無意識日記
宇多田光 word:i_
 



宇多田ヒカルの齎した影響の独特さといえばそれが「型」ではなく「個」にあった点である。

例えばヒカルがキッカケでR&Bに目覚めその道を進んだ若手が居たとしてもそれはヒカルから音楽的影響を受けたとはいいづらい。例えばそれは、FREEDOMのCMにヒカルの歌が使われているからと初めてカップヌードルを食べてみたら案外美味しくて以来常食している、みたいなのと同じケースだからだ。カップヌードルがヒカルの発明ではないように、R&Bもヒカルの発明ではない。

ヒカルの曲が好きでも、では何をしようと若者が考えた時に"似た音楽性"を追究しようにも一定の型が無いからどうすればいいかわからない。従ってヒカルが影響を与えているとすれば、歌う事そのもの、詞を書く事そのもの、曲を書く事そのもの、といった極めて一般性の高い事柄か、或いは「あの曲が好き」とか「こっちの詞がいい」とかいった個々の具体に対する思い入れに収束するかの両極端だ。

いち個人がジャンル化する事だってある。安室奈美恵に影響されたファッションは「アムラー」と名付けられてジャンル化された。浜崎あゆみもそのファッション等が追随された。ヒカルはファッションリーダーの類ではなく音楽家なので「宇多田ヒカル風」の何かを一括りに出来ればよかったのだが、せいぜい“和風R&B”と呼ぶ程度。それも、前回触れた通り本当に広めたのはMISIAの方である。

という訳で、「宇多田ヒカル風」を極めようとして倉木麻衣が誕生した。似たようなアピアランス、似たような曲調、似たような発声を集めてみた訳だが、そりゃもうただ別物でしかなかった。こちらからすれば、「蚊取線香とエスカルゴってどっちも渦巻いてるから同じものだよね!」と言われているようなものだった。ヒカルに似せるのは、付け焼き刃では、いや、付け焼き刃でなくとも難しいのだ。

それでも倉木麻衣は300万枚売ったのだから勢いって恐ろしい。勿論、"Love Day after Tomorrox"や"Secret Of My Heart"といった佳曲が魅力的だったという大前提があるのだが、それで300万枚は無理だろう。今なら遠慮なく言える。世間は倉木麻衣の1stアルバムを宇多田ヒカルの2ndアルバムとして買っていたのだ。これがなければ、Distanceは、渇望感を煽られてもっと売れていたのかもしれないし、逆に話題性が急激に減じてもっと売れなかったかもしれない。ただ、ヒカルはきっと「中身なんてどうでもいいのかよー。こっちは苦労して作ってんのに。」とご立腹だっただろう。まぁそれも今は昔。どうでもいいと言ってしまえばそれまでだ。

こういう、極端な"フォロワー"を真っ先に生み出してしまったというのは、いい事だったかどうかはわからん。倉木麻衣が世に出る助けになった事は明らかだ、とは言えるかもしれないが、こんな事をしなくても彼女はきっちり今の地位を築けていたんじゃないかという見方も出来る。歴史のifはそんな感じだ。

ただ、ある意味「宇多田ヒカルのものまね」でデビューする手はその時点で潰された。そう考えるとミラクルひかるは本当にミラクルだったなと言いたくなるがそれはちょっと意味が違うか。

もう一方の方、極端に一般性の高い「音楽に携わる事」として齎されたヒカルの影響がどれくらいだったか。この点は未調査である。どこからどう調べていいかもわからない。しかし、「ビートルズがキッカケでバンドを始めた」みたいなパターンと比べたら、その実数はかなり少なかったんじゃないかなという気はしてくる。根拠は無い。それは何故だったのだろうと考える所から次回、かな?

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ヒカルの功績といえば、やはり「後進への影響」も見逃せないのだが、当時の時代背景をもう一度整理しておこう。

「R&B」という単語が一般に広まったのはヒカルの登場以降である。が、何度も指摘してきた通り、音楽ファンは兎も角、ヒカルの事を「ゆうめいじん」「げいのうじん」として認知しているような最大多数の層にとっては「R&B」という単語より「宇多田ヒカル」という語の浸透度が遥かに高かった。したがって、「宇多田ヒカルはR&Bを歌っている」というよりは「宇多田ヒカルが歌っているのはR&Bというジャンルらしい」という解釈の方が多数派だった。これが、いつまで経ってもヒカルがR&Bシンガーと言われ続けた理由である。定義が逆転しているのだからR&Bというジャンルは「宇多田ヒカルが歌っているような歌」でしかなかったのだ。音楽性の話ではなかった。流石に今はもう言われなくなったけど。

それが「言葉の事情」だった訳だが、実際の所はどうだったか。98年当時、例えばFM局にリクエストするような熱心な音楽ファンにとって本当に衝撃的だったのはMISIAの大ブレイクではなかったか。「日本語R&Bで200万枚!?」というインパクト。テレビ露出も少なく、ラジオ等主導のヒットだった点から考えても、あらゆる面でMISIAのブレイクはヒカルの先をいっていた。当時の音楽ファンに対する"ムード作り"という点において、彼女の"出現"は「日本語R&Bもアリなんだ」と思わせた点において、ヒカルより遥かに影響力が大きかったように思われる。

だがしかし、単純に売り出し方が"本格派"だったが故、CDの売上に対して、たとえば地上波テレビや新聞や週刊誌に親しんでいる層には余り浸透していなかった。ヒカルはそこに割って入っていった所が違っている。PVのインパクト(?)や年齢やプロフィールがどこまで強かったかはわからないが、もう単純に曲が受け入れられたのだ。ラジオ発のヒットだったんだから当然の分析なのだが、だからといってそこらへんを総て"ヒカルが切り開いた"という印象は無い。半年ほどのズレとはいえ、MISIA発で音楽ファンに「受け入れ態勢」が出来ていたという解釈を忘れないようにしたい。

つまり、何が言いたかったかというと、ヒカルは、デビュー当時から、熱心な音楽ファンに見初められたというよりは、MISIAのブレイクのあと、「次の日本語R&Bシンガーは誰かいないの!?」というミーハーな期待感が先行してのヒットで、そこに曲の親しみやすさがハマって大爆発に繋がった、というのが当時横目で見ていた者(私)の感想である。

倉木麻衣のブレイクはヒカルの存在無しには有り得なかったが、MISIA無しでは、少なくとも、あのスピードでのヒカルのブレイクは有り得なかったのではないか。実際、("宇多田ヒカル"を定義としない)本来の意味での日本語R&Bの影響力、つまり、「あぁこういうサウンドにすればいいのね」というリスナー側の納得感は、MISIAが最初に広く与えてくれたというのが当時の音楽ファンの実感に近いのだと思う。どう?

ただし。これも最後に付け加えておかなくてはならないのだが、ヒカル自身はMISIAに全く影響を受けていない、という点だ。First Loveアルバムの各楽曲の制作時期を見てもそれは明らかだろう。寧ろヒカルは、学生であった為、限られた時間の制作で地道に仕上げていった為に完全に"出遅れてしまった"感が強い。しかし現実にはそれが急激な大ヒットを呼び起こしたのだから全くわからないものだ。ミーハーな視点や時代の流れはさておいたとして、ヒカルの音楽自体は全くのオリジナルの、イチから作詞作曲した宇多田ヒカルのものであるという所は、こうやって時代が下っても、真実として何ら揺らぐ事は無い。

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