無意識日記
宇多田光 word:i_
 



2つの選択肢がある。ひとつは、綿密に計画して歌を聴いてもらう状況を設えること、もうひとつは、「どうぞお好きなTPOで聴いてください」と開き直る事だ。

今までのヒカルは前者に近い。いち早く配信に乗り出したし着うたはもうその時代を象徴する曲を作り出したしMastered for iTunesにハイレゾ配信にプラチナSHMとSHMCDの併用にと様々なフォーマットでの提供をしているのは、リスナーの鑑賞環境が多岐に渡る事への対応だろう。それならカセットテープで出したらどれくらい売れるか試して欲しいもんだが、まぁ流石にそこまでの余裕はないか。

ここから更に綿密に、となるとハードの指定とか時間帯の指定とか、そういう事になる。

時間帯の指定というと奇妙かもしれないが、雨の日に合うとか深夜に合うとか、楽曲のキャラクターごとに色々あるだろう。例えば、サンプル音源の配布を、一週間なら一週間、毎晩22時から1時間だけフル・ストリーミングで行う、なんて企画をすればその歌には夜のイメージが定着するだろう。『十時のお笑い番組…』なんて歌詞があったりするなら尚更だ。ストリーミングも、各端末1日1回に制限して渇望感を煽る、なんて手法も考えられるがそこまでやるのは技術的にも難しいだろうかな。

私がずっとワイヤレスイヤホンがどうのと騒いでいるのもこの文脈上の話である。曲の書き手は、果たしてどんなシチュエーションとどんなサウンドで聴いて貰いたいか、そもそもそんな要求を意図しているか、ずっと気になっている。そして、私のように意図的にそれを探ろうとする人間以外の人たちも自然にそこに導けるようなアレンジメントは無いだろうか、という問題はずっとつきまとっている。

タイアップがあるならいい。映画封切日に解禁で、多くの人が初めて映画のエンディングで聴く事が保証されているのなら、文脈の構築はこれ以上ない程に達成されている。映画館のムードとサウンドの中で、映画を見終わった後の心地よい疲労を感じながら耳にする事を(も)想定しながら曲を作りミックスに取り組む事が出来る。ドラマやアニメの主題歌もそうだ。

勿論、「それだけにとどまらないもの」をヒカルは目指してきた。Beautiful Worldなどは、アニメ映画のエンディングで流れる事を想定しつつかつヒットチャートの中にJpopソングとして溶け込む事ができた神業的な神曲であった。いやもう8年も前の曲の話引っ張り出してきても仕方がないんだけれど。

となると、従来通りの、劇中歌や主題歌、CMソングといった文脈での曲作りに関しては何の心配も要らない訳で、となると今時のシチュエーションに即した新しい文脈ではどうなのかという話になるのだがそこらへんからまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前は、ドラッグで捕まった人のCDをレコード会社が自主回収する話をしたが、これを消費者側からみると、「真面目な人が書いた歌詞だと思っていたから感動出来たのに。もうこの人のCDは買わない。」なんて風になる。こちらはレコード会社とは違い価値判断を他者がとやかく言う話ではないので、余程の影響力のある有名人でない限り「どうぞご自由に」である。

「ドラッグと歌詞の何が関係あるの? そんな事で歌に魅力を感じられなくなる事なんて無いよ。」という意見ももっともだ。確かに、「ドラッグ反対!」とでも歌っていない限りあんまり関係なさそうである。

だがしかし、そうだな、例えば、こちらは全く犯罪とかではないが、あるシンガーソングライターの事を、てっきり異性愛者だと思っていたのに実は同性愛者で、今まで自伝的に書いてきたラブソングも実は同性の恋人との事を歌っていたものだった、とかならどうか。これなら、確かにリスナーの仲で歌詞の解釈に変化が出てきてしまうかもしれない。ある意味叙述トリックの一種であろう。その勘違いに気付いたのを機にファンを辞める人が出てきたとしても、何というのだろう、お気の毒にというか同情心というか、そういう感想を持たれても仕方が無いかな、という気はしてくる。

なお、私個人の話をすると、異性愛者の歌詞だと思ってたのが実は同性愛者の歌だったと後で発覚したようなケースでは逆にテンションが上がってしまう可能性の方が遥かに高い。よりそのライターさんの事を好きになる事はあっても嫌うような事は考え難いな。


ここらへんまではまだまだ微笑ましいんだ。ここから急に話がエグくなる、いやもう抉れてくるので人によってはここで読むのをやめてください。心の弱い人やクレームをしたい人はね。


さて、殺人鬼がアーティストだった場合を想像してみようか。彼なり彼女なりが絵を描いたとしよう。美しい風景画。殺人の気配は微塵もない。言われなければ誰1人として作者が殺人鬼だとわからない位に心の暖まる画風だったりしたら。その絵を貴方は表立って評価出来るだろうか。「絵に罪は無い」といえるだろうか。これはかなり人に依るのではないか。賛否両論になるのもむべなるかな、と。私はこの場合なら「絵に罪は無い」と言い切って絵を評価するだろう。そこまではまぁいい。

ではその殺人画家かんが、死体をモチーフにしたアートを描いてきたらどうだ。「この絵を描く為に人を殺しました。どうしてもその人の死体が必要だったのです。」と言ってきたらどうだろうか。それでも貴方はその絵を、純粋にただ一枚のキャンヴァスに描かれた芸術作品として冷静に評価出来るのだろうか。

ここまで来るとさしもの私も冷静で居る自信が無い。それどころか自分が遺族だったらまず間違い無くその一点モノの油絵を作者もろとも跡形も無く燃やしにいく事だろう。そんな事で絵を描くなんて冗談じゃあない。

しかし、私が遺族でなく、絵の説明として「医学書などをもとに架空の人物を創作して死体の絵を描きました」と嘘をつかれたとしたら、そして、その絵に何らかの芸術性がみられるとしたら、うっかりWebで「なかなかいい絵じゃないか」と発言してしまうかもしれない。そして、その発言が実際の遺族に届いてしまうかもしれない。考えただけでもおぞましい。


恐らく私は作品を文脈と切り離して評価する事に長けている方だと思うのだが、それだとしてもやっぱり文脈を切り離しきれないケースも出てくる訳だ。そして、ほのぼのとした風景画から死体のスケッチまでの間にはグラデーションがある。ここからここまでは許せて、ここから先は許せない、みたいな線はなかなか引けないだろう。多元的にあやふやである。本質的にそういうものなのだ。


以上の思考実験で何が言いたかったかというと、わかりやすさの為に絵の話にしたが、歌を聴かせるのも同じ事だという事だ。今は過去になかった超情報化社会である為、歌を聴いてもらう為のシチュエーション作りからしてコンテンツの、作品の一部として出来るだけ用意しないといけない、そして、シンガーソングライターであるならば、その人のパーソナリティに関する情報の現実の分布状況まで考慮に入れなければいけないのだ。ヒカルの場合はどうすればいいのだろうか、という話からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どこまでをひとつの作品とみなすか、は作り手の意識も受け手の意識も千差万別で、それらが互いに乖離し合っているのが普通ではあるが、それについて自覚的であるか否かは大きな、時として不幸な差異を生もう。

「家に帰るまでが遠足です。」とはよく言ったものだが、寧ろ遠足のピークは『必ず寝不足』になる前夜かもしれない。当日は期待ほどじゃなかったとか、あるでしょう。そういう風に考えると遠足というコンテンツは前日までの準備から無事に帰宅するまでがひとつの消費単位となりえる。

こういうのは人による。前日まで大して期待せず寧ろ憂鬱だったのに行ってみたら案外面白かった、とかいう場合はコンテンツ単位としては当日のみに価値があるだろう。いやいや、前日までの憂鬱との落差あっての高評価なのだからそこも含めるべきだ、という反論もありえる。人それぞれである。

今考えているコンテンツは"歌"についてだが、これも誰がいつどこで歌うかというのが消費単位の評価として重要になってきたりする。オリンピックのNHK番組のテーマソングになったら印象が格段に違う。人気のテレビドラマのクライマックスでかかったBGMは、或いはゲームのラスボス戦のテーマソングは…作られた状況があって楽曲は輝きを増す。

例えば単純に、演歌なんかは前奏で前口上があって「故郷のお母さんを思って歌います、それでは聴いて下さい」と尺ピッタリに歌詞のバックグラウンドを説明してから歌に入ったりするが、これなどは口上とセットで消費単位とみるべきだろう。

兎に角、文脈の置き方でコンテンツの印象はすっかり変わる。であるならば文脈の置き方も含めてひとつのコンテンツだと捉えて批評を加えた方がよい。勿論切り離して考えた方がいいケースも多い。映画館で買ったポップコーンがまずくて食べられたものではなかったとかシートの座り心地が悪かったとかで映画が楽しめなかったからといって映画の評価を下げる訳にはいかない、というのは誰しもわかるだろう。ポップコーンやシートは映画館の責任であって映画の責任ではない。

かといって、現実にはそういった各要素を切り離して評価するのはかなり難しい。今ポップコーンとシートは映画館の責任、と言ったが、厳密にはポップコーンを売った売店の責任であり、更にいえば売店で調理した担当者の責任であり、もしかしたら原材料を育てたトウモロコシ農家の責任かもしれない。いやもしかしたら、食べた人が味覚障害を発症していた可能性も捨て切れない。考え始めるとキリがない。素直に「昨日は楽しめなくってね」で終わらせておけば何の問題もないのだ。そこから踏み込んで批評を加えようとするからおかしなことになる、んだが、今のご時世誰しもが評価を公表する時代だし、寧ろグルメサイトはそれで回っている。批評活動を無視していられる場合ではない。

従って、コンテンツの単位即ち「どこからどこまでが"ひとつの作品"なのか」は事前にある程度周知しておく必要がある、のだが、それ自体を幻惑して楽しませるコンテンツも存在したりして更に話はややこしくなる。「要素を切り分けてどこからどこまでを作品とみなしているか」に対してコンセンサスを事前に取らない事自体がコンテンツのエンターテインメント的重要要素、という自己言及型の例である。ほのぼの4コマのつもりで読み始めたらいつのまにかストーリー漫画になっていた、とかね。予想や前提を裏切る事もまた娯楽になりえるのだ。

そういう事を踏まえた上で、今後どういう風に歌を提供していけばいいのか…という話からまた次回。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




コンテンツの消費単位の話…丁寧に話していると長くなるので色々すっとばして結論を書くと、歌は何を歌うかではなくて誰が歌うかが大事だ。これはもう大体がそうだろう。好きな歌があって、作った人がわからないケースの方が歌った人がわからないケースより圧倒的に多い。勿論その人の声がサウンドとして特徴がある、というのが先にあるのだが、「誰々の歌」と言った時の誰々は大抵作者より歌手である。

ヒカルの場合作者兼歌手なのでその点はクリアー…かというと、それだけでもない。負の側面もあるからだ。

もうあまりヒカルにはそういった心配は要らないが、思考実験として極端な例をとろう。例えば誰か歌手がドラッグ所持で逮捕されたとして、レコード会社が自粛という事でその歌手のCDを自主回収するケース。これは実際にあった事で、ヒカルも「それはおかしい」とハッキリ発言している案件だ。私も、その立場に近い。作者や歌手がどんな人であれ、作品に罪は無い。売るには売るで、服役中の人への印税の配分を凍結するなど、様々なアイデアを駆使してでも、文化的な成果は出来るだけ人々に触れられるようにすべきだ。そして、作者の人生や人格と作品は切り離されて評価されるべきだ、と。

(少なくとも10年以上昔の)ヒカルや私はそういう考え方である(であった)。しかし、これを「コンテンツの消費単位の差異」という観点で見直すと話が違ってくる。

もし誰かが、歌を楽しむのには是非とも作者の人生や人格や哲学や思想を知りたい、その上で歌を評価し堪能したい、という確固とした志向を持っていたとすると、その人の「コンテンツの消費単位」はただ歌だけではない。もっと言えば一曲分のMP3ファイルではない。その人にとっては、作者の人柄や性格をWikipediaやBlogで調べ、パーソナリティをやっているラジオを聴き、著作物があれば読み、時には共感し時には反感を抱き、様々な感情に遭遇した挙げ句に歌を聴く、という一連の過程をひとまとまりとして(そうであるという自覚があるかないかはわかんないけど)味わう事そのものが「コンテンツの消費単位」だという解釈が成り立つのだ。であるとするなら、歌手が人生の途中で警察のご厄介になるのはまさに「コンテンツ自体を汚された」「作品に傷がついた」事になる。

例えば、私にとっては作品といえばMP3ファイルだが、配信でファイルを買ってみたらそのファイルの途中にノイズが乗っていてサビのメロディーがうまく聞き取れない、みたいな事態になっているようなものだ。当然私は追加料金を払う事無しにファイルの交換を要求するだろう。CDだったら返品である。

逮捕された歌手のCDを回収するのも、同じ理由からだ、という説明も成り立つ気がする。現実はそれとはちょっと違っていて、「お前らは犯罪者を支援するのか」という言いがかりに近いクレームを事前に恐れて、という側面が強いが、これを置き換えてみて、「破損したMP3ファイルを改善する事なく売り続ける」という風な事だったら、私でも「何考えてんねん」と言いたくなる。それと似たようなものかもしれない。



もう一歩踏み込んでみようか…いや、それは次回にするか。長すぎる日記は読むのも面倒だからね。程々に区切っておいてほなまた次回のお楽しみ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アクセスする先がフィールド(広場)からネットワーク(個人的人間関係)にシフトしているというのなら、宇多田ヒカルの従来のアクセス方法にとってかなり向かい風である。ファンクラブもコミュニティーも無しにそれこそ毎日揺れ動く"不特定多数"を相手にしてきたのだから。ヒカルが口にする「私のファンになってもらわなくていい、曲ごとに好きになってもらえれば」というのはそもそもそういった曲ごとに価値判断をする主体がある程度の数存在してそこにアクセスする方法が確立されている場合にいえる事だ。今その「ある程度の数存在して」が揺らいでいるのである。

ここはじっくり見ていこう。「曲ごとに価値判断」というのは、消費する主体が曲をコンテンツの単位としてみているのが前提だ。しかし、これ自体もまた揺らいでいる。特定のアイドルなりアーティストなりを追い掛けている人にとっては"消費するコンテンツ"はそのアイドル自身、或いはそのアイドルと関わっている時間であり、曲は単位ではない。GLAYファンは(総体として)発売された新曲がつまらなかったからといって次のツアーには参加しない、なんて事はしない。そういう事が重なれば離れていくかもしれないがそれはGLAYという単位から離れていく事を意味する。実際の所、今の日本で「前のGLAYの新曲が気に入ったから買った。今度のはつまらないから買わない。次のはまたよかったから買おう」というような判断で購買活動をしている人がどれくらい居るのだろうか。売上の推移をみていると、それこそ5万人も居ないよね、という気分になる。彼らが今最高傑作をシングルとして発表したとしても初動10万枚もいけばいい方、というの
が実情ではないか。

実際には沢山のトップ・アーティストが存在する為定量的な分析は難しいが、トレンドとして、ネットワークとコミュニティー…いや、ネットワークとクラスタと言った方がいいか、に依存するプロモーション体制であれば、曲単位よりアイドル単位でプロモーションする方がいい。そういう"仕掛け"を、ヒカルは持っていないのだ。

そもそも、「曲ごとに価値判断する主体」の存在を仮定するところが、言うなれば"高望み"なのである。CD全盛時代からそうだったが、現実には曲自体がコンテンツの消費単位として"主導的"だった時代は少ない。勿論、名前として看板の機能は果たしていたが。

思い出してみると、例えば、少数派の代表例ではあるが、ASAYANや電波少年やウリナリといったテレビ番組はその「バックグラウンドストーリー」と共にCDを売っていた。何枚売れないと解散、とかオリコン何位以内に入らないととか、そういった物語の一部として楽曲が消費されていたのだ。踏み込んでいえば、コンテンツの消費単位は楽曲ではなく、その楽曲を一部として組み込んだ番組、更には番組とチャートアクションを組み合わせたストーリーそのものがコンテンツの消費単位であり、その中で最もマネタイズできる"象徴"としてCDがヒットした、というのがより現実に即した見方だろう。


あれから15年以上が経ち、今はそれに加えてSNSの力がある。そうなると…という話からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




いつも書いている"日本の商業音楽市場"というのは誰でもいつでも入ってこれる「広場」のようなものだ。或いはターミナルとでもいえばいいか。まずそこに人が集まって、そこから各ジャンルに拡散していくとっかかりのようなもの…宇多田ヒカルの主戦場は常にそこだった。いや別に戦場じゃないか。"勝負する舞台"という意味だ。

今はそこが手薄という事。各アーティスト、各ジャンルのファンというのは相変わらず手厚い、というかかつてない程に膨れ上がっているとすらいっていい。邦楽アーティストたちのツアーデイトと会場のキャパを見比べて、「いやお前らでもこんなに入るのかよ」と呟く事頻りである。

未々僅かなもんだが、入口がテレビからインターネット(スマートフォン)に移るに従って、この"広場"というものが急激に縮小しているような気がする。これはインターネット自体の特性というより、2010年代の特性と言った方がいい。主な原因は幾つかある。ゲームの話もしたいのだが私は全く知らないのでおいておくとして。

幾つかあるうちで最も大きいのは現代のSNSである。TwitterやLINEといった現代のツールは、一昔前のポータルサイトやBBSとは異なり「広場」という概念が薄い。"Network System"という名前に相応しく、自分自身の選択が情報の行き来を規定するからだ。不特定多数の情報源からではなく、自分の選んだフォローやメンバーからしか情報が入ってこない。勿論これは"ごくごく大ざっぱな傾向"であって、Twitterなら広告も入るし、他人のRTなんて予測不能だからいろんな情報が飛び込んでくるから別に自分で情報統制をしている訳じゃないんだが、「自分の見ている風景は自分だけしか見ていない」のが基本だ。今後は、そこを押さえている人と、それが世界の全体だと勘違いする人の両極にスペクトルが広がっていくだろう。

自分でメンバーを規定している筈のSNSでさえ勘違いを止めるのは難しいのに、もっと手ごわいものが更に2つある。広告と検索である。

今や、広告表示も検索結果も個々人に自動的にカスタマイズされる時代だ。PCですらそうだからスマートフォンはもっとそうだろう。Google Suggestの表示や検索結果の表示順序には我々1人々々の検索履歴が反映される。と同時に隣に関連したGoogle Adが表示される。さっきAmazonのアフィリエイトのリンクを初めて踏んだら、次に初めて行ったサイトにすぐにその商品の広告が表示される。その機能を利用して1日表示される広告を総てヒカルにして遊んでた事もあったが兎に角、検索や広告も自分でカスタマイズしているという自覚は、SNSに較べて更に薄い。

いや、まずYahoo!みたいなポータルサイトにまずアクセスしているよ、だから皆が見るようなニュースには一通り目を通してます、と仰る方も多いだろうが、あと2~3年でこのポータルサイトも変化する可能性がある。つまり、それすらパーソナル・カスタマイズされている可能性だ。どこまで個人データを共有できるか、そのルール作りがどれくらい進むかによって様相は変化するだろうが、ますますパーソナルカスタマイズが進む可能性は、暫く頭に入れておいた方がいいだろう。


このようにして、今後5年位で、インターネットを"社会"の窓口にする人々は、パーソナルカスタマイズされた情報ばかりを浴びる事になる。その反動で、急激な全体主義も進むだろう。一言でいえば一般常識の先鋭化である。勿論これはネットの問題で、テレビや新聞があと数年で大きく衰退するとは考えられないので、社会全体の趨勢は変わらないだろうが、コンテンツビジネスにとっては別だろう。

パーソナルカスタマイズの先鞭は、皆さん御存知AKB48である。巨大化し過ぎて忘れている人もあるかもしれないが、彼女たちの最初のコンセプトは「会えるアイドル」だった。今もそれは変わらないようだが、つまり、彼女たち(秋元康さん)は、最初から不特定多数ではなく、わざわざ会いにきてくれる特定少数のファンから相手をし始めたのだ。それが巨大化して今に至っているが、それでもやはりそれは"特定大多数"になっただけで基本は変わらない。個と個のネットワークを直に会って築く所から話が始まっているのである。ある意味SNS時代を先取りしていた。

是非があるのは十分承知だが、今は、広場で不特定多数を相手に商売するより、1人々々に"あたり"をつけて、その人たちにパーソナルカスタマイズされた情報と商品を送り届ける時代になりつつあるのだ。本来ならそれはニッチの活動だったのだが、今やそれが規模としても"中央広場"のやり方が生み出すそれを一部上回る勢いを生みつつある。その現状は把握しておかないといけない。


私の現状認識はそんな感じですよというのを踏まえた上でまた次回。長くなるなぁ、これ…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




スポーツの世界での"日本代表"の凄まじい人気の高さを考えると、もしかして商業音楽でも日本人が海外で目立った活躍をすればかなりの注目度になるのではないか、という予測も出来る。例えば映画の世界では賞レースに日本人の名前を見る事が珍しくなくなったが、まだ「世界的特大ヒット作」というものがない為、本当にそうなった時どうなるかはわからない。ほらあれですよ、全米No.1だとか、歴代興行収入第何位とか。

商業音楽の場合、ビルボード第1位がひとつの目安になるだろう事は間違いないと思うのだが、今の日本ではこれすら食い付かれるかどうか結構疑問になっている。というのも、そもそも音楽チャートのランキングというものが興味をもたれなくなっているからだ。延々とアイドルの名前が連なり、それが途切れたらアニソンでは何も面白くない。そもそも最近「今週のヒット曲」という概念がない。そういった状況で全米チャートNo.1といってもピンと来ないんじゃあないか、という風にみてしまうのだ。

それはそれで健全だなぁ、と前向きに捉える事も出来る。スポーツの日本代表とは違い、音楽は他人と競うものではない。各々が気に入ったものを選べばよい、と。チャートアクションをみて何かを決めるとか本末転倒だと。私もそう思うが、"商業音楽"という括りでみる以上は何らかの形で数字が出てそれに基づいて比較されるのは避けられない。レコード会社から小売店に至るまで、日々その"数字"に悩まされている。

これが、寧ろ、大挙して日本のアーティストがビルボードを占拠し始めたら違うかもしれない。そこでの日本人同士の鍔迫り合い、となると"世界の舞台で日本人が切磋琢磨"となって、何か新しい局面が開けるような気もする。

そういう考え方をしたならば、ヒカルがたとえビルボードで孤軍奮闘したとしても、文字通り「海の向こうの話」としてあんまり盛り上がらない気もする。スポーツとは事情が違いすぎる。何より、ヒカルがチャートを上がるとすれば英語の歌だろうからそこで既に距離が出来てしまう訳でね。"Sukiyaki"のように日本語なままなら、また話は別かもしれないが。もし仮に、「宇多田ヒカルなら英語に何の問題もないから全米でヒット曲を出す事も可能だろう」と言われていたのが蓋を開けてみると日本語の歌が受けてしまった、とかになったら、皮肉というか、いやそれも違うな、なんかくすぐったい気分になるだろうな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最近、連続して「魔法少女まどかマギカ」の主題歌“コネクト”のカバーを耳にして「まだ四年前の作品だけど、これも最早スタンダード・ナンバー扱いかぁ」と感心した。確かに、スタンダード・ナンバーというのは、小さい頃にはそうは思っていなかったのだけれども、時間に淘汰されてスタンダードになっていくというよりは、生まれながらにしてスタンダードの予感が既にしているケースの方が多いような気がする。まどマギは2011年の時点で「10年に一つの傑作」として認められていたし、実際2010年代のアニメは時代として後年「ポストまどマギ」として語られるだろう。切り口なんて自由なのだが、ダークファンタジーとか構成美とかシャフト演出とかイヌカレー的な異空間とか、何をやってもまどマギと比較される。…ちょっと極論だけど。兎も角、時代を作ってしまった作品は歌もまたそのままスタンダードになったのだ。別に四年待つ事もなく、“コネクト”は生まれながらにしてスタンダードナンバーなのである。


少し回りくどい導入部で申し訳ない。つまり、スタンダードナンバーとは、ただ楽曲の力だけでそうなるのではなく、生まれてきた時の環境や時代に大きく左右される、という事が言いたかった。それは時に運命的で、例えば「もし“コネクト”がまどマギに使われていなかったとしてもスタンダードナンバーになっていたか?」という問い自体を物凄くつまらなく響かせる。「そんな事言ったってしょうがないじゃん」という"気分"になってしまうのである。たらればを語る事自体を否定していなくても。


