日湾の友よ”を気持ちよく歌っているのをみて検索したところ、チェ・ベコの1980年のヒット曲で、TBC 放送歌謡大賞男性歌手賞を受賞した曲でした。
 
  迎日湾の友よ
 
  海辺に小屋を建て 住んでいる幼馴染の友よ
  蒼き波を飲み込んで 広大な海の朝を迎える
  誰が何と言おうと 友は海が故郷だと言うのさ
  カモメの翼に 詩を書いて飛ばす
  若い頃のときめく胸を抱いて 水平線へと走っていく
  帆を高く上げよう 荒れた海を進もう
  迎日湾の友よ
 
  
  
 
 いろいろな歌手の”朝露”を聴きました。2008年放送された”開かれた音楽会”で聴いたチェ・ベコの”朝露”に感激していました。画像や音声は悪いのですが探していた画像なのでUPしました。 
 
 チェ・ベコは1976年に釜山音楽サロンで初デビュー、1977年第1集アルバムを発表しました。1980年には女優キム・ジャオクと結婚し、1983年に離婚しますが6集アルバムの”孤独”がヒットしました。チェ・ベコはMBC 10代歌手賞、KBS歌謡大賞を受賞し、頂上に上がりました。
 1989年には渡米、ロサンゼルスでで韓人放送ラジオコリア DJで活動しながら過ごしました。 その後帰国、1995年”浪漫について”を発表して再び人気を得ました。現在も各テレビ局の音楽番組に出演しています。
 
     「朝露」
   
  長い夜を経て 草葉に宿る
 真珠よりもっと美しい 朝露のように
 私の心に悲しみが粒々に宿れば
 朝の山に昇り   小さな微笑を覚える
  太陽は墓地の上に赤く昇り
  真昼の蒸し暑さは私の試練か
  私は今行かん あの荒れ果てた広野へ
  悲しみをみな捨て   私は今行かん
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オ・ギテク ”パパの青春(父の青春)” イ・スミ ”女学生時代”

 

 

 
 
 
 1965年の古い歌謡曲ですが、今放送中のKBTV高視聴率ドラマ「家族なのにどうして」で、主人公のユ・ドングン(3人の父親役)のバックで流れていました。”ワンダフル、ワンダフル!パパの青春、ブラボー、ブラボー!パパの人生”という歌詞の”パパの青春”は、家族のためにだけ生きてきた父親への賛歌です。「歌謡舞台」でもヒョン・スク、チャン・ユンジョン、パク・サンチョルだけでなく、アイドル歌手にも歌われています。
 
      パパの青春(父の青春)
 
 世の親心は同じ気持ち 子供の成功と幸せを
 心から祈っているパクおじいさんだ 
  ケチだと指差して笑わないで
 俺にもまだ青春はある
 ワンダフル ワンダフル パパの青春
 ブラボー ブラボー パパの人生
 世の中の見物 ソウルの見物 いいけれど
 金があっての話 金がなきゃできないさ
 やさしい嫁を誤解して意地を張って痛い目にあった
 俺にもまだ夢がある
 ワンダフル ワンダフル パパの青春
 ブラボー ブラボー パパの人生
 
 
 オ・ギテクは1943年全羅南道海南出身です。1960年代に”永登浦の夜””パパの青春”など魅力的な声で時代を風靡しました。1996年12月30日釣りに行って不慮の事故に遭遇。19年間の長い闘病生活を送り、再起を目指してリハビリに励む毎日を送っています。
 4月に放送されたKBS「歌謡舞台」はオ・ギテクの特集でした。ヒョン・スクが病院で闘病中のオ・ギテクをお見舞いし、オ・ギテクは番組に車イスで出演。出演者全員で”パパの青春”を歌いました。
 
 
 
 
 
 
 
 現在放送中のKBSTV小説「それでも青い日に」は1970年代が舞台です。ソウルのお金持ちの家では地方から上京した主人公がお手伝いさんとして働いています。1972年のヒット曲”女学生時代”がラジオから流れて主人公が涙を流していました。
 KBS歌謡番組「歌謡舞台」でもよく歌われています。人気のある歌なのですね。
 
        女学生時代
 
 ある日女学校時代に 偶然出会った人
 変わらずにいようと約束した 友情の友だった
 *長い歳月が音もなく流れ ああああああ
 過ぎ去った女学校時代
 静かに考えると あれが私には 初恋だったわ*
 
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑧ 朝鮮戦争Ⅱ

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  ”「朝鮮戦争論」を読んで”を書いているとあまりにも厳しい事実に、気が滅入ってきます。当ブログの韓国音楽を聴いて、慰められています。
 
 
 日本の植民地統治が一因となり、東西冷戦が巻き起こした朝鮮戦争。3年間に及ぶこの戦闘による死傷者数は400万人を超えるといいます。そのうち少なくとも200万人は民間人で、この比率は第2次世界大戦やベトナム戦争よりも高いのです。この戦争に参戦した各国の死傷者数はアメリカ人兵士13万人、国連軍兵士1万6千人、中国人兵士90万人にのぼります。
 朝鮮戦争を知れば知るほど長い歳月に埋もれてしまった歴史を認識するのが辛くなります。第2次大戦の惨禍は今でも繰り返し報道されていますが、アメリカの世界戦略を大きく変えた重要な戦争「朝鮮戦争」は知られてないことが多いと思います。
 
