無意識日記
宇多田光 word:i_
 



いつも書いている"日本の商業音楽市場"というのは誰でもいつでも入ってこれる「広場」のようなものだ。或いはターミナルとでもいえばいいか。まずそこに人が集まって、そこから各ジャンルに拡散していくとっかかりのようなもの…宇多田ヒカルの主戦場は常にそこだった。いや別に戦場じゃないか。"勝負する舞台"という意味だ。

今はそこが手薄という事。各アーティスト、各ジャンルのファンというのは相変わらず手厚い、というかかつてない程に膨れ上がっているとすらいっていい。邦楽アーティストたちのツアーデイトと会場のキャパを見比べて、「いやお前らでもこんなに入るのかよ」と呟く事頻りである。

未々僅かなもんだが、入口がテレビからインターネット(スマートフォン)に移るに従って、この"広場"というものが急激に縮小しているような気がする。これはインターネット自体の特性というより、2010年代の特性と言った方がいい。主な原因は幾つかある。ゲームの話もしたいのだが私は全く知らないのでおいておくとして。

幾つかあるうちで最も大きいのは現代のSNSである。TwitterやLINEといった現代のツールは、一昔前のポータルサイトやBBSとは異なり「広場」という概念が薄い。"Network System"という名前に相応しく、自分自身の選択が情報の行き来を規定するからだ。不特定多数の情報源からではなく、自分の選んだフォローやメンバーからしか情報が入ってこない。勿論これは"ごくごく大ざっぱな傾向"であって、Twitterなら広告も入るし、他人のRTなんて予測不能だからいろんな情報が飛び込んでくるから別に自分で情報統制をしている訳じゃないんだが、「自分の見ている風景は自分だけしか見ていない」のが基本だ。今後は、そこを押さえている人と、それが世界の全体だと勘違いする人の両極にスペクトルが広がっていくだろう。

自分でメンバーを規定している筈のSNSでさえ勘違いを止めるのは難しいのに、もっと手ごわいものが更に2つある。広告と検索である。

今や、広告表示も検索結果も個々人に自動的にカスタマイズされる時代だ。PCですらそうだからスマートフォンはもっとそうだろう。Google Suggestの表示や検索結果の表示順序には我々1人々々の検索履歴が反映される。と同時に隣に関連したGoogle Adが表示される。さっきAmazonのアフィリエイトのリンクを初めて踏んだら、次に初めて行ったサイトにすぐにその商品の広告が表示される。その機能を利用して1日表示される広告を総てヒカルにして遊んでた事もあったが兎に角、検索や広告も自分でカスタマイズしているという自覚は、SNSに較べて更に薄い。

いや、まずYahoo!みたいなポータルサイトにまずアクセスしているよ、だから皆が見るようなニュースには一通り目を通してます、と仰る方も多いだろうが、あと2~3年でこのポータルサイトも変化する可能性がある。つまり、それすらパーソナル・カスタマイズされている可能性だ。どこまで個人データを共有できるか、そのルール作りがどれくらい進むかによって様相は変化するだろうが、ますますパーソナルカスタマイズが進む可能性は、暫く頭に入れておいた方がいいだろう。


このようにして、今後5年位で、インターネットを"社会"の窓口にする人々は、パーソナルカスタマイズされた情報ばかりを浴びる事になる。その反動で、急激な全体主義も進むだろう。一言でいえば一般常識の先鋭化である。勿論これはネットの問題で、テレビや新聞があと数年で大きく衰退するとは考えられないので、社会全体の趨勢は変わらないだろうが、コンテンツビジネスにとっては別だろう。

パーソナルカスタマイズの先鞭は、皆さん御存知AKB48である。巨大化し過ぎて忘れている人もあるかもしれないが、彼女たちの最初のコンセプトは「会えるアイドル」だった。今もそれは変わらないようだが、つまり、彼女たち(秋元康さん)は、最初から不特定多数ではなく、わざわざ会いにきてくれる特定少数のファンから相手をし始めたのだ。それが巨大化して今に至っているが、それでもやはりそれは"特定大多数"になっただけで基本は変わらない。個と個のネットワークを直に会って築く所から話が始まっているのである。ある意味SNS時代を先取りしていた。

是非があるのは十分承知だが、今は、広場で不特定多数を相手に商売するより、1人々々に"あたり"をつけて、その人たちにパーソナルカスタマイズされた情報と商品を送り届ける時代になりつつあるのだ。本来ならそれはニッチの活動だったのだが、今やそれが規模としても"中央広場"のやり方が生み出すそれを一部上回る勢いを生みつつある。その現状は把握しておかないといけない。


私の現状認識はそんな感じですよというのを踏まえた上でまた次回。長くなるなぁ、これ…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




スポーツの世界での"日本代表"の凄まじい人気の高さを考えると、もしかして商業音楽でも日本人が海外で目立った活躍をすればかなりの注目度になるのではないか、という予測も出来る。例えば映画の世界では賞レースに日本人の名前を見る事が珍しくなくなったが、まだ「世界的特大ヒット作」というものがない為、本当にそうなった時どうなるかはわからない。ほらあれですよ、全米No.1だとか、歴代興行収入第何位とか。

商業音楽の場合、ビルボード第1位がひとつの目安になるだろう事は間違いないと思うのだが、今の日本ではこれすら食い付かれるかどうか結構疑問になっている。というのも、そもそも音楽チャートのランキングというものが興味をもたれなくなっているからだ。延々とアイドルの名前が連なり、それが途切れたらアニソンでは何も面白くない。そもそも最近「今週のヒット曲」という概念がない。そういった状況で全米チャートNo.1といってもピンと来ないんじゃあないか、という風にみてしまうのだ。

それはそれで健全だなぁ、と前向きに捉える事も出来る。スポーツの日本代表とは違い、音楽は他人と競うものではない。各々が気に入ったものを選べばよい、と。チャートアクションをみて何かを決めるとか本末転倒だと。私もそう思うが、"商業音楽"という括りでみる以上は何らかの形で数字が出てそれに基づいて比較されるのは避けられない。レコード会社から小売店に至るまで、日々その"数字"に悩まされている。

これが、寧ろ、大挙して日本のアーティストがビルボードを占拠し始めたら違うかもしれない。そこでの日本人同士の鍔迫り合い、となると"世界の舞台で日本人が切磋琢磨"となって、何か新しい局面が開けるような気もする。

そういう考え方をしたならば、ヒカルがたとえビルボードで孤軍奮闘したとしても、文字通り「海の向こうの話」としてあんまり盛り上がらない気もする。スポーツとは事情が違いすぎる。何より、ヒカルがチャートを上がるとすれば英語の歌だろうからそこで既に距離が出来てしまう訳でね。"Sukiyaki"のように日本語なままなら、また話は別かもしれないが。もし仮に、「宇多田ヒカルなら英語に何の問題もないから全米でヒット曲を出す事も可能だろう」と言われていたのが蓋を開けてみると日本語の歌が受けてしまった、とかになったら、皮肉というか、いやそれも違うな、なんかくすぐったい気分になるだろうな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )