無意識日記
宇多田光 word:i_
 



Hikaruが元気で幸せに暮らしているならもう急く事はない。のんびりと過去の業績を振り返りながら待とうかと思う。

宇多田ヒカルという名前のブランド力は大したものだ。有名な人のファンになるというのがこれほど"居心地の良さ"を齎してくれるとは思ってもみなかった…と言い切ってしまうと嘘になるかな。ちょっとは予想していた。そういうもんだろうかなと。

確かに、何かと便利である。旅行会社の人に「今回はどういった目的でハワイに?」と訊かれた時に「Utadaを観に。」と言ったら、「いいですね~。」と言われた。これが「Impaled Nazareneを観に。」だったら、「そ、そうですか。」となっていた所だ。人によっては、自慢げになれるかもしれない。そういうもんだ。また、私は経験が無いのだが、学校や職場で「今度宇多田のコンサートに行くんだ。」と言ったら「よくチケット取れたねぇ!」と羨ましがられたのではないか。実際はウタユナなんか余裕で取れる公演沢山あったんだけどイメージというのは強烈だからね。という訳で宇多田のファンをやっている、というのは、友達が出来るかどうかは別にして、そんなに"肩身の狭い思い"をした事がある人は多くなかったのではないか。宇多田ファンというカテゴリーは、実態は別にして、社会的な立ち位置がちゃんとあった。知名度の為せるワザである。

だが、我々に齎されたそういった"ほんわりしたメリット"の為にヒカルが10代の頃から苦悩してきていたかと思うとやっぱり「別に有名でなくてもよかったのかなぁ」という風にも何度も感じさせられてきたのも事実である。ヒカルからすれば「俺がこんだけ苦労してんだからせめてお前らは受けた恩恵を素直に喜べよ」という気分だったかもしれない。もしそう言われたら大変申し訳ない気持ちになる。ヒカルが目立ちたがり屋だったらよかったのだが、勿論そうではなかった。特に母親が自らの知名度を呪うタイプだったのでそれを見て育ったのは大きかった。その事自体はヒカルが幼い頃から警戒心を育めたという点である主"帝王教育"だった訳で、僥倖だったとしかいえない。その"免疫力"をもってしても"度しがたい"ものだった、というのだからメディアと我々大衆の無神経さたるや何をかいわんや。

という感じで、ヒカルの知名度に関しては我々にはささやかなメリットを齎す一方、ヒカルに多大なるデメリットを負わせた。ヒカルにメリットはあったのだろうか。ひとつは、前も触れたが、レコード会社に対する発言力の大きさに繋がった事だが、それってつまり実力で勝ち取ったものだし、ぶっちゃけ売れなくてもヒカルは"強気な契約内容"を突き付けていたような気がするのでこのメリットはあやふやだ。

ヒカルがメリットを感じたとすれば、慈善活動の際相手方が大変喜んでくれてた事だろう。「今日は宇多田ヒカルさんに来て貰いましたよ!」と言われて喜ばないのは難しい。たとえ普段ヒカルの事を全く気にかけていなくても「超有名人に会える」というのはそれだけでテンションが上がるものだ。世のミーハー度を侮ってはいけない。兎も角、そういうのを総合してヒカルは「あぁ、私有名でよかった。」と思える瞬間もそれなりにあったのじゃないかと想像するだけで、我々にとっては大きな慰めと、なるだろう。

今後についてはもうヒカル次第だからわからない。ただ、今まで、我々が日常でささやかな優越感に浸れたり、もしヒカルが知られていなければやたらと引っかかっていたであろう事を何事もなかったかのようにスムーズにやり過ごせたりしたりしたのは、ヒカルが沢山我慢してくれたお陰だというのは心のどこかに留め置いておきたい。そういう、あまり目立ちたくないと思うような人が人前に出てそういった繊細な心情を反映させた歌を歌って大ヒットさせてくれた事で生まれた"新しい居場所"を、我々が沢山享受してきた事を、忘れてしまっては、とてもよろしくない。感謝の気持ちは忘れたくないものである。

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何をもってしてシーンが盛り上がってるかの判定って難しい。90年代、週刊少年ジャンプは発行部数が600万部を突破。日刊とはいえ上にはもう読売新聞と朝日新聞しかないというところまで部数を伸ばした。その隆盛はドラゴンボールの終了によりピークを過ぎていったが、最終兵器たるワンピースの投入後に奇妙な事が起こる。ワンピのコミックスは右肩上がりで部数を上げていくのに本誌の方は右肩下がりのまま。結果、ワンピースは発行部数400万部を超え、ジャンプの方は300万部を割るという、90年代では考えられないような逆転現象が起こった。

この事態、どちらからみるかで事情が変わる。鳥山明が「みなさん、ジャンプの方はいいのでコミックスを買ってください」と素直に言っていた通り、漫画家にとっては週間連載の方は原稿料収入しかなく、単行本の方は印税収入だ。単行本が売れる方が嬉しいに決まっている。漫画家を励ますにはこちらの方がよい。雑誌の発行部数が下がったからといって嘆くべきかはちょっと待つべきだろう。

アニメにしてもそうだ。昔はゴールデンタイムに毎日のようにアニメ枠があったのが、今や殆どが深夜に追いやられている。そちらのスポンサーは製作委員会関連で、早い話が自分で枠を買って円盤と原作の宣伝をしているのだ。つまり、昔と違ってより小規模でも制作活動の継続が可能になった。ゴールデンタイムから消えてアニメは衰えたどころかますます本数が増えている。寧ろ、この勢いにあてこんでテレビ局が勘違いしてゴールデンタイムの枠をアニメに売るようになると制作状況は衰退するかもしれない。

何が言いたいかといえば、たとえデータとして数字が正確に集計・発表されていようとも、その読み方次第で幾つか幅のある解釈が可能だという事だ。何をもってして盛り上がってるとか衰退しているとかいうべきか、誰がどちらからみるかによってコロコロ変わるのである。

そして、勿論、成功のものさしを数字に頼らない制作者も多い。それは、ファンレターの内容であったり、コンサートやイベントで出会う人々の表情であったり、励まされる素は人によって様々だろうが、"一概には言えない"という当たり前の事をどれだけ踏まえられるかは大きい。


照實さんのツイートによると、Hikaruは元気に幸せそうにやっているという。こちらとしてはそれでもう十分である。周囲には無為に復帰を急かさないようにと釘を刺しておいてうただきたいものだ。わざわざ不幸や苦労を背負う為に業界に戻る事はない。元々無期限なんだし、いつ戻ってこようが自由だ。他人との約束なんて幾らでも反故にしてよい。2年だろうが5年だろうが何年だろうが、数字は関係ないのである。Hikaruの元気と幸せの方が大事だ。ただ、自分自身との約束だけはしっかり守って欲しい。「必ず戻ってくるから」と自分自身に対して約束したならば、その約束は果たされるべきだ。ひとのものさしではない、自分自身のものさしと時計にしたがって、場所とタイミングを見つけて欲しい。それがどれだけ素っ頓狂であったとしても、そこにUtada Hikaruの名前が刻まれてさえいれば十二分である。ワガママになるにも、多少努力が必要な性格をしてはるのが、ちと心配ではありますのやけどね…w

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