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日本幻景 #8 - 映画プログラム

2014-04-01 21:15:17 | Bibliomania
うたかたのごとく消えた街の映画館には木造の粗雑な、小屋といったほうが相応しいものも多かった。年間入場者数が11億を超え、国民ひとり当り年に12.1回は映画を見ていたという1958年(昭和33年)には場末の小屋も満員の時代だった。そこはかとなくトイレの匂いが漂い、ロビーの照明は薄暗く暖冷房無完備でも観客は詰めかけた。

しかし、ピークが過ぎれば(実際には1958年という年には衰退が始まっていた。翌1959年の皇太子御成婚でテレビの普及率は急速に拡大した)たちまち苦境に陥る小屋もある。

戦前から戦後、テレビなどが普及しないころは映画館はアトラクションをつけて客を呼ぶことも多かった。レコードでしか聞けない歌手の実物を呼び物にするのである。テレビで顔も姿も見られるようになれば、当然のようにアトラクションは減少した。

文京区江戸川橋にあった小屋も典型的な戦後の貧しげな小屋であった。今は地下鉄が開通して便利であるが50年代は都電とバスだけであり、遠くから客がわざわざ来るような小屋ではない。近所の人たちがぶらりと行くような、当時はどこにでもあった小屋の一つである。

ほかではアトラクションも少なくなったころ、ここで「新舞踊」××○○子嬢のアトラクションが始まった。映画と映画の合間を利用するのである。この小屋は一家族が経営していた。親父は(社長とはいえない。第一、この小屋の経営形態が会社組織かどうかも知らない)経営者兼映写技師であり、女房はテケツ兼モギリ兼レコード係兼カーテン係である。

新舞踊を踊る娘は社長とテケツ係の子どもである。女房はレコードをかけ、カーテンを開ける。親父は照明係である。がらがらの客席を前にひとりレコードの曲に乗って踊る中学生ぐらいの年頃の娘。この間、切符売場にはもうひとりの娘が座っている。

約20分のアトラクションが終ると、親父は映写室へ急ぐ。まばらな客席からはほとんど拍手もない。舞踊も決して上手とはいえない。このアトラクションは、娘が踊れば踊るほど楽しさとは程遠くなり、哀愁の想いが湧いてくる。今さらのように天井の割れ目が目についたり、座席の古さに気が付くと、もの悲しさがいっそう募ってくる。

アトラクションは長くはつづかず、小屋もいつしか消えた。 –(加納一朗 『映画は光と影のタイムトラベル 映画プログラムの時代』 パピルスあい・2005年)




つげ義春さんのマンガのような、侘しい光景。
きのうの晩、この対極にあるような、豪華な顔ぶれがテレビ画面を賑わしましたな。
32年続いた『笑っていいとも』が終るとのことで、今までの大物レギュラーの面々=さんま、鶴瓶、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、爆笑問題、ナインティナイン、そしてとんねるずがタモリさんを囲んで一つのステージに。
「タモリさんの人徳で、仲の悪い人たちも集まって」との爆笑・太田の言葉に、思わず苦笑の松本人志。
こんな光景は二度とないのではないかと思った私は、「フジテレビの葬式みたいだ」とツイート。

いいともだけでなく、欽ドン、ひょうきん族、みなさんのおかげです、だいじょうぶだぁ、ごっつええ感じといった同局の看板番組を、私の同世代は誰もが見ていた。そして、心から笑った。
彼らは、本当のヒーローだった。
しかし今、こんなことでもなければ私がフジテレビを見ることはない。いや、フジだけでなく、そもそも必ず見る番組が4つしかないのだ。ソチ五輪もまったく見なかったし、ニュースさえ見ず、ネットか、翌日に新聞で知ればいいと。
たとえコンテンツが力を失うとしても、それらをとっかえひっかえする媒体は、生き永らえる筈であったが、いいともが始まって終るまでに、われわれを取り巻く環境は大きく変わった。

