70年前の今日
長崎に原爆が落とされました
江戸時代以来、西洋文明の入り口であった長崎は
皮肉なことに、この時も、西洋文明を思い知らされました
幕末の志士達の拠点は、いまや平和運動の拠点となっています
記念式典には、75ヶ国の代表が参列したそうです
しかし、ここで気になることもあります
長崎市長が、現在国会で審議中の法案に意見を述べたようです
余計なことをしたものです
原爆の悲惨を、他の戦災被災者の問題と区別するなら
それは、核兵器そのものが人類にもたらす悲惨によるのであり
反核運動に関わるのは止む得ないにしても
一般的な法律にまで口を出すような立場には無いのです
戦争の空襲による被災者というなら
私の両親だって、例外ではありません
たまたま運良く、無傷でいられましたから
戦後、戦争の傷を引きずらずに生きられましたし
私という人間も、この世に誕生することが出来ました
しかし、彼らも、原爆被災者と同じく、空襲の被災者なのです
父は、庭に立っているところを,米軍機から狙い撃ちされました
父の立つ、すぐ目の前の地面に1発の弾丸が撃ち込まれたのです
空を見上げた父には、1機の米軍機が飛び去るのが見えました
アメリカ兵は、機銃掃射ではなく、コックピットから銃で狙い撃ちしたのです
庭に立つジャップの少年を、あたかもハンティングの獲物のように・・・
母も空襲の思い出を語ったことがありました
寒川町は平地のため防空壕が作れず
石垣イチゴ用のコンクリートの板を重ねて、防空壕の代わりにしました
そこに隠れていると、米軍艦載機の機銃掃射の弾があたり
その音が怖かったことを話してくれました
空襲の流れ弾に当たって、近所の少年が亡くなったことを
母は、泣きそうになりながら、話してくれました
十代の少女であった母は
男手の少ない中で、重要な働き手でもありました
母は、子牛の世話をしていました
空襲の恐怖で動かなくなってしまった子牛を
なんとか安全な場所に移そうと、母は必死に引っ張ったそうです
空襲の恐怖にもめげず、子牛を助けようとした母は
なかなか勇敢な少女であったようです
実際の母は、小柄な、とても優しい女性でした
私は、それなりに、いたずらな子供でしたが
母に叱られた記憶がほとんどありません
母は、あまり戦争の話をしませんでした
戦争の話になると
「戦争は嫌だ」
と、頭痛を耐えるよう顔をして黙り込むのでした
私は、戦争経験者が、戦争を嫌うのは当然であると思います
私の母が、そうだったからです
そして、私自身も平和主義者のつもりです
しかしながら
私は、世の中の平和活動家には、どうにも違和感があります
彼らは、外国の工作員であるとしか思えません
おそらく、冷戦中は、旧ソ連や中共から、活動資金を得ていたのでしょう
彼らは、アメリカやフランスの核開発には反対しても
旧ソ連や中国の核開発には反対しませんでした
日本の原子力発電所には反対しても、中国の核武装には反対しません
平和主義や戦争反対という大義名文を振り回し
実際は、外国のために働く売国奴の
なんと多いことでしょう!
長崎に原爆が落とされました
江戸時代以来、西洋文明の入り口であった長崎は
皮肉なことに、この時も、西洋文明を思い知らされました
幕末の志士達の拠点は、いまや平和運動の拠点となっています
記念式典には、75ヶ国の代表が参列したそうです
しかし、ここで気になることもあります
長崎市長が、現在国会で審議中の法案に意見を述べたようです
余計なことをしたものです
原爆の悲惨を、他の戦災被災者の問題と区別するなら
それは、核兵器そのものが人類にもたらす悲惨によるのであり
反核運動に関わるのは止む得ないにしても
一般的な法律にまで口を出すような立場には無いのです
戦争の空襲による被災者というなら
私の両親だって、例外ではありません
たまたま運良く、無傷でいられましたから
戦後、戦争の傷を引きずらずに生きられましたし
私という人間も、この世に誕生することが出来ました
しかし、彼らも、原爆被災者と同じく、空襲の被災者なのです
父は、庭に立っているところを,米軍機から狙い撃ちされました
父の立つ、すぐ目の前の地面に1発の弾丸が撃ち込まれたのです
空を見上げた父には、1機の米軍機が飛び去るのが見えました
アメリカ兵は、機銃掃射ではなく、コックピットから銃で狙い撃ちしたのです
庭に立つジャップの少年を、あたかもハンティングの獲物のように・・・
母も空襲の思い出を語ったことがありました
寒川町は平地のため防空壕が作れず
石垣イチゴ用のコンクリートの板を重ねて、防空壕の代わりにしました
そこに隠れていると、米軍艦載機の機銃掃射の弾があたり
その音が怖かったことを話してくれました
空襲の流れ弾に当たって、近所の少年が亡くなったことを
母は、泣きそうになりながら、話してくれました
十代の少女であった母は
男手の少ない中で、重要な働き手でもありました
母は、子牛の世話をしていました
空襲の恐怖で動かなくなってしまった子牛を
なんとか安全な場所に移そうと、母は必死に引っ張ったそうです
空襲の恐怖にもめげず、子牛を助けようとした母は
なかなか勇敢な少女であったようです
実際の母は、小柄な、とても優しい女性でした
私は、それなりに、いたずらな子供でしたが
母に叱られた記憶がほとんどありません
母は、あまり戦争の話をしませんでした
戦争の話になると
「戦争は嫌だ」
と、頭痛を耐えるよう顔をして黙り込むのでした
私は、戦争経験者が、戦争を嫌うのは当然であると思います
私の母が、そうだったからです
そして、私自身も平和主義者のつもりです
しかしながら
私は、世の中の平和活動家には、どうにも違和感があります
彼らは、外国の工作員であるとしか思えません
おそらく、冷戦中は、旧ソ連や中共から、活動資金を得ていたのでしょう
彼らは、アメリカやフランスの核開発には反対しても
旧ソ連や中国の核開発には反対しませんでした
日本の原子力発電所には反対しても、中国の核武装には反対しません
平和主義や戦争反対という大義名文を振り回し
実際は、外国のために働く売国奴の
なんと多いことでしょう!