無意識日記
宇多田光 word:i_
 



音楽の方も二次創作がない訳ではない。とりわけ、80年代以降は「DJとRemix」というのがキーワードになって楽曲をパーツ毎に再利用する方法論が広まった。

DJ(たぶん、この場合古き良き"ディスク・ジョッキー"という言い方はしないのだろう。"リズム&ブルーズ"と"アール&ビー"が異なるように、"ディスク・ジョッキー"と"ディー・ジェイ"は別物である)は御存知のように既存のアナログ・レコードを楽器のように操ってサウンドを構築するプレイヤーだ。それまでの意味での"演奏"は楽器によるものだったからこの発想は画期的だった。

Remixの方は、DJのようにリアルタイムではないが、既存の音源の切り貼りによって新しいサウンドを生み出すという点では同じである。そして、何より大きいのは、その手法に定型が存在する事だ。我々は毎度、"PLANiTb"という記号を見る度に"あのサウンドだな"と想像がつく。"Beautiful World"はAcoustica Mixだったので別物だったが、ラッセルはいつも同じ定型を使ってリミックスをしている。

これはとっつきがいい。例えばYoutubeに溢れているのは、"歌ってみた"の次にリミックスである。定型さえ学べば誰でも(は言い過ぎだが)リミックスによって新しい…それを聴くに値するサウンドを作る事が出来る。それがリミックスの魅力である。

そこまでなら漫画でいう"同人誌"と変わらない二次創作なのだが、こちらはなかなか求心力のある"市場"が、無い。漫画でいうコミック・マーケットのようなな。勿論同人誌即売会はコミケだけではないが毎年一般ニュースとして取り上げられてしまうあの規模は異常である。商業的な意味での"市場"とは異なる(寧ろ、積極的に一線を引こうとしている)空間ではあるが、いつのまにか企業ブースまでお馴染みになった求心力・影響力こそが…そうだな、"羨ましい"と思う理由だ。

例えばWebでサウンド・クラウドを探れば幾らでもリミックスが現れる。しかし、日本一国のpixivにその"勢い"でかなわない。昔に較べて随分落ち着いてるように思うが。かなわない、というより、その場が求心力を持っているという印象を内外に知らしめれるシステムになっていない、と言った方がいいかな。

これが、著作権に対する考え方、処し方の違いから来ているかどうかは正直わからない。ただ、流石にそろそろ"二次使用のガイドライン"みたいなものを(出来れば国際的に)制定出来ればと思うが、無理だろうなぁ。

極論をいえば、本来音楽なんてものは数学の定理のように全人類が自由に利用出来るようにするべきなのだと思うが、我々が愚かなのか何なのか、数学者に生活の保証を与えるようには音楽家を社会的に養う仕組みは整っていない。まぁ、話が大きくなり過ぎたな。


こういう状況でいち音楽家が「自由に二次使用していいよ」と言い出すのがいい事なのかどうかは、わからない。しかし、これも極端な話、オフィシャルで二次創作を選別して紹介出来るようになればその音楽家の求心力は飛躍的に高まる。何もしなくても毎週「Remix Of The Week」が出てくるとすれば全然違うだろう。



…ん? 別に俺が勝手に始めればいいのかな? うちの目次にはニコニコ動画とYoutubeの「宇多田」や「Utada」をキーワードにして新着順に検索結果を表示するボタンを設置してある。うーむ、やってみようかな。でも面倒だなー。取り敢えず保留で。考えとくわ。

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これまで音楽市場に関して「送り手」と「受け手」に大別して話を進めてきた。しかし、インターネットによる相互作用が強い現代では必ずしもこの区分けは万能ではない。

映画やドラマといった業界もそうだが、音楽業界はやはり楽器が演奏できるとか楽譜が読めるとか、そういった敷居によって送り手と受け手の区別がつきやすい。更に、著作権や出版権の委託の有無によってプロとアマの違いがわかりやすい。その為、送り手と受け手の間に"溝"のようなものが出来やすい。例えば十数年前、CCCDの導入で一悶着あったが、是非は兎も角消費者の立場に立てば猛反発を食らう事は容易に予想がついた筈である。あの頃は送り手側が受け手側に対して不信感を募らせていたのだ。そういう状況を、もともとあった"溝"が作り出していた。

これが全然異なっていたのが、漫画業界だ。これも、どちらがよかったという訳ではないのだが、コミック・マーケットに代表されるように、こちらでは「同人」という独自の文化が育まれた。二次創作という、著作権的にはグレーゾーン、ブラックゾーンといえる文化圏だったが、これによって受け手側と送り手側が地続きになった。それどころか、同人からプロになる例が多発した為、そもそも著作権を守る側である筈のプロの漫画家や出版社が、土壌としての同人文化を目の敵にする訳にはいかなくなった、いや、する訳がなくなった。

この文化状態がインターネットの相互性とマッチした。ますます受け手と送り手の間はなだらかになり、もうどこまでが公式の創作物かわからなくなった。版権絵、なんていう単語の歴史の長さな。

ネットとの親和性と著作権に対する態度は、音楽業界と対照的である。どちらがいいか、というのは容易に結論が出ない。お陰で、ご覧の通り、日本では音楽サービスだけが割高である。それは裏を返せば、創作物に対する対価がしっかり回収されている事の証明であり、それ故に送り手たちを守っている側面もある。漫画業界やアニメ業界の薄給はよく話題になるが、それは常に成り手に事欠かず代わりが幾らでも居るからだ。いやそれは大局的な話であって局所的な現実はきっと人手不足なんだろうけれど。

ただ、インターネットについて考えると、完全に音楽業界は立ち遅れている。受け手と送り手の相互作用で押し進められる文化の方がよりフィットするのは最早当然の事であって、漫画を発端としてイラストや小説、アニメにゲームといった二次創作(いやどれが発端かはいろんなケースがあるけれど)によって"盛り上がりを演出"する事については音楽業界は全く打つ手なしである。

しかし、お陰で音楽の"現場主義"が浸透し、コンサート興行が活況になっているのも事実である。どちらが正義か、という議論はあまり意味がない。何がしたくて、どうすればいいかというのをひとつひとつ見ていくしかないだろう。

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