無意識日記
宇多田光 word:i_
 



コンテンツの消費単位の話…丁寧に話していると長くなるので色々すっとばして結論を書くと、歌は何を歌うかではなくて誰が歌うかが大事だ。これはもう大体がそうだろう。好きな歌があって、作った人がわからないケースの方が歌った人がわからないケースより圧倒的に多い。勿論その人の声がサウンドとして特徴がある、というのが先にあるのだが、「誰々の歌」と言った時の誰々は大抵作者より歌手である。

ヒカルの場合作者兼歌手なのでその点はクリアー…かというと、それだけでもない。負の側面もあるからだ。

もうあまりヒカルにはそういった心配は要らないが、思考実験として極端な例をとろう。例えば誰か歌手がドラッグ所持で逮捕されたとして、レコード会社が自粛という事でその歌手のCDを自主回収するケース。これは実際にあった事で、ヒカルも「それはおかしい」とハッキリ発言している案件だ。私も、その立場に近い。作者や歌手がどんな人であれ、作品に罪は無い。売るには売るで、服役中の人への印税の配分を凍結するなど、様々なアイデアを駆使してでも、文化的な成果は出来るだけ人々に触れられるようにすべきだ。そして、作者の人生や人格と作品は切り離されて評価されるべきだ、と。

(少なくとも10年以上昔の)ヒカルや私はそういう考え方である(であった)。しかし、これを「コンテンツの消費単位の差異」という観点で見直すと話が違ってくる。

もし誰かが、歌を楽しむのには是非とも作者の人生や人格や哲学や思想を知りたい、その上で歌を評価し堪能したい、という確固とした志向を持っていたとすると、その人の「コンテンツの消費単位」はただ歌だけではない。もっと言えば一曲分のMP3ファイルではない。その人にとっては、作者の人柄や性格をWikipediaやBlogで調べ、パーソナリティをやっているラジオを聴き、著作物があれば読み、時には共感し時には反感を抱き、様々な感情に遭遇した挙げ句に歌を聴く、という一連の過程をひとまとまりとして(そうであるという自覚があるかないかはわかんないけど)味わう事そのものが「コンテンツの消費単位」だという解釈が成り立つのだ。であるとするなら、歌手が人生の途中で警察のご厄介になるのはまさに「コンテンツ自体を汚された」「作品に傷がついた」事になる。

例えば、私にとっては作品といえばMP3ファイルだが、配信でファイルを買ってみたらそのファイルの途中にノイズが乗っていてサビのメロディーがうまく聞き取れない、みたいな事態になっているようなものだ。当然私は追加料金を払う事無しにファイルの交換を要求するだろう。CDだったら返品である。

逮捕された歌手のCDを回収するのも、同じ理由からだ、という説明も成り立つ気がする。現実はそれとはちょっと違っていて、「お前らは犯罪者を支援するのか」という言いがかりに近いクレームを事前に恐れて、という側面が強いが、これを置き換えてみて、「破損したMP3ファイルを改善する事なく売り続ける」という風な事だったら、私でも「何考えてんねん」と言いたくなる。それと似たようなものかもしれない。



もう一歩踏み込んでみようか…いや、それは次回にするか。長すぎる日記は読むのも面倒だからね。程々に区切っておいてほなまた次回のお楽しみ。

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アクセスする先がフィールド(広場)からネットワーク(個人的人間関係)にシフトしているというのなら、宇多田ヒカルの従来のアクセス方法にとってかなり向かい風である。ファンクラブもコミュニティーも無しにそれこそ毎日揺れ動く"不特定多数"を相手にしてきたのだから。ヒカルが口にする「私のファンになってもらわなくていい、曲ごとに好きになってもらえれば」というのはそもそもそういった曲ごとに価値判断をする主体がある程度の数存在してそこにアクセスする方法が確立されている場合にいえる事だ。今その「ある程度の数存在して」が揺らいでいるのである。

ここはじっくり見ていこう。「曲ごとに価値判断」というのは、消費する主体が曲をコンテンツの単位としてみているのが前提だ。しかし、これ自体もまた揺らいでいる。特定のアイドルなりアーティストなりを追い掛けている人にとっては"消費するコンテンツ"はそのアイドル自身、或いはそのアイドルと関わっている時間であり、曲は単位ではない。GLAYファンは(総体として)発売された新曲がつまらなかったからといって次のツアーには参加しない、なんて事はしない。そういう事が重なれば離れていくかもしれないがそれはGLAYという単位から離れていく事を意味する。実際の所、今の日本で「前のGLAYの新曲が気に入ったから買った。今度のはつまらないから買わない。次のはまたよかったから買おう」というような判断で購買活動をしている人がどれくらい居るのだろうか。売上の推移をみていると、それこそ5万人も居ないよね、という気分になる。彼らが今最高傑作をシングルとして発表したとしても初動10万枚もいけばいい方、というの
が実情ではないか。

実際には沢山のトップ・アーティストが存在する為定量的な分析は難しいが、トレンドとして、ネットワークとコミュニティー…いや、ネットワークとクラスタと言った方がいいか、に依存するプロモーション体制であれば、曲単位よりアイドル単位でプロモーションする方がいい。そういう"仕掛け"を、ヒカルは持っていないのだ。

そもそも、「曲ごとに価値判断する主体」の存在を仮定するところが、言うなれば"高望み"なのである。CD全盛時代からそうだったが、現実には曲自体がコンテンツの消費単位として"主導的"だった時代は少ない。勿論、名前として看板の機能は果たしていたが。

思い出してみると、例えば、少数派の代表例ではあるが、ASAYANや電波少年やウリナリといったテレビ番組はその「バックグラウンドストーリー」と共にCDを売っていた。何枚売れないと解散、とかオリコン何位以内に入らないととか、そういった物語の一部として楽曲が消費されていたのだ。踏み込んでいえば、コンテンツの消費単位は楽曲ではなく、その楽曲を一部として組み込んだ番組、更には番組とチャートアクションを組み合わせたストーリーそのものがコンテンツの消費単位であり、その中で最もマネタイズできる"象徴"としてCDがヒットした、というのがより現実に即した見方だろう。


あれから15年以上が経ち、今はそれに加えてSNSの力がある。そうなると…という話からまた次回。

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