First LoveとFlavor Of Lifeは生まれながらにしてスタンダードナンバーだった。時間の経過とは関係なく、前者は驚きをもって、後者は期待に応えて瞬く間に日本人の"心の歌"になった。楽曲に力があったのは言うまでもないが、他の様々な要素が噛み合ってそういう結果を生み出した。コンサートでこの2曲が続けて歌われた時の迫力たるや。あの悲鳴にも似た歓声は、まるで名所旧跡を初めて訪ねたかのような感動を連想させる。もうそれだけで、歴史的瞬間なのである。たとえツアーで歌われて何十回目何百回めだとしても。

それはいい。しかし、スタンダードナンバーにならなかった名曲たちにも、私は思い入れがある。SCv2の"Goodbye Happiness"と"Can't Wait Christmas"は、どちらも初めて聴いた時、スタンダードナンバーたりえる力強さを感じた。と同時に、実際にはスタンダードナンバーにはならないだろうという寂しさも覚えた。もう5年近く前の話だが、取り敢えず今のところ、ファン以外にとってこの2曲は、知ってはいてもスタンダードという感じはしないだろう。

少し切ない。が、それがスタンダードというものだ。なるべくしてなる。2010年の秋に、ああいったセッティングで、ああいった状況でリリースされた2曲に、スタンダードになれるチャンスはなかった。いや、なる運命になかった、というべきか。曲としての強さに関しては今でも全く最高に尽きると思うけれども、その他の様々が、特に別に噛み合う事はなかった。キャンクリはCMソングにまでなったのに。

そう考えると、どちらが先かよくわからないが、5年前にヒカルがこうやって引っ込んだ事も何らかの必然という気がする。色んなケースがあるのだ。最初の発売から10年経ってもう一度再発売したら較べものにならないほど売れた、とかカバーを歌ったら代表曲になってしまったとか、色々。だから、今後ふとした事からキャンクリやグッハピがスタンダード・ナンバーになってしまう可能性は否定出来ない。種々が噛み合うタイミングは、予測不可能だ。取り敢えず今は、あそこまでの曲を書いておきながら、そういう風にならなかったのだからそれはそれで某かの"潮時"だったのかもしれない、と考えるようになった。Hikaruからすれば個人的な、私的な理由だったのかもしれないが、結果論として、この5年普通に活動を続けていたとしても、少なくともここ日本には、居心地のいい広い居場所にはいられなかったかもしれない。またこのたらればも、「言っても仕方がない」類いのものでは、あるのだが。


なので、注意深く見ておこう。Hikaruは自分の気分で復帰するかもしれないが、それが実際にはどういうタイミングになったのかは、また未来から過去を眺め直して初めてわかることだろう。未来にすら届かない手は、今は拱(こまね)いておくくらいしか使い道がないのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




色々と音楽市場の様子を見てみると、結局、衰退したのは日本のJpop市場だけで、他は大して変わっていないのではないか。

インターネットの普及でCDは売れなくなったが、欧米の市場でいえばそれは、まるごとではないものの購入方法が配信に移行しただけで、収益性に問題があるとはいえ、ニーズ自体が衰えているようには思えない。日本の市場に関しても、各ジャンルの来日公演をみるに特に勢いが衰えている気配はない。ここ15年のトレンドであるフェスティバルの隆盛も、今後は兎も角、今のところ絶好調である。

興行に関していえば、Jpopの巨人たちだって全く心配が無い。平気でドーム公演を満員にしている。また、アイドル文化に関しては男女とも今が絶頂期だろう。してみると、実は、販売方法やその収益性は置いておいて、ニーズ自体が減ったのは日本の商業音楽市場の中心、かつてJpopと呼ばれた「不特定多数を相手にした商業音楽」のみなのではないか、という気がしてきた。もっと踏み込んでいえば、テレビを利用して売る曲が減ったというだけなのではないかと。

テレビに関していえば、昔に較べて随分視聴率が低下している。今連続ドラマが20%を超えたら大変な話題であるが、90年代なんかは枠によっては20%台がノルマだとすら言われていた。そりゃあ、見劣りする。

数字が実態をどれだけ反映してるかはわからない。録画で見る層が何%位居るかとかのリサーチも必要だろう。しかし、テレビ離れ自体は抗えない流れのようであり、それに伴ってマスメディア頼りの売り方をしてきたミュージシャン、というよりレコード会社だわな、は軒並み苦労している。逆にいえばそれ以外は大して変わっていない。興行の強いミュージシャンからしてみれば、「それで?」てなもんだ。

そんな中で宇多田ヒカルは特に異質である。マスメディアの扱いが大きな影響を及ぼすポジションに居ながら、媚びる様子が全く無い。こちらからアピールする事も無く、ずっとオファーを選別する立場だった。まぁそれはいい。

問題なのは、アーティストのキャラクターとしては、本来ならば興行に強いタイプだったんじゃないかという点だ。いや、現実には本人が制作重視で、ライブ活動の経験自体が不足していたからそうでもなかったのだが、(繰り返しになるが)"キャラクターとしては"、知名度とか話題性だとかルックスだとかは無縁の、マイク一本で、その歌唱力ひとつで観客を黙らせるようなタイプの、"超実力派ミュージシャン"だった筈だ。それが現状"こうなって"いるのは、経緯次第とはいえ、些か居心地の悪さを感じる。

だから、次のプロモーション戦略は難しいのだ。ぽっかりと空洞化した日本の商業音楽の中心市場に、メディアとして老いた地上波テレビと共にまた挑むか、それとも、今後は現場主義、興行主体のミュージシャンになっていくか。ヒカルが大きく生き方を変える事はないだろうから制作重視は変わらないだろうが、プロモーション戦略の方は時代とやらに合わせて変化させていかずにはいられないだろう。私自身も書いててこの話題に興味があるんだかないんだかわかりないのだけれど、ファンベースの薄さを逆に身軽さと捉えて、ドラスティックに進んでいって欲しいものである。…それも違うのかな~よくわからないぜ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




