無意識日記
宇多田光 word:i_
 



“はやとちり”の歌詞は何故"使い勝手がいい"のかちょっと考えてみる。

まず、明確に誰かに話し掛けている感じが強い歌が珍しい。あなただとか黄身、もとい、君だとかに歌いかけている歌詞でもその相手が目の前に居る感じはあんまりしない。"Making Love"なんかも、相手が誰であるかこの上無くハッキリしているが、どちらかというと"手紙に書き綴って思いを伝えている"のに近い文体・口調である。

これは単純に、歌っている最中に「あなた」からの反応がある事を装丁、違う、想定していないからだ。一方的な独り言なんだな。

"はやとちり"の場合、どこか相手の反応を期待している風がある。『フォローすればいいのかな』『ずるいじゃないかい』『好かれてしまうよ?』『嫌われちゃうよ?』『悪くないんじゃないかな』『随分話が違うじゃないかい』と疑問文系の節が幾つもの並ぶ。リスナーはこの呼び掛けに対して、どこか返事を考えてしまうというか、聞こえないセリフを想像してしまうところがある。

更に、曲の途中で急に態度が変わる。それまでさんざ「私こう思うんだけどどうよどうよ」系のセリフで来ていたのに『責めないで 間違った速度で走ってたんじゃない ただ今回はさ ちょっと歩幅が合わなかっただけ』とやや受けの姿勢が歌われるのだ。ここなんかはリスナーに「ははぁん、あいだでなんか言われたな』とまたも想像させるようなシーンである。

だからまるでこの曲は、見方によっては人が電話をしているのを傍で見ているような雰囲気なのだ。相手の喋っている事は聞こえず、ヒカルの台詞だけでどんな会話をしているのかリスナーが補完していくような。

まぁ、もしかしたら相手のセリフを歌っているのかな?と思わされる場面もある。『勝てないような気がした オマエは強いし泣かない それは君の勘違い』のところだ。唐突なオマエ呼びは話者の変更を告げる―呼称と顔の向きの変化で話者のスイッチを示すのは落語だが、ヒカルはここを歌う時に視線を変えたりは…してなかったと思う。後で確認してみますか。そういやはやとちりってオフィシャルUTUBEにないよね。正式なPVが無いんだから当たり前か。

そういう場面もある、ってことで。

確かに、『理想主義の理論なんてうるさい』と『現実主義者にはわからないだろう』の二つの文は真っ向から対立する気がするので、ここでは話者が別々だと解釈した方がいいのかもしれんが…うーん、わがんね。

歌い手の話者の歌い分けがあるにしろないにしろ、つまり、この歌は明確に相手がそこに居ることを、少なくとも想定はした上で歌詞を組んでいるから、人との会話に使いやすい言い回しやフレーズが集約される事になった。ある意味、宇多田ヒカルのレパートリーの中で最も異端な歌かもしれない。だからこそ照れ隠しにリミックスをアルバムに収録したのかもなぁ全く乙女心は複雑だぜ、なんて風にも思った。三十路超えた今だったらどんな歌い方とミックスにするかな。アイデアだけでもヒカルに訊いてみたいもんである。

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数週間や数ヶ月に一度だけ呟いてまた引っ込む、ってどんな感じなんだろ。普段は呟きはしませんが読むのは読んでますよ、っていうアピールなんだろうか。ニース風サラダっていうのね。ふーん。

ネットから離れた生活を送る贅沢もどこかの時点で満喫したのかな。水を汲みに川まで桶を運んでいく生活を今更送りたくないのと同様に、ネットのない生活を送ってみるのは電気もガスも水道も遮断してキャンプを張るような、まぁ娯楽的要素の強い話にはなるだろう。

元々ヒカル本人はそんなに新しいモノ好きでもない。電子書籍が検討されだした頃も「紙の本がいい」と言い切っていた人だ。気にしない私からすれば「両方使えばいいじゃない」だけだったのだが、今のヒカルは電子書籍を使っているのだろうか。本の手触りや匂いも含めた"読書体験の質"にこだわるなら紙の本の方が言うまでもなく相応しい。そのこだわりっていつまで続くのかな。結局、そういう風にして読みたいと思える本が新しく出版されるかどうかにかかってると思うんだが。

それを言ったら、ヒカルのCDの装丁の味気なさは何だったんだろうか。幾らでもブックレットに凝れた筈なのに、歌詞とクレジットが淡々と載せられているだけ。Single Collection Vol.2で漸く装丁に参加するようになったが、まだまだだろう。しかし確かに、邦楽CDの味気なさはそれが主流だったのであり、ULTRA BLUEの歌詞カードの程度であっても「随分と工夫された歌詞カードだな」と評価をされたのである。

本の重みや手触りや匂いまで含めての読書体験だというのなら、音楽鑑賞のセッティングにも同じかそれ以上にこだわってもよかったはずなのになかなかそういう流れにならなかったのは、つまりヒカルにとって音楽を聴くのはもっと気軽なものであり、ipodに放り込んで後は音を聴くだけ、みたいな風に使うのが標準なのかもしれない。

SCv2で少し潮目が変わったのは、点線を編集した経験も多少影響があったのだろうか。編集長として、フォントや紙質といった部分でこだわりを発揮した。それをそのままCDのジャケット制作の局面でも応用した、と。ずっと読者だった人間が編集長に就き読者視点から装丁を整備したように、音楽制作からいったん離れた状態でいちリスナーとして音楽に接する時間が幾らか確保できたというのなら、次のリリースの体裁でそれが活かされるかもしれない。あっちからもこっちからも見てみる事ってやっぱ大事なんだよねぇ。

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