無意識日記
宇多田光 word:i_
 



さて「今時のシチュエーション」だが、今までさんざ繰り返してきたように"音楽を聴く"為のシステムがかつてない程貧弱なのだ、今は。そこが痛い。

昔はミニコンポやラジカセなどを皆持っていた。そういうのはそれなりに鳴るものである。しかし、パソコン業界はサウンド面で悉く貧弱だった。たとえばデスクトップパソコンの主流がラジカセみたいなサウンド一体型システムになっていたら、歴史は随分変わっていた筈だ。しかし現実は、そういったパソコンは傍流で、一部の好き者が買うニッチな商品になっている。こういうのは「そういうものだから」と思わせられるかどうかが勝負で、流れとして「せっかくパソコンを買うのに音が貧弱では埒があかない」と皆が思うように仕向ける工夫が足りなかったのだ。そうこうしてるうちにデスクトップパソコン自体が傍流になりノートパソコンが主流になった。と思ってたらノートパソコンも傍流になり今はスマートフォンとタブレットの時代だ。

こうなると"ステレオシステム"はリビングの大画面テレビの脇を占めるくらいしか居場所がない。だから音楽DVDは結構売れている。映画と同じような選択肢として見られているからだ。今の時代、しっかりと音楽と向き合って貰うなら映像作品を作らなければいけない。


ここからは女性に嫌われる話になるかな。ヒカルは美人である。しかし、もう今更ルックスの良し悪しでどうこうというポジションでもあるまい。だが、何らかの映像作品で勝負をするというのならフォトジェニックなルックスである事は大きな武器だ。ただ、ここから年齢を重ねていく中でそれに頼った映像作品作りをするのはリスキーだろう。

いや逆にヒカルなら「40歳なのにこんなにかわいいの!?」と言われるようなルックスを保っている事も容易に想像出来る。言い方を変えれば「あと10年は戦える」であろう。

そこらへんをどう捉えるか。ナチュラルなルックスを心掛けるか、或いは、極端に言えばLADY GAGAのようにエキセントリシティやアーティストシップを全面に押し出すか。

ここでも考えるべきは宇多田ヒカルという人の“文脈”である。どんな人生を送っていて、どんな人間性で、どんなイメージで皆から捉えられているかによって見た目の提示の仕方はころころと変わるだろう。

ヒカルがこの5年近く徹底して自分の顔写真を避けてきた事を想起しよう。我々の知るのは結婚写真くらいである。ある意味、今ヒカルは時間をかけてアピアランスに対する先入観をリセットしているのだ。つまり、次どんな見た目になっていても「こうきたか」とそのまま受け入れて貰えるようなニュートラルな、先入観のない状態に。千載一遇のチャンスである。

今までは"音楽家"だから、ファッションはそこまでこだわらないというか、一貫した"宇多田ヒカルスタイル"がなくても構わないというコンセプトでやってこれた。しかしこれからはどうなるか。何らかの映像媒体が、音楽観賞の為に必須な空気が出来上がってきてしまうとしたら、何か視覚面でヒカルのアーティストシップを表明する仕掛けが必要となるだろう。その母親譲りの恵まれた美貌は大きな武器のひとつである。勿論、それを活かさないというのも選択肢のひとつだし、ヒカルのやりたいようにやってくれればいいんだけれどね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2つの選択肢がある。ひとつは、綿密に計画して歌を聴いてもらう状況を設えること、もうひとつは、「どうぞお好きなTPOで聴いてください」と開き直る事だ。

今までのヒカルは前者に近い。いち早く配信に乗り出したし着うたはもうその時代を象徴する曲を作り出したしMastered for iTunesにハイレゾ配信にプラチナSHMとSHMCDの併用にと様々なフォーマットでの提供をしているのは、リスナーの鑑賞環境が多岐に渡る事への対応だろう。それならカセットテープで出したらどれくらい売れるか試して欲しいもんだが、まぁ流石にそこまでの余裕はないか。

ここから更に綿密に、となるとハードの指定とか時間帯の指定とか、そういう事になる。

時間帯の指定というと奇妙かもしれないが、雨の日に合うとか深夜に合うとか、楽曲のキャラクターごとに色々あるだろう。例えば、サンプル音源の配布を、一週間なら一週間、毎晩22時から1時間だけフル・ストリーミングで行う、なんて企画をすればその歌には夜のイメージが定着するだろう。『十時のお笑い番組…』なんて歌詞があったりするなら尚更だ。ストリーミングも、各端末1日1回に制限して渇望感を煽る、なんて手法も考えられるがそこまでやるのは技術的にも難しいだろうかな。

私がずっとワイヤレスイヤホンがどうのと騒いでいるのもこの文脈上の話である。曲の書き手は、果たしてどんなシチュエーションとどんなサウンドで聴いて貰いたいか、そもそもそんな要求を意図しているか、ずっと気になっている。そして、私のように意図的にそれを探ろうとする人間以外の人たちも自然にそこに導けるようなアレンジメントは無いだろうか、という問題はずっとつきまとっている。

タイアップがあるならいい。映画封切日に解禁で、多くの人が初めて映画のエンディングで聴く事が保証されているのなら、文脈の構築はこれ以上ない程に達成されている。映画館のムードとサウンドの中で、映画を見終わった後の心地よい疲労を感じながら耳にする事を(も)想定しながら曲を作りミックスに取り組む事が出来る。ドラマやアニメの主題歌もそうだ。

勿論、「それだけにとどまらないもの」をヒカルは目指してきた。Beautiful Worldなどは、アニメ映画のエンディングで流れる事を想定しつつかつヒットチャートの中にJpopソングとして溶け込む事ができた神業的な神曲であった。いやもう8年も前の曲の話引っ張り出してきても仕方がないんだけれど。

となると、従来通りの、劇中歌や主題歌、CMソングといった文脈での曲作りに関しては何の心配も要らない訳で、となると今時のシチュエーションに即した新しい文脈ではどうなのかという話になるのだがそこらへんからまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )