無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ややこしいエントリーが続いているが、何となく宇多田ヒカルの「音楽性の変遷や全貌」について、理解は出来ないまでも語る為の言葉が手に入るのではないかという感触が淡くある。掴めないがそっちを向いて見る事は出来るんじゃないか、という「希望」が。

従前から指摘している事だが、ヒカルの曲というのは1曲々々が新ジャンルを開拓していて、そして既にその楽曲がそのジャンルの最高傑作となっている。Exodus'04を聴いた時、「フォーキーでオリエンタルなメロディーとティンバーランドのリズムを組み合わせてこうも巧く嵌るなんて」と驚いたものだが、以後光が同様のアプローチを用いたかというと、そういうのは1曲もない。travelingは「J-popのスタンダードナンバーとしての普遍性」をあれだけ備えているのに二番煎じや焼き直しや続編は結局作っていない。あの曲はあれっきりである。

例外的に"Part2"と明示した楽曲があって。"Automatic Part2"という名前を付けたのだが意味は"再デビューにあたっての自己紹介"として日本でのデビュー曲のタイトルを引用しただけである。比較論でいえばまだFYIの方がAutomaticに近いが、何の注釈もなく「FYIってAutomaticに似てるよね」って話し掛けられたら俺だって「えー?」って言う。あクマでも比較論であって、明確に似ている箇所がある訳ではない。

ただ、曲が出来上がっていく過程を途中で見せてくれた事が一度だけあって。それがFINAL DISTANCEである。まずDISTANCEがアルバム(タイトル)曲として発表され、後にFINAL DISTANCEをリーダートラックとするEPが発表された。しかし、これは論が別れるだろう。FINAL DISTANCEが完成形であるとみるなら確かにDISTANCEは道の途中、未完成形になるだろうが、DISTANCEの方が好きな人は、FINAL DISTANCEはあクマで"後の祭り"であって、本祭の後の後夜祭、エピローグ、後日談でしかないかもしれない。確かに、両者甲乙つけがたい程にそれぞれ魅力がある。

逆に、行き過ぎている位の例もあって。Flavor Of Lifeである。何しろこちらはBallad Versionの方が先に発表されている。DISTANCEより先にFINAL DISTANCEを聞かされたようなもんだ。当初はBallad Versionだけを聴いて「なんでこここういうアレンジなんだろう?」と不可解に思ったものだが、それは後日オリジナルの方を聴かせて貰う事で腑に落ちた。そういう事だったのね、と。

これと似た例として。PassionとSanctuaryがある。元々英語詞の方が先に完成していて後に苦心惨憺日本語を何とか嵌め込んで新しいパートを最後にくっつけて、その形態でまずリリースされた。その後3年間この曲を何百回聴いたかわからないが、Sanctuaryを初めて聴いた時はそれでも涙したものだ。全パート身に刻み込んでるつもりだったのにこんなにも鮮やかに感動が生まれ変わるのかと自らの涙に驚いたものだ。これもひょっとしたら、Sanctuaryという完成形と、その"後の祭り"のPassionという関係性の解釈が必要なのかもしれない。

こうしてみると、光の音楽は――いや音楽性は、と言った方がいいか――、その成長の過程をなかなか見せてくれない。試行錯誤の途中で作品をリリースするという事をしないのである。寧ろ、今みたように完成形から更に先を見せてから戻る事までしてしまう位。これは、強烈なプロ意識の発露でもあるだろうし、楽想達への深い深い愛情表現でもあるだろう。どちらでも解釈可能だが…時間が来てしまったので続きはまた後日。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




オリジナリティの話はあの調子じゃ長くなるからバサッと端折ろう。端的にいえば、"辿れる"とは、過去に向けての探求もそうだが未来に向けても同様に適用できるという事だ。つまり、今居る場所から次にどこかに行けるという事だ。

ここを整理しておかないとなかなか難しい。クリエイティブというと、常に何か"新しい"ものを送り出すイメージが強い一方、オリジナルといった場合は確立したスタイルを押し進めるような感じが強い。個性と言い換えてもいい。となると、クリエイティブである事とオリジナルである事はなかなかに相容れない、となりがちである。

オリジナルを"過去だけでなく未来へも辿れる人"だと解釈すると、クリエイティブとオリジナルはほぼ同義になる。要は"今ココ"から物事を前に押し進める力があるかどうかだ。この時参照されるのは辿ってきた過去であり、そこから"前に"進むとは辿ってきた過去のいずれの地点とも異なる必要があって…


…端折っても長いな。打ち切ろう。

ヒカルの難しいのはそこである。素性がわかりにくいのだ。初期の歌のスタイルは結構わかりやすかった。あぁ今のトーンはアリーヤっぽいね、その節回しはメアリーJだな、とかいうとっかかりからヒカルの個性を推し量る事が出来た。そういった影響源と比較して、そのスタイルを日本語の歌に持ち込んだ所が新しかった。何もない所から生まれたのではなく、あれやこれやのルーツが合流して前に進んだ感じはあった。この感触が私のいうオリジナルである。

それはまだいい。しかし、そこから後作曲家としての能力を発揮していくにつれ、その"オリジナリティ"はどんどん人を惑わすようになった。普通、我が道を行くタイプの人はそこに独自の世界を持っていて、そこに足を踏み入れるかどうかで大分違うのだが、ヒカルの場合Popsとして成立する事が念頭にある為どこまでも開いた感覚が残る。と同時に孤独感や疎外感を歌う歌詞を書いたりもする。

Popsのサウンドにオリジナリティは不要だ。というか、Popsというのは様々なオリジナルのサウンドの根を辿る事をせず、出来上がった表層だけを引用する為、出来たサウンドから"前に"進む事が出来ない。実をもいで食べても次の種を蒔く事が出来ないのだ。そこに種がある事も、それが次の実を結ぶ源になる事も知らないから。だからPopsはそこから未来へ辿れないという意味でオリジナルになりにくい。

ヒカルの場合は何なのだろう。表層だけみれば、節操なく様々なサウンドに手を出しているようにみえる。毎度言うように、SCv2はフォーク、ハードロック、ダンスポップ、シャンソン&ジャズ、ピアノバラードとジャンル分けするならバラバラだ。こうやって文章で紹介すれば、オリジナルでない日本のPopsらしい音となるのだが、幾ら何でもこの音をオリジナルと呼ばないのは違う気がする。創造性と独自性があり質が高い。何の文句もつけようもない。しかしでは、これが"辿れる"音かというと難しい。前にも述べたようにヒカルの音楽に時系列をつけるのは音楽性の変遷ではなく質の上昇だからだ…

…隘路に陥ったまま、次回に持ち越し。やれやれ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )