無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今の時代に求められている事は多分、「選択負担軽減」だ。あっちにしようかこっちにしようかといちいち悩むのが煩わしくて堪らない。

それは裏側からみれば、非常な娯楽でもある。レストランのメニューを開きながら「あれにしようかな、これにしようかな」と迷ってる間の方が、実際に食べている時よりも楽しかったりする。少し違うけど、遠足前夜とか旅行計画中とかも似たようなものだ。

恐らく、2つに別れるのだと思う。受動的なコンテンツは出来るだけ選択機会を減らし、能動的なコンテンツでは寧ろ選択肢を増やして楽しませる、と。

例えば、90年代の週刊少年ジャンプは消費者が受動的(漫画を読むだけ)なコンテンツとして最強だった。毎週一冊買えば、今面白いと言われる漫画の半分くらいは読めたのだから。あれもこれもと買う必要は無く「とりあえず毎週月曜になったらジャンプを買っときゃ間違いない」みたいな感じだった。でないと650万部もいかないよね。

00年代にそのジャンプ・スピリットを引き継いだのが掲載作品のひとつに過ぎない「ONE PIECE」だったのが皮肉というか奇跡というか。この15年の「とりあえずワンピのコミックスは買っとくか」感は凄い。でないと400万部いかないって。

この「とりあえず」が大事なのだ。飲み屋に入って「とりあえずビール」と言うのは、疲れて座ってあれこれ選ぶのが面倒だし、まずは何か飲もうよというだけのことで、ここで考えずに選ばれる何かになれたら最強なのだ。


ある意味、「ジャンプ」という漫画の集合体の精神をその中の一作品に過ぎない「ONE PIECE」が継いだように、90年代に花開いた「Jpop」を総括的に体現して継承できる人は、もう今や宇多田ヒカルしか居ないんじゃないかとすら思う。実際、90年代の次々と肥大化する大ヒットのインフレーションの最終段階が宇多田ヒカルだったのだから。まるでドラゴンボールみたいですが。

90年代は、ユーミンの築き上げたミリオン&ダブル・ミリオンの市場からドリカムが300万枚、globeが400万枚、B'zが500万枚という風に(あ、GLAYとかMr.Childrenも居ますよっと)どんどんとインフレしてきてヒカルが700万枚をスコーンと上回っていった。その数字を聞いた時の圧倒的な感覚は、フリーザが「私の戦闘力は53万です」と言い放った時の絶望感に近い。腹心のギニュー隊長でも10万をやっと超える程度だったのに…。

漫画やアニメ見てない人には意味の分からない事を書いてしまった。今はもう超サイヤ人ゴッドがどうのらしいんだけど私よく知らない。来月からテレビアニメ新シリーズ「ドラゴンボール超(スーパー)」だかというのが始まるらしいので宜しく。まぁ私はゆるゆり3期で忙しいのできっと観るのは後回しですけれども。


話が逸れ過ぎた。つまり、90年代をリアルタイムで過ごした30代以上の人間に再び、いや昔以上に「宇多田ヒカル買っときゃ問題ない」と思って貰おう、その土俵で勝負するなら、売り方を複雑にせず、「これ買え!」というシンプルさで消費者の選択負担を軽減しよう、という話だ。つまり、何かPopsが聴きたい、というニーズが日本のどこかで生まれた時に「ほなら宇多田だこれを買え」とスムーズに導けれる雰囲気作りをするのが、ネットワークライフに疲れた現代人には丁度癒やしになるんじゃないかという事だ。

「雰囲気作り」という点では、旧EMIチームは抜群に上手い。例えば、「宇多田ヒカルのうた」アルバム、何となく買ってみたけど思ったより聴かなかったな、という人は居ないだろうか。いやそれは別にいいんだが、発売週あたりに「まぁ買っておくかな」と思わせるタイミングの上手さな。その雰囲気作りの持っていき方がやはり百戦錬磨な気がした。ヒカルが復帰した時にその工の業をどこまで見せてくれるか楽しみだ。なお私は宇多うたアルバムは未だに愛聴盤なのであしからず。

ま、そんな事言っててもヒカルがそういう立場に立ちたいと思っていないんだったら別にそうならなくていいんだけどね。そこは本人次第ですわよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




じゃあヒカルはどうすればいいか、というともう一つの方法、「何もしない」というのがある。

ネット時代になってやれる事が格段に増え選択肢が広がり生き方が多様化している。そういうのに疲れている人も沢山居る筈だ。そういう人たちに対して「これを買え。以上。」とシンプルに言って終われるようなものを提示出来れば特に頼もしいのではないか。

やれマネタイズだマーケティングだソーシャルだコンサルティングだプロモーションだと色んな横文字が並ぶ中、どのレコード会社もあの手この手で売り方を模索し細分化された選択肢の数々を提示している。そういう中で消費者は自分の立ち位置をネットの中でもリアルの中でもしっかり見極めながら「私はこうだからこれを選んで」の連続だ。

はっきり言って面倒くさい。

宇多田ヒカルの新曲が出ました。これを買いなさい。以上。―これだけで済めばどんなに楽か。文脈がどうのコンテクストがどうの(同じだ)といった言い訳は無視して、買って聴いてみて「宇多田はいい歌を歌うねぇ」と思ってもらえればそれでよし。それ以上は何も要らない。

…というのが理想論。ネットワークとシステムとクラスタとコミュニティーに日々悩まされている中、それら総てから外れた所にヒカルがいつも居れば限りないオアシスだ。

ただ、その価値をわかってもらうのはとても難しい。今の時代にネットワークもシステムもクラスタもコミュニティーも使わずにどうやってプロモーションしろというのか。どうやって知ってもらえというのか。ほぼ無理である。

HikaruのTwitterフォロワーが190万人を突破したらしい。確かに、ここで一言呟けばかなりのプロモーションになる。1人の人間から1人の人間にメッセージが届く、というのが190万回ある訳でそれはある意味Hikaruにとって理想的な状況だが、そのメッセージを読んでくれる人はそのうちの何%なのか。更にそれに対して反応する人は何%なのか、全く予想がつかない。更に歌を買って貰うとなるともうどれくらい小さい割合になるのやら。

結局どこまでいっても「雰囲気づくり」は必要なのだ。いくらYoutubeで楽曲フル尺で流していても「聴いてみよう」と思わなければアクセスしようとも思わないしましてや買うまでいくとなると相当だ。いずれもまずは「知ってないとマズいんじゃないの」という雰囲気を個々の周囲に撒き散らす必要がある―

―当然こんな風に考える。そしてすぐにネットワークやシステムやクラスタやコミュニティーを利用し始めるに至るのだ。我々が疲れる面倒くさい方法論への第一歩である。

そうなのだ。「何もしない」のが本当に難しい時代なのだ。売れなくてもいい、というなら話が早いがそれはインディペンデント・レーベルでやるべき話。少なくとも今のヒカルに求めるのは、本人の意思を抜きにして考えてすら酷だろう。

ただ、「ネット疲れ」している人を癒やす方向に行くのは悪くないアイデアだとは思う。初回限定盤と通常盤のどちらを買うべきか考えるのすら面倒くさい、と思ってる人に何かを買わせるというのは、しかし、途轍もなく難しい。それを突破出来るのは結局歌の力しか無い訳で、随分と"分の悪い戦い"を強いられる事になるが、それが出来るのは最早ヒカルくらいしか居ないというのもまた事実な気がしてはいる。さぁどうなるんだろうね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )