無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前は、ドラッグで捕まった人のCDをレコード会社が自主回収する話をしたが、これを消費者側からみると、「真面目な人が書いた歌詞だと思っていたから感動出来たのに。もうこの人のCDは買わない。」なんて風になる。こちらはレコード会社とは違い価値判断を他者がとやかく言う話ではないので、余程の影響力のある有名人でない限り「どうぞご自由に」である。

「ドラッグと歌詞の何が関係あるの? そんな事で歌に魅力を感じられなくなる事なんて無いよ。」という意見ももっともだ。確かに、「ドラッグ反対!」とでも歌っていない限りあんまり関係なさそうである。

だがしかし、そうだな、例えば、こちらは全く犯罪とかではないが、あるシンガーソングライターの事を、てっきり異性愛者だと思っていたのに実は同性愛者で、今まで自伝的に書いてきたラブソングも実は同性の恋人との事を歌っていたものだった、とかならどうか。これなら、確かにリスナーの仲で歌詞の解釈に変化が出てきてしまうかもしれない。ある意味叙述トリックの一種であろう。その勘違いに気付いたのを機にファンを辞める人が出てきたとしても、何というのだろう、お気の毒にというか同情心というか、そういう感想を持たれても仕方が無いかな、という気はしてくる。

なお、私個人の話をすると、異性愛者の歌詞だと思ってたのが実は同性愛者の歌だったと後で発覚したようなケースでは逆にテンションが上がってしまう可能性の方が遥かに高い。よりそのライターさんの事を好きになる事はあっても嫌うような事は考え難いな。


ここらへんまではまだまだ微笑ましいんだ。ここから急に話がエグくなる、いやもう抉れてくるので人によってはここで読むのをやめてください。心の弱い人やクレームをしたい人はね。


さて、殺人鬼がアーティストだった場合を想像してみようか。彼なり彼女なりが絵を描いたとしよう。美しい風景画。殺人の気配は微塵もない。言われなければ誰1人として作者が殺人鬼だとわからない位に心の暖まる画風だったりしたら。その絵を貴方は表立って評価出来るだろうか。「絵に罪は無い」といえるだろうか。これはかなり人に依るのではないか。賛否両論になるのもむべなるかな、と。私はこの場合なら「絵に罪は無い」と言い切って絵を評価するだろう。そこまではまぁいい。

ではその殺人画家かんが、死体をモチーフにしたアートを描いてきたらどうだ。「この絵を描く為に人を殺しました。どうしてもその人の死体が必要だったのです。」と言ってきたらどうだろうか。それでも貴方はその絵を、純粋にただ一枚のキャンヴァスに描かれた芸術作品として冷静に評価出来るのだろうか。

ここまで来るとさしもの私も冷静で居る自信が無い。それどころか自分が遺族だったらまず間違い無くその一点モノの油絵を作者もろとも跡形も無く燃やしにいく事だろう。そんな事で絵を描くなんて冗談じゃあない。

しかし、私が遺族でなく、絵の説明として「医学書などをもとに架空の人物を創作して死体の絵を描きました」と嘘をつかれたとしたら、そして、その絵に何らかの芸術性がみられるとしたら、うっかりWebで「なかなかいい絵じゃないか」と発言してしまうかもしれない。そして、その発言が実際の遺族に届いてしまうかもしれない。考えただけでもおぞましい。


恐らく私は作品を文脈と切り離して評価する事に長けている方だと思うのだが、それだとしてもやっぱり文脈を切り離しきれないケースも出てくる訳だ。そして、ほのぼのとした風景画から死体のスケッチまでの間にはグラデーションがある。ここからここまでは許せて、ここから先は許せない、みたいな線はなかなか引けないだろう。多元的にあやふやである。本質的にそういうものなのだ。


