空襲のことを考えながら
母のことを考えるようになりました
父と同じ昭和3年生まれの母は、十代の真ん中が戦争時代でした
もっとも感受性の強い時代を戦争の中で過ごしたのです
終戦が近付くに従い
状況は悪化するばかりでした
母には、最悪の未来しか思い浮かばなかったはずです
その絶望的な日々が、母の戦争の記憶であり,青春でした
父は、飛行機から狙い撃ちをされたことはあっても
機銃掃射を受けた経験は無いということです
当時の我が家の周辺は、純然たる農業地帯であり
米軍の攻撃目標になるようなものは無かったからでしょう
寒川は違いました
父の話では、寒川には相模工廠があり
零戦のエンジンなどを作っていたそうです
そこを米軍機に狙われたわけです
米軍機は、相模工廠攻撃の後
民家に機銃掃射をして帰ったのでしょう
いつ来るとも分からない空襲の恐怖
そんな中で、母は農作業をし、家畜の世話をし
妹たちの面倒もみていたわけです
危篤になった妹のために、蜜柑を求めて
二宮あたりの農家を訪ね歩き、やっと手に入れた話など
叔母から聞くまで、私は知りませんでした
さらに
母は、父親が町会議長、伯父が町長という家の娘でしたが
その伯父が、戦死者の町葬の時に
天皇陛下のご真影(写真)に
特にお辞儀をする必要は無い・・・と言ってしまったため
特高警察に拘引されてしまったのです
そんなことも、母の心痛をひどいものにしていたはずです
母のことを考えるようになりました
父と同じ昭和3年生まれの母は、十代の真ん中が戦争時代でした
もっとも感受性の強い時代を戦争の中で過ごしたのです
終戦が近付くに従い
状況は悪化するばかりでした
母には、最悪の未来しか思い浮かばなかったはずです
その絶望的な日々が、母の戦争の記憶であり,青春でした
父は、飛行機から狙い撃ちをされたことはあっても
機銃掃射を受けた経験は無いということです
当時の我が家の周辺は、純然たる農業地帯であり
米軍の攻撃目標になるようなものは無かったからでしょう
寒川は違いました
父の話では、寒川には相模工廠があり
零戦のエンジンなどを作っていたそうです
そこを米軍機に狙われたわけです
米軍機は、相模工廠攻撃の後
民家に機銃掃射をして帰ったのでしょう
いつ来るとも分からない空襲の恐怖
そんな中で、母は農作業をし、家畜の世話をし
妹たちの面倒もみていたわけです
危篤になった妹のために、蜜柑を求めて
二宮あたりの農家を訪ね歩き、やっと手に入れた話など
叔母から聞くまで、私は知りませんでした
さらに
母は、父親が町会議長、伯父が町長という家の娘でしたが
その伯父が、戦死者の町葬の時に
天皇陛下のご真影(写真)に
特にお辞儀をする必要は無い・・・と言ってしまったため
特高警察に拘引されてしまったのです
そんなことも、母の心痛をひどいものにしていたはずです