しかしまぁ、情報の出し方としてこういう方法(いきなりプロデューサーがツイートする)というのは今時どうかと思う。"新情報発表"はそれだけでエンターテインメントだ。極論すれば、新曲の配信ファイルより新曲リリースデイトの発表記事の方がニーズは大きい。もっといえば、そういった新情報を初出しするイベントのチケットを数千円で売れば数千人集まるだろう。1曲250円の配信ファイルで同じだけの収益を上げようと思ったら結構キツいぞ、きっと。

そういう意味では、「商売っ気がなくて、如何にも昔ながらのミュージシャン気質でよろしい」という感じでは受けがいいかもしれない。ただ、それは今の世代の感覚とは若干ズレていると思う。今求められているのは寧ろ「お金を使いたくなるような魅力」の方なんじゃないの。

今はコンテンツは(昭和でいえば地上波テレビのように)無料で楽しむものと相場が決まっている。音楽もそうだし、ゲームも漫画もアニメも何でもインターネットで手に入る。皆月々の通信料金を払った時点でそれ以上はもう、と思う。そういう時代に差別化をはかれる、"特別なコンテンツ"というのは、積極的に応援したくなるようなものだったり、或いは周囲から尊敬されたり優位に立てたりするものだろう。後者は課金の2文字を出せばわかるか。その両方ん最大限利用したのが皆さんご存知秋元康だ。“誰かを応援する楽しさ"を経済化して構築した手腕は凄い。今の時代のエンターテインメントが何なのかよぉく把握している。もう今後幾ら勢いが衰えようが“一時代を築いた”という事実は永遠に消えないだろう。好き嫌いは抜きにして、ひたすら凄い。

あそこまで"異様"になったのは、まだ皆が誰かを応援する方法論に慣れていないからだ。お酒の飲み方みたいなもんで、どれくらいまで行けば自分にとっていちばん楽しいかの見極めが出来ていない為やたらと極端に走っているだけなんですね。まぁもう10年もすれば落ち着くんではないか。

秋元さんの名前を出すと両論になるだろうが、これが「クラウド・ファンディング」なら随分と印象がよくなるだろうし、「寄付」とか「チャリティー」にまでいけば「えらいねぇ」と言われるようになる。社会的評価はバラバラだが、誰かを応援したいという気持ちはどれも同じである。

たぶん、それによってどれだけ儲けているか、で評価が変わっているのだろう。要は儲けに対する妬みであって、それはそれでわからなくもないが、もっと本質的な点は、応援する誰かが居なかったり、居ても適切な方法論を持たなかったりする事への苛立ちが背景にある事にあるのではないか。収益性は体のいい"口撃"の言い訳に過ぎない。

…なんてことを20年前に言っていても、あまり同意は得られなかっただろうが、今は、もっと極端にいえば、「お金をつぎ込みたいと思えるだけのコンテンツに巡り会えて俺って幸せ」と思える事がある種最大の娯楽になりつつある。意地悪な言い方をすれば「心地良く騙されたい」のだ。だから、誰かを応援できる我々は、ずっと前から結構幸せ。

で、そんな時代にヒカルはどうすんのと。本来、そういう、お金をつぎ込んで応援云々というのからは最も遠い人だ。ラジオで新曲を聴いて「今度の宇多田の新曲いいね」と思った人が気軽に学校や職場からの帰り道にCDショップに寄ってシングル盤を買って帰る…みたいなのが理想だ。ヒカルに入れ込むでもなし、ただ曲が気に入ったから買ってみました深い意味はありません、みたいなワンナイトラブ(&マジック)的な“その場限りのお付き合い"で商売が成立する、したのがデビューから5年くらいの話である。

つまり、誤解を与えるように言うと、昔は一夜限りの売春で生計を立てられたけれど、今は継続的な結婚生活にまで持ち込まないと経済的に成り立たなくなっている訳である。こう書くと、あれ、道徳的にはいい方向に来てるんじゃないのという気がしてくる。そうなのだ、今という時代はコンテンツビジネスにとって昔に較べて健全で誠実になっている。世の中よくなっているのだ―


―そうなんだ、と思えた人は今「心地良く騙されている」状態です。これが、今現在のエンターテインメントなのね。さぁ、どうしよう?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ラフミックスの話がちと細か過ぎたか。まぁいいか。ラフの状態でレコード会社のディレクターに聴かせて判断を仰いだり、時にはラジオオンエアまでされちゃう場合もあったりするから完成度としてはかなり高いラフもある、という言及もしとくかな。レコード会社が発売を急ぐあまりラフミックスの状態でリリースされてしまった作品まであったりする。後日正規ミックス盤が出たりしてね。大変だなみんな。

取り敢えず、制作第一報が1月で6月の今まだ制作中というのだから、時間が掛かっている訳で、ならばもうそろそろ完成だろうとみるべきか、ここまでくれば5ヶ月も7ヶ月も12ヶ月も大して変わらんと鷹揚に時間を使うんじゃないかとみるべきか、難しいところだが、まぁ今までと変わらない感じで待ちますかね。

何しろ、制作終了と発売はイコールではないのだから。いつでもリリースできますよという状態で塩漬けされてしまう可能性も否定できない。よくわからないのは、何故1月の時点で言及してしまったか、なのだが、スケジュールの変更があったとみた方がいいだろうか。うーん、照實さんは兎も角Hikaruは迂闊な真似はしないだろう。フォロワー数からみてみても。そう考えると不可解なのだが、印象が立ち消えになっただけでさして実害は無かったのだから問題があった訳でもない。判断が難しい。

また、今回の作業がEVAQのような位置付けであれば、一曲は作りますけどそれっきりで顔も出しませんよパターンも想定され得る。「復帰」ではない、と。そこらへんの設えは梶さんなら抜かりないだろうからいいとして、この方式が定着してしまうと「復帰」=「ライブ」の選択肢しかなくなってしまわないか。それならそれで、という気がしなくもないが、果たしてメディア露出を今後どうするかの方針は決まったのだろうか。今まで通り、というのが答だろうし、怖がってばかりでも仕方がない、とも思うけど、それに見合った効果が見込めるのか、という点から再検討をしておいて欲しい、とは思う。たぶん、またイチからファンベースを築くというか、誰を相手にしていくか、というところから考えないといけないので。