ケーブルテレビが主流のアメリカでは、黒人は黒人向けのチャンネル、主婦は主婦向けのチャンネル、あるいはスポーツの種目や特定の宗教や、といった具合でニッチ化が進み、中央のキー局は存在感が薄いのだという。
逆に韓国の場合は、映画のヒット作が人口からすると信じられないほどの動員数を記録していたりする。
↑に引用した加納一朗さんの本によれば、1960年の安保闘争の際、特に5月から6月にかけ、デモやストライキが全国的な規模に拡大、連日のように数万のデモ隊が国会を包囲し、普通の商店までも労組に同調して最大時で全国3万店がストライキに入ったとのこと。

商店がストをしても、保障は何もない。やるだけ損である。
それでもそうさせるほど、敗戦時は17歳で満洲にいた加納さんを含め、戦争に対するアレルギーが国民の間に強かったわけで、安倍首相が祖父のリベンジを指呼の間に捉えるまでには、いいともより長い時間待たねばならなかったという–
最後の「挙国一致」–





私が子どもの頃、映画のパンフレットのことを大人たちは「プログラム」と呼んだ。加納さんによれば、浅草の帝国館が、上映する映画のあらすじと配役を載せた「第一新聞」という番組表=プログラムを大正5年に発行したのが各館に広がり、それぞれ独自のプログラムを作るようになったのだという。↑は終戦後すぐの紙不足により、各社がまとめてストーリーを記載したもの




焼け跡、闇市、そしてヒロポン(覚醒剤)やアドルム(睡眠剤)による中毒渦もこの時代を象徴。↑映画プログラムにも覚醒剤の広告が




新橋メトロのプログラム。地下鉄新橋駅の銀座方面への出口がある突当りに設けられた映画館。地下鉄の構内なので長細くて天井が低かったとのこと




銀座・並木通りの名画座として親しまれた並木座のプログラムは、俳優や監督の絵・文を毎号掲載




日本初の常設映画館となった浅草の電気館。映画や演劇や寄席の小屋が軒を並べた浅草六区は、戦前は大衆娯楽のメッカ・流行の発信地として深夜まで人の熱気が渦巻いたが、衰退を招いた一因として、住民の多くが土地建物の所有者で、大規模な再開発を敬遠して現状に依存しがちだったと語る加納さん




エビス地球座のプログラム。小堺一機さんがラジオで「若い頃、新宿の地球座でポルノ映画を見たら風疹をうつされた」と語っていたが、恵比寿にもあったのね




『國を護る者 日蓮』のプログラム。戦前、ハリウッドの大スターとなった早川雪洲に対し、国内の世論は雪洲の役柄が国辱的だとして非難を浴びせたが、帰国して映画や演劇に出演するうち、そうした声は消えたという

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2 コメント

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こんにちは! (aquamulsa)
2014-04-05 07:12:54
高校生ぐらいまでかな?
映画館って暗くて、床がネトネトしてて、真紅のビロードのカーテン、バネの悪いこれまたビロード張りのイス。
3本立てとか行くと、ポルノを上映するときもあるのでロビーで大人のおもちゃ売ってたり、健全な雰囲気の場所じゃなかったですよね。
伊勢佐木町に、関内アカデミーって映画館あったの覚えてらっしゃいますか?
古い名作ばかり上映してたんですけど、客席部分が20畳ぐらいしかなくて、ロビーとの仕切りも真紅のビロード・カーテンだけだった映画館です。
ノスタルジーに浸ってしまいました~。
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ようこそです~! (マガジンひとり)
2014-04-05 15:39:20
最初は「消えた映画館」という形でまとめようと思ってました。
今、バウスシアターがさよなら興行中ですし、わりと賑わっていた恵比寿ガーデンシネマや渋谷シネ・アミューズもなくなってしまいまして…

小6まで横浜の六ッ川におりまして、低学年の「東映まんがまつり」を除けば、小3くらいで母に連れられて見た「モダン・タイムス」が初映画なので、ひょっとすると関内アカデミーだったかもしれません!!
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