無意識日記
宇多田光 word:i_
 



最近、連続して「魔法少女まどかマギカ」の主題歌“コネクト”のカバーを耳にして「まだ四年前の作品だけど、これも最早スタンダード・ナンバー扱いかぁ」と感心した。確かに、スタンダード・ナンバーというのは、小さい頃にはそうは思っていなかったのだけれども、時間に淘汰されてスタンダードになっていくというよりは、生まれながらにしてスタンダードの予感が既にしているケースの方が多いような気がする。まどマギは2011年の時点で「10年に一つの傑作」として認められていたし、実際2010年代のアニメは時代として後年「ポストまどマギ」として語られるだろう。切り口なんて自由なのだが、ダークファンタジーとか構成美とかシャフト演出とかイヌカレー的な異空間とか、何をやってもまどマギと比較される。…ちょっと極論だけど。兎も角、時代を作ってしまった作品は歌もまたそのままスタンダードになったのだ。別に四年待つ事もなく、“コネクト”は生まれながらにしてスタンダードナンバーなのである。


少し回りくどい導入部で申し訳ない。つまり、スタンダードナンバーとは、ただ楽曲の力だけでそうなるのではなく、生まれてきた時の環境や時代に大きく左右される、という事が言いたかった。それは時に運命的で、例えば「もし“コネクト”がまどマギに使われていなかったとしてもスタンダードナンバーになっていたか?」という問い自体を物凄くつまらなく響かせる。「そんな事言ったってしょうがないじゃん」という"気分"になってしまうのである。たらればを語る事自体を否定していなくても。


First LoveとFlavor Of Lifeは生まれながらにしてスタンダードナンバーだった。時間の経過とは関係なく、前者は驚きをもって、後者は期待に応えて瞬く間に日本人の"心の歌"になった。楽曲に力があったのは言うまでもないが、他の様々な要素が噛み合ってそういう結果を生み出した。コンサートでこの2曲が続けて歌われた時の迫力たるや。あの悲鳴にも似た歓声は、まるで名所旧跡を初めて訪ねたかのような感動を連想させる。もうそれだけで、歴史的瞬間なのである。たとえツアーで歌われて何十回目何百回めだとしても。

それはいい。しかし、スタンダードナンバーにならなかった名曲たちにも、私は思い入れがある。SCv2の"Goodbye Happiness"と"Can't Wait Christmas"は、どちらも初めて聴いた時、スタンダードナンバーたりえる力強さを感じた。と同時に、実際にはスタンダードナンバーにはならないだろうという寂しさも覚えた。もう5年近く前の話だが、取り敢えず今のところ、ファン以外にとってこの2曲は、知ってはいてもスタンダードという感じはしないだろう。

少し切ない。が、それがスタンダードというものだ。なるべくしてなる。2010年の秋に、ああいったセッティングで、ああいった状況でリリースされた2曲に、スタンダードになれるチャンスはなかった。いや、なる運命になかった、というべきか。曲としての強さに関しては今でも全く最高に尽きると思うけれども、その他の様々が、特に別に噛み合う事はなかった。キャンクリはCMソングにまでなったのに。

そう考えると、どちらが先かよくわからないが、5年前にヒカルがこうやって引っ込んだ事も何らかの必然という気がする。色んなケースがあるのだ。最初の発売から10年経ってもう一度再発売したら較べものにならないほど売れた、とかカバーを歌ったら代表曲になってしまったとか、色々。だから、今後ふとした事からキャンクリやグッハピがスタンダード・ナンバーになってしまう可能性は否定出来ない。種々が噛み合うタイミングは、予測不可能だ。取り敢えず今は、あそこまでの曲を書いておきながら、そういう風にならなかったのだからそれはそれで某かの"潮時"だったのかもしれない、と考えるようになった。Hikaruからすれば個人的な、私的な理由だったのかもしれないが、結果論として、この5年普通に活動を続けていたとしても、少なくともここ日本には、居心地のいい広い居場所にはいられなかったかもしれない。またこのたらればも、「言っても仕方がない」類いのものでは、あるのだが。


なので、注意深く見ておこう。Hikaruは自分の気分で復帰するかもしれないが、それが実際にはどういうタイミングになったのかは、また未来から過去を眺め直して初めてわかることだろう。未来にすら届かない手は、今は拱(こまね)いておくくらいしか使い道がないのだから。

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色々と音楽市場の様子を見てみると、結局、衰退したのは日本のJpop市場だけで、他は大して変わっていないのではないか。

インターネットの普及でCDは売れなくなったが、欧米の市場でいえばそれは、まるごとではないものの購入方法が配信に移行しただけで、収益性に問題があるとはいえ、ニーズ自体が衰えているようには思えない。日本の市場に関しても、各ジャンルの来日公演をみるに特に勢いが衰えている気配はない。ここ15年のトレンドであるフェスティバルの隆盛も、今後は兎も角、今のところ絶好調である。

興行に関していえば、Jpopの巨人たちだって全く心配が無い。平気でドーム公演を満員にしている。また、アイドル文化に関しては男女とも今が絶頂期だろう。してみると、実は、販売方法やその収益性は置いておいて、ニーズ自体が減ったのは日本の商業音楽市場の中心、かつてJpopと呼ばれた「不特定多数を相手にした商業音楽」のみなのではないか、という気がしてきた。もっと踏み込んでいえば、テレビを利用して売る曲が減ったというだけなのではないかと。

テレビに関していえば、昔に較べて随分視聴率が低下している。今連続ドラマが20%を超えたら大変な話題であるが、90年代なんかは枠によっては20%台がノルマだとすら言われていた。そりゃあ、見劣りする。

数字が実態をどれだけ反映してるかはわからない。録画で見る層が何%位居るかとかのリサーチも必要だろう。しかし、テレビ離れ自体は抗えない流れのようであり、それに伴ってマスメディア頼りの売り方をしてきたミュージシャン、というよりレコード会社だわな、は軒並み苦労している。逆にいえばそれ以外は大して変わっていない。興行の強いミュージシャンからしてみれば、「それで?」てなもんだ。

そんな中で宇多田ヒカルは特に異質である。マスメディアの扱いが大きな影響を及ぼすポジションに居ながら、媚びる様子が全く無い。こちらからアピールする事も無く、ずっとオファーを選別する立場だった。まぁそれはいい。

問題なのは、アーティストのキャラクターとしては、本来ならば興行に強いタイプだったんじゃないかという点だ。いや、現実には本人が制作重視で、ライブ活動の経験自体が不足していたからそうでもなかったのだが、(繰り返しになるが)"キャラクターとしては"、知名度とか話題性だとかルックスだとかは無縁の、マイク一本で、その歌唱力ひとつで観客を黙らせるようなタイプの、"超実力派ミュージシャン"だった筈だ。それが現状"こうなって"いるのは、経緯次第とはいえ、些か居心地の悪さを感じる。

だから、次のプロモーション戦略は難しいのだ。ぽっかりと空洞化した日本の商業音楽の中心市場に、メディアとして老いた地上波テレビと共にまた挑むか、それとも、今後は現場主義、興行主体のミュージシャンになっていくか。ヒカルが大きく生き方を変える事はないだろうから制作重視は変わらないだろうが、プロモーション戦略の方は時代とやらに合わせて変化させていかずにはいられないだろう。私自身も書いててこの話題に興味があるんだかないんだかわかりないのだけれど、ファンベースの薄さを逆に身軽さと捉えて、ドラスティックに進んでいって欲しいものである。…それも違うのかな~よくわからないぜ。

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