今は、「不特定多数」というターゲットが成り立たない時代だ。ポストJpopのミュージシャンは特に。特定の、これくらい居る誰かたちにこういうものを届ける、というヴィジョンがなければ、話題にはなったけれどそれだけだったという事になりかねない。そこらへんも含めて、焦らず、きっちり準備して臨んでうただきたいなと思うのであります。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「トラックは粗」てなー。そらわからんわ。

照實さんの言ってるのは「ラフ・ミックス」の事だろう。rough=粗い、という意味だ。

ラフ・ミックスは文字通りざっくりとミックスしてトラックを作ってみる事だ。私は現場の人間ではないので伝聞から推測される話を書こう。

ラフ・ミックスを作る理由は幾つか考えられる。をっと、その前に。ミックスとは、録音した素材を一緒にする作業。録音(レコーディング)は基本的に各楽器ごとに別々に録る。ベースはベースだけで、ギターはギターだけで。これがストリングス・カルテットとかだと真ん中にマイクを立てて一遍に、となったりするが、基本は一楽器ごとである。そうやって別々に録音した素材を"混ぜる"のがミックスだ。

で話を戻すと、このミックスという作業はそうシンプルなものではない。技術的にもややこしいが、それ以上に、制作に携わる人間たちがどんな役割を持っているかで変わる。具体的には、作曲者、編曲者、プロデューサー、エンジニアを、それぞれ誰が担当するかで話が変わる。

例えばプロデューサーがエンジニアを兼任している場合。いや実際は"エンジニア上がりのプロデューサー"というケースが多いようだが。この場合ミックスに凝る。凝りまくる。プロデューサーとしてとても使い切れない程の素材を録音させ、その多大な素材から選別をしてミックスをする。使うかどうかわからないパートまで取り敢えず録音しておき、そこから選り取り見取りである。ある意味、こういうタイプのミックスは作編曲作業そのものに近い。

そうでない場合もある。ミュージシャン上がりのプロデューサーで、ミキシングの具体的な技術を持たない場合、「こんな風にミックスして欲しい」と口頭でエンジニアに伝えて、エンジニアが実際にミックスを行ってみる。意志の疎通さえ出来ていれば一発で「いいじゃないの」となる。早い場合だと一曲一日、いや数時間で済む場合もあるようだ。よう働くなぁあんたら。

で、作編曲に携わり且つ楽器を演奏出来る&歌が歌える場合は、簡単なミックスで最初の編曲プランを実際に録音してみる。これがデモ・テープというやつだ。最近は大体WAVファイルとかだろうが折角なので伝統的な"テープ"で呼んであげたい。

デモの段階では自宅で録音したり、PC上で済ましたり、といった"実際には使わない素材で一回構成してみる"のが基本だ。対してラフ・ミックスは、実際の完成品に使う可能性の高い録音素材を使って"試しに・仮にミックスをしてみよう"という時に作られる。

この段階で作るのに、幾つか理由が考えられる訳だ。例えば、専門的な事はわからないが初歩的な卓操作くらいなら出来るというプロデューサーがエンジニアに口頭だけでなく実際にラフミックスを作って提示して大枠のイメージを伝えたり、逆にエンジニアの方が「こんな感じでどうでしょ」と作ってみて提示するのもラフ・ミックスだ。種々のケースがある訳である。

宇多田体制の場合、ヒカル御大が作編曲歌唱、時には鍵盤楽器やギターの演奏までする上にプロデューサーまで兼任している。照實さんはその補佐だ。こういうケースでは、ラフ・ミックスは「叩き台」としての役割を果たす。つまり、実際に一度ミックスしてみて、それを聴いた上で作編曲プランから批判的に推敲する事が可能なのだ。プロデューサーが作編曲者だから。

これから歌入れという事なので、取り敢えず歌を何パターンか録音してみて、ラフミックスとの相性をはかり、時にはミックスの方を変更するプランも出てくるだろう。ぶっちゃけ、この、ヒカル無双体制では、どこまで遡って改変があるか想像もつかない。ラフミックスがまるごと破棄という事態だって有り得るのだ。恐ろしい。


ここからは私の推測だ。今日のヒカルのツイート、「歩道歩いてるてんとう虫見るとハラハラする」―この文の作り方から察するに、今のヒカルは作詞モードだ。恐らく、まだ歌詞が完成しておらず、実際に歌ってみてサウンドにフィットする歌詞を探ってみる腹づもりなのではないだろうか。ヒカルの事だから、歌詞の音韻の変更が作編曲の変更に遡及する可能性も否定できない。歌詞のバリエーションはそれくらい影響がある。この先どうなるかはわからない。ラフミックスが出来ているからといって、そう易々と完成に近付くとは限らない。まだまだ勝負はここからだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




有名人とは恐ろしいもので、有名になりすぎると名前だけが知られていて、例えば、「宇多田ヒカル? 名前はきいたことあるけど何してる人?」みたいな反応すら起こり始めるのが常だ。

「何をバカな」と言われそうだが、フォロワー数ランキングで未だ上位に位置しながら何も具体的な活動をせずに5年が経とうとしているのだから、そういう人が出てきてもおかしくはないと思われる。特に、名言Botなどに採用されていたりすると、そっちだけ独り歩きなんて事もあるかもわかんない。世代がかわるってなそういう事だろう。

逆にいえば、程度モノではあるが、"イメージ・チェンジ"をするには、いい頃合かもしれない。勿論我々年寄りには昔からのイメージってもんがあるからそれに囚われる訳だけど、それにしたって分別のある大人なのだから、ブランク後の変化に対しては、経験から「そういうこともあるよね」とわかってあげる事も可能である。

ヒカルの事だから、自分から敢えてイメージ・チェンジをしようとはしないだろうし、かといって昔のイメージを守ろうともしないだろう。普通に人として5年分の上積みをした姿になっているだけだ。

何しろ、我々が知らないだけで、この5年の中にだってヒカルには様々なドラマがあった筈である。かつては、何らかのエピソードがあればMessage From Hikkiを通じて教えて貰えてた訳だけど、今はそれも余り無い。ヒカルがどれだけ、どちらの方向に変化しているかわかったもんじゃない。

しかし、そういう「わからない不安」はヒカルの方が遥かに大きい。我々の方もまた5年分、変化しているからである。それに対するヒカルの"探り"は、どれだけ入っているのやら。いつもは冗談ぽく言ってたが、それこそ「私のことなんてもう誰も覚えてねーんじゃねーの」っていうのがほんのちょっぴり現実味を帯びてくる時間帯に突入しているような気はする。

