宇多田ヒカルの音楽性のパースペクティヴは、ジグソーパズルのようなもので、今は向きも場所もわからないひとつひとつのピースが目の前にバラまかれているだけなのかもしれない、と最近思うようになった。
もしそうだとすると、ひとまず今目の前にあるピースたちは組み合わせると1枚の絵になるのだろうか? だから心置きなく人間活動に入れた? 私にはそうは思えない。楽曲のクオリティーとは裏腹に、音楽性のパースペクティヴはまだまだ足りていないように思う。光の物語は未完なのだ。
いや、この「物語」というパラダイム自体が、違うのだ。一時期このblogでも「物語を、物語をくれ」と盛んに吼え立ててみていたが泣き犬の遠吠えに過ぎなかった。負け犬ならまだいいのだが勝負の土俵にすら上がれずペソをかいている意気地なしだ。いやそれは言い過ぎかもしれないが、光に"物語"という時間軸に沿った作品性を求める事自体が間違っていたのだ。
そう、作品性。物語という言葉よりもっと一般性の高いこの言葉。つまりは「ひとまとまりのなにか」、要するに「1」である。作品性とは1なのだ。光がUtaDAの2ndアルバムに「This Is The One」とつけたのはそういう事だったのか、と今頃合点がいっている次第。
私が作品性という言葉を使う時のイメージ、ひとまとまりの何か。もっと言えば名前で呼べるという事だ。だから人は既にそれだけで作品である…という風に作品性という言葉を使う訳だ。「ひとつになりたい」「1になりたい」という願望は人間にとって根源的なものだが、既に1人の人なのに人は「一人前になりたがる」。こどもは人ではないのだろうか。或いは、一人ではないのだろうか。
ここに、ひとつのテーマが立ち上がる。「人は一人ではない」という時、普通であれば「他にも人が居るよ」という事を言う。2人、3人、4人、5人、、、という訳だ。関係ないがラジオのニュースを聞いてると時々「ごにんたいほ」を「誤認逮捕」でなく「5人逮捕」と一瞬聞き間違える事がある。汚職事件とお食事券みたいなもんか。それはさておき。
もうひとつの「一人ではない」とは「一人前ではない」という意味だ。1人、2人、3人、、、ならば1より大きい数の話だがこれは「1未満」の話。人として"ひとりだち"できるとは何なのか。
これは、現代人には難しい問題だ。何故なら、社会に出て働いて自立するという事は100%他者と協力して生きるという意味だからだ。世の中には幾らでも本当に自活して生きている人は居そうだが、だからといって現代人の生き方は真に自活している人間と較べて"劣って"いるのだろうか。
これがヒトのジレンマである。社会に役に立てば立つほど専門性は高くなり、人として偏ってくる。社会が高度に発達すればする程、専門職は先鋭化する。事実、今の都会に暮らしている人は洗濯板も使わないし調理器具だって要らない。洗濯も炊事も出来なくても生きていけるのだ。そして、それが推奨されているのである。何も出来なければ出来ないほど、洗濯機も乾燥機も食洗機も電子レンジも売れる。それで社会は活性化する。山奥でひとりで自活している人とどちらが"豊かな生き方"なのかは意見が別れるだろうが、生きていく為には社会を高度化した方が確率が高いのは事実だ。山奥で破傷風にでも罹ったらどうするんだ。現代人には医者が居る…
…って話が無駄に長くなった。要は「Wild Lifeと人間活動と作品性」について語りたいのだ。以下次回。
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