以上の思考実験で何が言いたかったかというと、わかりやすさの為に絵の話にしたが、歌を聴かせるのも同じ事だという事だ。今は過去になかった超情報化社会である為、歌を聴いてもらう為のシチュエーション作りからしてコンテンツの、作品の一部として出来るだけ用意しないといけない、そして、シンガーソングライターであるならば、その人のパーソナリティに関する情報の現実の分布状況まで考慮に入れなければいけないのだ。ヒカルの場合はどうすればいいのだろうか、という話からまた次回。

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どこまでをひとつの作品とみなすか、は作り手の意識も受け手の意識も千差万別で、それらが互いに乖離し合っているのが普通ではあるが、それについて自覚的であるか否かは大きな、時として不幸な差異を生もう。

「家に帰るまでが遠足です。」とはよく言ったものだが、寧ろ遠足のピークは『必ず寝不足』になる前夜かもしれない。当日は期待ほどじゃなかったとか、あるでしょう。そういう風に考えると遠足というコンテンツは前日までの準備から無事に帰宅するまでがひとつの消費単位となりえる。

こういうのは人による。前日まで大して期待せず寧ろ憂鬱だったのに行ってみたら案外面白かった、とかいう場合はコンテンツ単位としては当日のみに価値があるだろう。いやいや、前日までの憂鬱との落差あっての高評価なのだからそこも含めるべきだ、という反論もありえる。人それぞれである。

今考えているコンテンツは"歌"についてだが、これも誰がいつどこで歌うかというのが消費単位の評価として重要になってきたりする。オリンピックのNHK番組のテーマソングになったら印象が格段に違う。人気のテレビドラマのクライマックスでかかったBGMは、或いはゲームのラスボス戦のテーマソングは…作られた状況があって楽曲は輝きを増す。

例えば単純に、演歌なんかは前奏で前口上があって「故郷のお母さんを思って歌います、それでは聴いて下さい」と尺ピッタリに歌詞のバックグラウンドを説明してから歌に入ったりするが、これなどは口上とセットで消費単位とみるべきだろう。

兎に角、文脈の置き方でコンテンツの印象はすっかり変わる。であるならば文脈の置き方も含めてひとつのコンテンツだと捉えて批評を加えた方がよい。勿論切り離して考えた方がいいケースも多い。映画館で買ったポップコーンがまずくて食べられたものではなかったとかシートの座り心地が悪かったとかで映画が楽しめなかったからといって映画の評価を下げる訳にはいかない、というのは誰しもわかるだろう。ポップコーンやシートは映画館の責任であって映画の責任ではない。

かといって、現実にはそういった各要素を切り離して評価するのはかなり難しい。今ポップコーンとシートは映画館の責任、と言ったが、厳密にはポップコーンを売った売店の責任であり、更にいえば売店で調理した担当者の責任であり、もしかしたら原材料を育てたトウモロコシ農家の責任かもしれない。いやもしかしたら、食べた人が味覚障害を発症していた可能性も捨て切れない。考え始めるとキリがない。素直に「昨日は楽しめなくってね」で終わらせておけば何の問題もないのだ。そこから踏み込んで批評を加えようとするからおかしなことになる、んだが、今のご時世誰しもが評価を公表する時代だし、寧ろグルメサイトはそれで回っている。批評活動を無視していられる場合ではない。

従って、コンテンツの単位即ち「どこからどこまでが"ひとつの作品"なのか」は事前にある程度周知しておく必要がある、のだが、それ自体を幻惑して楽しませるコンテンツも存在したりして更に話はややこしくなる。「要素を切り分けてどこからどこまでを作品とみなしているか」に対してコンセンサスを事前に取らない事自体がコンテンツのエンターテインメント的重要要素、という自己言及型の例である。ほのぼの4コマのつもりで読み始めたらいつのまにかストーリー漫画になっていた、とかね。予想や前提を裏切る事もまた娯楽になりえるのだ。

そういう事を踏まえた上で、今後どういう風に歌を提供していけばいいのか…という話からまた次回。

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