   
 
  「 第1章 戦争の経緯」
 
   朝鮮戦争のいわゆる始まり
 
 朝鮮戦争は1950年6月24日から25日にかけてソウルの西北はずれに位置する甕津半島(オンジン)で始まった。南北2つの軍隊の兵力はほぼ同じ。しかし北のとくに中国内戦から帰還した部隊がもつ豊富な実践経験は南をしのぐものであった。さらに北はソ連製戦車150両、戦闘機70機、軽爆撃機62機を保有していた。
   最初、鉄原(チョルウォン)の南38度線上で朝鮮人民部隊が韓国陸軍第7師団を攻撃し、大損害を出した。韓国軍は敗退し、北の人民軍はソウルに向かって南進を始めた。
 6月26日の正午から夕方にかけて北朝鮮部隊がなだれ込んで、ソウルは危機に陥った。兵士も市民も恐慌状態に陥った。
 6月28日には韓国軍は漢江(ハンガン)にかかる主要な橋を予告なしに爆破し、橋を渡っていた数百人が死亡した。李承晩大統領は木浦(モッポ)行きの列車で南へと避難する。軍の指揮はどこかへ吹き飛び、市民はパニック状態であった。ソウルは兵力およそ3万7000人の北の侵攻部隊によって陥落した。
 南の抵抗が、あっというまにほぼ完全に崩れてしまったことが、アメリカを戦争への大規模な介入へと駆り立てた。アメリカ国務長官アチソンは、朝鮮戦争にアメリカ空・海軍を参戦させる決定した。介入の決定はアチソンが下し、トルーマン大統領が承認した。アチソンの論理は朝鮮の戦略的価値とはまったく関係がなかったが、アメリカの威信と政治経済に大きく関係するものだった。北朝鮮はアメリカの威信に挑んだのだった。
   アメリカ人は自分たちが、実践力の優れた部隊を相手に戦うことになるとは露ほども考えていなかった。それは人種差別の根強いアメリカ社会の白人の間に、あまねく広まっていた人種差別から生まれたものでもあった。
   ボールドウィン記者(ニューヨークタイムス)は”朝鮮でわれわれが戦っているのは野蛮人の軍隊である。訓練をつみ無慈悲で自らの命を顧みず、独自の戦闘技術を身につけた野蛮人なのだ。彼らはナチスの電撃戦にならい、不安と恐怖を呼び起こすあらゆる武器を用いている”。さらにボールドウィンは朝鮮人にとって”命は安い。朝鮮人の背後にはアジアの遊牧民がいる。その眼前には略奪品への期待が広がっている”と論評した。
  モンゴル人、アジア人、ナチス、イナゴ、原始人、遊牧民、盗賊などと、韓国を攻撃した同じ民族の朝鮮人を描写するのに、思いつく限りのたとえを用いた。
  1950年夏、朝鮮人民軍はめざましい勝利をおさめながら南下し、アメリカ軍は屈辱的な敗北を重ねた。かつてドイツと日本を打ち倒した軍隊は、ろくな装備もない急ごしらえの農民軍と侮っていた敵、しかも外国の帝国主義的権力の手先と呼んでいた相手にいつのまにか追い詰められていたのである。
 7月までに前線の兵力は米韓軍9万2000人に対して北の人民軍7万人で、米官軍のほうが上回っていたにもかかわらず、退却が続いた。8月始めに第1海兵師団が投入され、朝鮮人民軍の進撃を食い止めることができた。
   南東部の釜山防衛線でアメリカは9万8000人の兵力を配置した。女性を含む数千人の北のゲリラも盛んな攻撃を展開していた。J・チャーチ准将は朝鮮の戦いは第2次世界大戦のヨーロッパとはまったく違うという結論を下し、ゲリラ戦であるといった。険しい地形で戦われるゲリラ戦であり、山から下りてくるゲリラによって、陣地は常に危険にさらされていた。
 ゲリラをかくまったり支持したりしていると疑われた村は、そのほとんどが焼き払われた。空爆によるものだった。左傾していると思われる町では全住民が強制的に立ち退きを命じられた。順天(スンチョン)では90%の住民が退去させられ、何万人もの住民がいた馬山(マサン)はもぬけの殻になり、イェチョンからはすべての民間人が消えた。大邱(テグ)に住む左翼が大規模な暴動をひそかに計画しているという危機感が広がり、釜山防衛線で苦戦が続く中、大邱の大勢の市民が蜂起する恐れがあるという懸念から立ち退かされた。立ち退かされた大邱の多くの人々が釜山近くの島々に集められ、外にでることを禁じられた。
    8月末朝鮮人民軍は 釜山防衛線で最後の大規模攻撃を開始し、大きな戦果をあげた。釜山は北朝鮮の大攻勢で陥落寸前、アメリカ軍の犠牲者はこの時点で2万人にも達していた。マッカーサーはアメリカ軍の臨戦態勢の師団の大半を朝鮮に投入させた。 北朝鮮の兵力は敵に圧倒的な差をつけられていた。
   マッカーサーは仁川上陸作戦でソウルを陥落させた。北朝鮮は何もできなかった。アメリカ軍は38度線を越えて北進する。アメリカ軍は南と北に軍をふたつに分割し進軍した。
 北朝鮮は同盟国である中国の支援を要請。釜山防衛緯線で戦っていた朝鮮人民軍は山岳地帯から北へと逃れた。ゲリラは韓国の山岳地帯に隠れ、1950年から51年の冬にはアメリカ軍の部隊にとって大きな問題になった。
 金日成は最初から最大の敵はアメリカ軍であったとはいえ、アメリカ地上軍の介入は予期していたものの、これほど大規模なしかも空・海軍まで投入する参戦は予想していなっかった。
 アメリカの世界戦略にとって大した重要性はないようにみえたこの小さな半島に、臨戦態勢を整えたアメリカの歩兵部隊の大部分が地球の反対側から送り込まれることになろうとは誰にもほとんど想像できないことだったのだろう。
 