とはいえ、昔と違ってインターネットを通じて"過去の遺産"にはすぐにリーチできる。Youtubeで検索すれば過去のテレビ出演だって出てくる。裏を返せば、検索さえしてもらえれば思い出してもらう事は容易なのだ。だから、仮にヒカルが歌手だという事を知らない世代が出てきたとしても、名前さえ覚えていて貰えればすぐにその事実に到達できる。今の時代、名前は何より重要なのだ。ある意味、皆の命運はGoogleが握っている訳で、恐ろしい時代になったもんだわ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




照實さんが例の「差し入れカプチーノ」について某か呟いているようだが、はてどう解釈したものか。

いや、作りかけのもの、もうすぐ出来上がりそうなもの、というのは我々にとって大した意味は無いのだ。誰あろうHikaru自身が最もよく理解しているように、曲というのは最後の仕上げが最も難儀なのだ。無理難題と言ってもいい。

「九十九里を半ばと思え」とは制作の話を指しているのかと思える。端からみたら「もう99%出来上がってるじゃないか」と周りから見えている場合も制作者からみたら「いや、これでやっと半分なんだ」となるのは、誇張でも何でもない。労力の体感々覚は本当にそんな感じである。

逆に、それを侮る人も多い。「もうこんな大きな氷塊が出来た。もう十分じゃないか。」―そんな風に言う人も居る。しかし、どれだけ氷塊が大きかろうと、水面から顔を出していなければ意味がない。100%とはまさに、やっと氷塊が水面上に「氷山の一角」を現す事を言う。沢山の人に届くのはその"一角"なのに。

"一角"をみて、「なんだ、そんな小さいもの。こっちの方がずっと大きい。」と水面下を指すのは大抵マニアだ。氷の大きさにばかり目がいく。人より目が利いてしまうから、水面下の大きさだってよくわかる。しかし、"世間の人々"にとっては、水面から上の方が世界だ。

いや確かに、本当に"一角"だけを、何かの力を借りてプカプカ浮かべている場合もある。そういうのは吹けば飛んでしまう。ヒカルの場合、氷塊を底から作り上げている。よって、出来上がったものは全く揺るぎない。そうやってPopsを作ってきたから、クォリティーが裏切らない。


なので、差し入れカプチーノに関しては、どこまで出来ているかという情報は、余り何かを期待出来る訳ではない。にじり寄るのは、ヒカルが本格的に仕上げに入った段階だろう。そこまでいけば"商品化"が視野に入ってくる。それまでは、趣味と変わらない。"仕上げのストレス"とヒカルが向き合うようになったら、それが復活の刻である。


まぁ、それはいい。照實さんが敢えてこのタイミングで呟いたのに他意があるのやら、ないのやら。もし何かのサインがあるとしたら、昨日梶さんの誕生日を祝っていたかどうかだろう。祝っていたなら、会っている。会っているなら、仕事の話だ。即ち、復帰か、他の、たとえば記念盤のような企画か。さぁ、どうだろう。場所がスタジオでヒカルも居たりしたら、もうダウト。

それはそれ、これはこれ。今までと、変わりない。大山鳴動して鼠一匹、ではないけれど、慌てず騒がずいようと思う。もう今の時代は情報操作をしようとしても疲れるだけだし、「決まったら発表する」というシンプルさがいちばんPreciousだ。こちらも、それを想定してシンプルで居ようと思う。言われるまでは、何も無いのだ。…そうやって自分を落ち着かせていないとそわそわし始めそうで、怖いんだろうな。笑っちゃう。あはは。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




先月デビューしたキマシ・ワシントンの、間違えた、カマシ・ワシントンのアルバムの曲が凄まじ過ぎて唖然としている。まだ全然全部聴けていないのだがデビューアルバムが自主制作盤で3枚組3時間てどういう事やねん。サックスプレイヤーなのだが、これ、ジャズというよりどちらかといえばプログレなんでないの。1曲目から10人編成のバンド+20人の混声合唱団+30人のオーケストラという大編成でかましてくれている。にしても一体誰が金出したんだこれ。

こういう事に制作費を使うってんならまぁわからなくもない、しかし、ライブで再現出来るチャンスは限られてくるよね、というのが最近の話の流れですわね。

そういえば、「楽曲提供」ってどこが予算を出しているのか知らないや。Kingdom Heartsシリーズなんかゲームの開発費から資金提供あったりしないのか。どんな契約内容で制作に取りかかっているのだろう。ゲームに合ったサウンドの為に60人編成が必要になります、と言った際に誰が決断を下すのやら。

という訳で先日照實さんがファンからのKHシリーズについての毎度のツッコミを軽くいなしていたが、前に勘違いで誤った憶測を流布した為殊更慎重のようだ。にしても不思議な距離感である。

これが劇伴担当者なら、ゲームの詳細を説明してもらって打ち合わせをし、という風に半ば開発チームの一員として関わっていく事になると思うのだけど、主題歌の提供となると妙な距離感が出てくる。たしか、“光”の時はヒカルが殆どゲームの内容を知らされておらず、なのにゲーム内の使用場面では完璧なフィットを見せ多くのゲーマーたちを感動させた―というのを聞いてヒカルがいちばん驚いていた、なんていう話もあったが、オープニング・テーマやエンディング・テーマのような、若干作中と距離があっても許されるというか、そういうこともあるよねという共通認識が出来ているケースは、やっぱりゲーム開発や映画制作の一部というよりは、“楽曲提供”というカタチのよそよそしい距離感で制作が行われているようにも感じられる。

特にヒカルはそういう場合、自分で作る事にこだわりを見せてきただろうから、「大きなプロジェクトの一員として働く」みたいな事を音楽制作の局面では体験した事がないかもしれない。宇多田ヒカルが劇伴担当のゲームなり映画なりがあったらかなりの話題性はあるだろうが、多くのファンは「そんな暇あるんだったら新しい歌を聴かせておくれよ」というのが本音だろうし、レコード会社としてもそっちの方がいいだろうから、無いだろうね。ヒカルが「ビッグ・プロジェクトの一員として働く」という事態は。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »