湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

停滞するスポーツジャーナリズム

2015-08-21 12:20:39 | Weblog
昨日の高校野球決勝の興奮が、まだ残っています
久しぶりに高校野球を堪能しました
プロ野球に無い魅力が、そこにあります

ここで言う”高校野球”とは”甲子園大会”のことです
我が国の伝統の大会であり、スポーツイベントです

今回、新聞記事や放送で
違和感を感じたことが一つありました
試合を終えた選手や監督から
相手チームへのコメントが聞かれなかったことです

これは当人達の問題であるよりも
スポーツジャーナリズムの問題であるように思われます
記者達は、そうした質問をしないのです
どうして、そうなったのでしょう?

スポーツというものは、相手があることですから
相手のことを当事者に聞くというのは
スポーツジャーナリズムの基本です

さらに言えば
敗者が勝者を称えるのは
そして、勝者も敗者を称えるのが
スポーツマンシップの常識です

そして、今回、つくづく思ったのは
50年間全く進歩しない野球解説です
いつの時代も変わらない、解説者のつまらなさです
野球解説を面白くする方法を真剣に考えている人はいません
スポーツ放送は独占ですから、競争原理が働かないためでしょう

スポーツジャーナリズムは進歩せず
一部で退化し、多くの部分で停滞しています
もっもっと、スポーツを面白く見せる工夫はできるはずです

決められたルールの中で、少しでも進歩しようと
努力を重ねるスポーツマン達の姿を、よりリアルに伝え
感動を呼び起こすスポーツジャーナリズムの誕生を期待します




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祝優勝・東海大相模高校

2015-08-20 17:04:06 | Weblog
おめでとうございます

優勝 東海大相模高校

いやあ、良い試合でした
同点に追いつかれた時には
一瞬、流れは仙台育英に行ったかと思いました
しかし、ナインに余裕があり
最後に一気に引き離し勝利をものにしました
見事なゲームでした

両投手、力投完投で、これも見応えがありました
とても6点10点取られた投手には見えません
むしろ両投手の力投が光りました
とにかく、両チームとも、打線が凄過ぎるのです
どこからでも打ってくるので
名投手が投げるところが無くなるのですから・・・

終わってみれば
東海大相模高校の強さが印象に残ります
やはり、投、打、守、走、どれをとっても優れていました
本当に強いチームでした

それにしても
9回表の小笠原投手の初球勝ち越しホームランは見事でした
この試合で一番の感動的なシーンでした
あの一発が、結局試合を決めました
今日は、6点取られても、小笠原君の試合でした
もちろん、全ての選手が素晴らしいプレイを見せてくれました
皆さん、よく練習しています

久しぶりに神奈川代表が優勝し
私も、本当にひさしぶりに、甲子園大会を観ました
そして、素晴らしい試合を、十分に堪能させてもらいました





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東海大相模決勝進出

2015-08-19 18:44:05 | Weblog
東海大相模対関東第一の甲子園準決勝を観ました
10対3で東海大相模が勝ち、決勝に駒を進めました

初回に一気に4点取れましたから
東海大相模を応援している当方としては、安心の展開でした
しかし、実際の試合展開は、点差を感じさせない緊迫感がありました

1回2回で、5点のリードですから
その時点で一方的な展開となり
その流れは最後まで変わりませんでした
しかし、それがなければ、5対3なわけですから
けっこう良い試合だったのです

試合全体を観た印象としては
打撃、投手、守備・・・どれをとっても、東海大相模が上でした
その差が7点差ということだと思います
明らかに、東海大相模の実力が上回っていたと感じました

関東第一は、大量得点差にもかかわらず
最後まで崩れず、良いチームでした
先発にエースを温存したことが悔やまれます

明日の東海大相模と仙台育英との決勝はどうなるでしょう?
私は予想はしません・・・できません
仙台育英の試合を一度も観ていないからです
情報が一切ありません・・・でも、強いチームだと思います
東海大相模が優勝するにしても、簡単ではないでしょう

勝敗は、両チームの投手の出来次第かもしれません
仙台育英の投手は良いらしいですけれど、連投だそうです
甲子園での疲れが、決勝で、どう出るか?
また、東海大相模の投手陣は、充実しているものの
やはり疲れはあるでしょうし
今日観たかぎりでは、制球に難があります
緊迫した状況では、制球の乱れは命取りになります

どんなに予想しても
実際の展開は、神様しか知りません
明日の決勝が楽しみです






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突風?竜巻?

2015-08-18 13:52:50 | Weblog
昨日、亀井野で突風が吹きました
わが天神町とは地続きの地元です
確かに、あの時刻に、強い風が吹き
一瞬、何事かと思いました
どうやら、あの時、竜巻が発生したらしいですね

地元での竜巻ということでは
私は中学生の時にも、発生したことがあります
六会中学の校舎から、空に煙のようなものが見えていて
それが竜巻だったと友達が話していました

やはり中学時代
天神町が区画整理される前に
ちょうど今の天神町の真ん中あたりを
埃を巻き上げて、竜巻が動いていくのを見たことがあります

電柱よりも高く
当然10メートル以上の高さはあったと思います
私は、現在の日大西側の交差点を少し過ぎた辺りから眺めていました
それなりの距離はありましたが、怖かったのを憶えています

地球温暖化による気候異変で、竜巻が発生すると言う人もいます
しかし、私の記憶では、40年前にも竜巻は発生しています
必ずしも地球温暖化のせいばかりではないかもしれません
原因はともかく、恐ろしいことは確かです

建物を建てるときに何を基準にするか
兼好法師は、夏の暑さを基準にしろと言い
近代日本の建築基準は、耐震と耐火を重視しています
これからは、突風や竜巻対策も必要かもしれません


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「近現代史」研究に着手

2015-08-17 13:30:14 | Weblog
今日から仕事を始めました
今年のお盆は、私の体調のこともあり
家族旅行も無く、私は家で休んでいました

風邪気味だったこともあり
私は、家でじっとしていることを退屈とも思わず
ひたすら、戦争のことを考えていました
戦争中の母や、父や、祖父母ことを考えていました
そして、日本人全般のことも想像しました

それが、この間の私のブログに影響して
結果としては、硬い内容で
読者の皆さんには、理解するのが難しいものになったようです

とは言え
何でも書くのが私のブログの方針ですから
こうした内容は、今後も折に触れて書いていきます
ただし、予備知識として
日本や世界の近現代史の解説が必要かとも思い
先の話ではありますが
そうした内容の特集ブログを考えています

近現代史とは
日本や世界の、現在の体制に直結する歴史という意味です
日本の場合は、現憲法も現体制も第二次世界大戦後にできたものです
当然ながら,戦前戦中戦後の政治的な動きが近現代史の中心となります
そうなると、過去100年ちょっとですから
大体、20世紀の歴史と言うことになると思います

近現代史を書く以上、デタラメは許されません
もう一度、勉強し直さなければなりません
私なりの切り口も必要でしょう
簡単で、分かりやすい

「秋本近現代史」

を書くつもりです
資料とすべきテキスト集めから始めなければなりません
焦らず、気張らずに、余裕をもって学ぶつもりです
読者の皆さん、少し、お待ち下さいね

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敗戦の悲劇と反省への疑問

2015-08-16 14:12:24 | Weblog
日本の”戦後”とは何かといえば
それは、戦争に負けたことから始まった時代ということです
負けたことが全ての始まりでしたから
それまでの日本を批判することが、日本の戦後思想となりました

負けたのは、軍隊が弱かったのか、作戦がまずかったのか
おそらく、その、どちらでもあったでしょう
ところが、戦後の日本で優勢なのは、軍隊と作戦に対する批判ではなく
戦争をしたこと自体を批判することでした

これは、おかしなことです
戦争は日本一国ではできません
相手がいたから、できたのです
しかも、その相手は、日本を上回る軍事力と
日本を打ち負かす見事な作戦を持っていたのです

日本人が味わった、大東亜戦争における大きな不幸は
日本が劣勢になってからのものです
敗戦が近付き、終戦の工作を始めてからのものです
空襲も、原爆も、ソ連の参戦も、そうです
日本が優勢であれば、勝っていれば
味わわなくてよい不幸でした

日本は、日本を打倒すべく待ち構えていた
強大な敵と戦い、敗れたのです

戦争それ自体が悪という考え方は、思想としては正しくとも
大東亜戦争を反省する方法として間違っています
そういう考え方であれば
アメリカもソ連も、批判されてしかるべきであり
むしろ、戦後も戦争をし続けた彼らをこそ批判すべきなのです





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想像とは違った母の”戦後”

2015-08-15 14:19:35 | Weblog
今日は終戦記念日です
今年の夏は、ずっと、亡き母のことを考えています
母の、戦争中の苦しみのことを考えていたのです

私は、母とは、あまり戦争の話をしませんでした
母は、戦争のことは、考えるだけでも嫌だという人でした
原爆で一瞬に死ねる方がいいという人でした
そして、マッカーサーの占領政策が良かったという人でした

たぶん、私は、そのような母から
わざわざ、戦争の話を聞きたいとは思わなかったのでしょう

しかし、今、あらためて母の戦時中のことを考えると
母の気持ちがよく分かるのです
母は、戦争末期には、過酷な現実を生きていたからです

戦争末期には、地主であった母の実家は
母と、すぐ上の姉が、労働の担い手でした
重い病の弟や妹がいました

町長だった伯父は、特高警察に拘引され
その義弟であった父親は、町会議長であったため
いつでも、特高の手がのびる危険がありました
特高警察はスパイのごとく、国民生活を監視していました
母の実家では、毎日の生活が油断ならないものになっていたのです

母は、朝から晩まで田畑で肉体労働をし
いつ来るか分からぬ米軍機の機銃掃射から
幼いきょうだいや家畜を守らなければなりませんでした
子供達を虫けらのごとく撃ちまくる米軍が上陸したら
どんな地獄絵図が待ち受けていることか
17才の少女であった母は、敗色濃い戦況をみながら
絶望的な未来を想像し、日々を耐えていたのでした

現実の敗戦と米軍の占領政策は
母が想像していたものとは違いました
母にとって、戦後は
戦争中に比べれば、悪い時代ではなかったのです
母は、もっと凄惨な未来を想像していたはずでした

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政治工作員の平和主義

2015-08-14 11:53:03 | Weblog
戦争の記憶なるものが新聞紙上をにぎわしています
子供時代の苦労話が多くなりました
戦争の当事者は亡くなっていますから
現在の生存者は銃後の子供達です

体験者の高齢化とともに
戦争の記憶は、生活苦の記憶と似たものになってきました
震災の記憶も、70年経てば、こんなふうになるのでしょうか?

戦争の回想では
さんざん苦労を語った後

「二度と戦争をしてはいけません」

というのが
最後に、決まり文句のように出てきますが
震災の記憶では、同じく

「二度と津波は来てはいけません」

ということになるのでしょうか?

憲法で戦争が防げるなら
憲法に

「台風は日本に来てはいけません」

と明記すれば、台風災害をなくせる
と言った人がいるそうです

私がマスコミに登場する平和主義者を嫌うのは
彼らが左翼であり、ロシアや中国や北朝鮮の手先であり
本当は、日米関係を壊し、日本の国防力を弱め
日本を弱体化させるための工作員だからです

日本の原子力発電所には反対するのに
北朝鮮の核開発には反対しません
沖縄の米軍基地には反対するのに
中国による東シナ海の軍事基地開発には反対しません
こういう人々の平和主義が何を意味するのか
わざわざ、考えるまでもないことです



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負け戦の悲惨

2015-08-13 10:52:00 | Weblog
終戦70年とかで
総理大臣が、どんな談話を発表するかなどと
どうでもいいことを、マスコミや、中韓が騒いでいます

現在の生存者の戦争の記憶は
ほとんどが、少年時少女期の記憶であり
戦争というものが何なのか
自分の経験した現象面のことしか分かっていません
したがって、衣食住の不自由をしたエピソードなどは
現象面だけを取り上げるなら
戦争の悲惨と、自然災害による悲惨との違いを
明確に分けることすら出来ません

戦争経験者の話を聞いたり、新聞の特集を読んだりして
私が得た結論は

”戦争は負けてはいけない”

と、いうことです

原爆の悲惨も、満州の悲惨も
日本の敗北直前から、敗北後に起きたことです

大東亜戦争を始めるまでの日本は
国民の間に、戦争忌避の感情がありませんでした
負け戦の悲惨を、国民が知らなかったからです
大東亜戦争は、日本国民に、負け戦の悲惨を教えた意味で
日本史上、画期的な出来事でした

一旦戦争が始まれば、国際法など守られないのです

米軍は、非戦闘員を攻撃、虐殺しました
捕虜も虐殺しました
ロシア人も同じでした
捕虜になった日本人は、殺されたり、虐待されたり
強制労働させられたりしたのです

敗戦後の避難民は
ロシア人や中国人、朝鮮人に、殺害、暴行、略奪されました

それが戦争であり、負け戦なのでした

戦争したこと自体が間違いであると、多くの人が考えています
しかしながら、満州における悲劇は
ロシア人が不可侵条約を破り、一方的に攻めてきたものです
むしろ、日本は、ソ連に停戦の仲介を依頼していたのです
裏切られ、一方的に攻撃された戦争を
日本が防ぐ手段など、あるわけがないのです






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日航機事故から30年

2015-08-12 14:53:31 | Weblog
日航ジャンボ機事故から
今日で、丸30年が過ぎたということです

そのことは、また
私が、生まれて初めて飛行機に乗った日から
丸30年が過ぎたことを意味します

あの日、日航機が羽田を離陸したほぼ同じ時刻
私を乗せたノースウエスト機は成田を飛び立ちました
離陸時刻は予定より少し遅れていました
ノースウエスト航空では、めずらしくないことだと説明されました
生まれて初めて飛行機に乗った私は
飛行機の離発着とは、けっこういい加減なものだと思いました

私の飛行機はマニラ行きでした
マニラの日本大使館に勤める中学高校の同級生に会いに行くため
同じく中学高校の同級であった友人とともに
マニラに向かったのです

私達は、マニラ空港に着くまで、日航機の事故のことは知りませんでした
空港に着くと、迎えに来た友人が

「日本で大きな飛行機事故があったぞ」

と、おしえてくれました

私は、飛行機の中で
スチュワーデスが救命胴衣の使い方を説明する時に
真剣な表情で、ほとんど泣き出しそうな感じで説明していたのが印象的でした
彼女達は、事故のことを知っていたのでしょうか?

私の友人は、大学の建築科を出て、大手ゼネコンに勤めていたのですが
海外事業部に転属になって、英語を勉強しているうちに
英語が面白くなって、会社をやめ、英検1級に合格し
マニラ大使館勤務として、外務省に採用されたのでした

マニラの英語環境が気に入らず
躊躇する彼の背中を押し、強く就職を進めたのは私です
二十代の半ばに達している以上、定職に着くべきであると考えたからです
日本を離れても連絡を取り合い、休みには遊びに行くと約束しました
その時の約束を果たすため、私はマニラに向かったのでした

あの日、もし窓際の席であったら
夕日のかなたに、日航機が見えたのではないかと考えたこともあります
実際の私は、初めての空の旅と海外旅行に酔いしれ
機上で飲むウイスキーの陶然とした酔い心地に
人生の成功者になったような幸福感を味わっていたのでした
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