 
 北朝鮮のソウル侵攻のとき、李承晩大統領は南へ避難しましたがその際に『保導連盟事件』が起きました。詳しくはウイキでhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%B0%8E%E9%80%A3%E7%9B%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 
 
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑦ 朝鮮戦争Ⅰ 北朝鮮へのアメリカによる空爆

「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで一番驚いたことは、アメリカ軍が行った北朝鮮への空爆でした。
 空爆は恐ろしい行為です。爆撃機の下には人間がいます。焼夷弾、ナパーム弾の威力の凄さ。アメリカが行った70年前の日本の各都市への空爆被害を、生き残った語りべの方から聞きましたが生々しくて実に惨いお話でした。火の海に包まれた東京では十万人の犠牲者が出ました。大阪でも、名古屋でも。50年前のベトナム戦争における北爆は世界で報道されて、ベトナムの人の被害を世界中の人々が知ることになりました。
 しかし北朝鮮の各都市を焼き尽くし、満水のダムや貯水池を破壊し尽したアメリカの行為は、全くといっていいほど知られていません。私も初めて知りました。
 
 
 
 
 
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    第6章 最も不公平な結果 空爆
 
 
 ① 1950年夏、アメリカは共産主義を封じ込めるために戦った韓国を助け、韓国はその目的を達した。
 ② 1950~1951年、アメリカは厳しい寒さのなか、北朝鮮に侵攻し共産主義政権を倒そうとして失敗した。
 ③ 1950年6月からアメリカは朝鮮に対して3年間にわたり、民間人の犠牲を考慮することなく、じゅうたん爆撃を加えた。それをほとんどのアメリカ人が知りもせず、覚えてもいない。
 
 アメリカ空軍の推計によれば、北朝鮮における都市破壊の規模はドイツや日本をはるかに上回っている。アメリカは北朝鮮に63万5000トンの爆弾を投下した。(これには3万2557トンのナパーム弾は含まれていない)。第2次世界大戦中、太平洋戦域全体に投下した50万3000トンの爆弾より多いのだ。
 日本ではアメリカの空爆によって60都市が平均で43%破壊されたのに対し、北朝鮮の都市や町は市街地の40~90%が破壊された。
 北朝鮮のへ空爆は1953年7月27日午後10時にようやく終った。
 
平壌 75% 清津 65% 咸興 80% 興南 85% 沙里院 95% 新安州 100%
元山 80% (空爆によって破壊された割合)
 
 北朝鮮の巨大ダムに対するアメリカ軍の攻撃は、収穫間近い25万トン相当の米を台無しにするものだった。1953年5月に徳山・慈山・クォンガの3つのダムが、続いてナムシ・テチョンの2つのダムが攻撃された。
 1953年5月13日、F84戦闘機59機が徳山貯水湖の高いせき止め壁を決壊させると、奔流は9.6キロメートルにわたる鉄道、5つの橋、3キロの幹線道路、1300ヘクタールの水田を破壊した。40キロメートルに及ぶ川谷がえぐりとられ、水は平壌にまで達した。
 アメリカにとってダムへの空爆は、インフラの破壊、住民の水死よりも、稲作をダメにし食料を失わせる心理的効果の面で重要な作戦となった
 
 朝鮮戦争後、アメリカ空軍は自分たちが行った集中爆撃によって、共産主義者は戦争を終結せざるをえなくなったのだと多くの人に信じ込ませた。国連で採択されたジェノサイド条約は1951年に発効されるが、この空爆にはまったく影響を及ぼさなかった。
 確実に言えることは、”悪の共産主義国家ソ連と中国”は韓国を空爆しなかったこと、”自由と人権の民主主義国家アメリカ”は北朝鮮を3年間にわたり空爆し続けたことです。
 
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