無意識日記
宇多田光 word:i_
 



どうぶつの森とはまた予想外なツイートを。あたしゃやった事ありまへんがな。

いや予想外ってそりゃ次のツイートの中身を予想するなんて不可能ではある。でも例えば当Blogなんかは比較的何を話題として取り上げるか予想し易いだろう。ヒカルがツイートすればそれに突っ込むし、時事ネタを枕にするのも恒例なので山中氏ノーベル賞受賞の話題なんかは来るだろうなとココを開いてみた人も…いや、居るかな。どうだろう。

兎に角、ここでは書き出しの内容は比較的予想が立ちやすい。予想はしてなくても、読んでみて「いつも通りのリズムの導入部だな」と読み手が思う事は多そうだ。しかし、それがどんな結論を導くかは極めて見極めが難しい。大抵、いや殆ど全員が、何の話をその日にするか予想がつかない筈である。それもその筈、書き始めの時点で私自身が「今日はどうなるのだろう」と思いながら書き始めるのだ。予め構成が出来上がった状態で書き始める事も多々あるが、かなりの割合で何もアイデアのない状態から書き始めている。そういう時の方が書いていて面白がれるから、ついついそうしてしまう傾向が強い。

そういう場合は兎に角何でもいいから書き始める。ぶっちゃけ、毎日今日の天気の話から始めてもいつのまにかヒカルの話になるだろう。私はそういう奴なのだ。

肝心なのは、内容を予め吟味する事ではなく、書き始める事なのだ。これは、文章だけでなく作曲面でもいえる。作曲家は必ずメロディーの癖、指癖を持っていて、何も考えずに書き始めたり弾き始めたりすると、必ずといっていいほど馴染みの音階の運びから入る。しかし、そこから様々な方向に拡散していくのである。チャック・ベリーなんかは何曲も"ジョニー・B・グッド"そっくりのイントロを持つ曲を書いているが、なんだかんだでそれぞれ別の曲になっている。あのイントロは彼のギターを弾く時の指癖みたいなものなのだろう。取り敢えずそこから入って、ではどうでしょうと曲が出来ていくのだ。それがオリジナリティというものである。

我らが宇多田ヒカルの楽曲には、他の強烈な作曲家達に較べると比較的そういう"指癖"が少ない印象である。モーツァルトの曲は初めて聴いた曲でもすぐモーツァルトとわかるような強烈な個性があるがヒカルの曲を例えば最初にインストで聴いたとしたら誰の曲かを当てるのは恐ろしく難しい。我々がヒカルの曲をヒカルの曲だとわかるのはヒカルがあの声で歌っているからだ。Stay Goldのピアノのイントロを聴いただけで「宇多田ヒカルだ!」とわかった人が居れば是非教えて欲しい。あんた天才。

そういう意味では、ヒカルはどうやって曲を作っているんだろうかと不思議になってくる。"指癖"の部分は、完成品においては削られているのだろうか。確かに、例えばこのblogの各エントリーの後半だけを抜き出して並べたら「何でこんな話になってるの」という不思議度合いが増すに違いない。ヒカルの楽曲でも、似たような事があるのだろうか。

いや勿論、ヒカル自身にも傾向というか癖のようなもながあって。リスクとPoLはサビのコード進行が同じらしい。しかし、それは言われてみればそうかもねという程度で、リスクとPoLが似た曲だと初聴時に思った人は初っ端からコード進行をチェックしていた人だけなんでないかとついつい思ってしまう。そこらへんは楽器をやってるかやってないかで違いがあるのかもわからないが。

この間指摘した通り、ヒカルの楽曲は音楽性の変化が事前には全く予想できない。その上、今回見たように事後にもそれがヒカルの曲だとわかるような形跡が少ない。まさに魔法のように名曲が次から次へとランダムに色々な所に突然出現しているかのようだ。ここまでピュアに予測不能・判別不可能なミュージシャンも珍しい。ただひとつ、もしヒカル以外の人が新曲を歌ってリリースした時にそれがヒカルの曲であると確信させてくれる要素が存在する。それは、「日本語の歌でここまでクォリティーの高い作品を作れるのは宇多田ヒカルしか居ない」という事実だ。日本語の歌で、それが図抜けた曲ならそれはヒカルの作曲なのだ。事後において、この点だけは自信をもって言わせてもらえる。やれやれ、本当に何というアーティストなのであろうか。呆れてまた聴いていたくなるよ。

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照實さんによると怪我が多いのは親子揃っての事だそうで。やれやれ。ある程度行動派だと怪我のリスクは当然ある。人間の身体には自然治癒能力が備わっているので"原状回復"もある程度可能なのだからその範囲ではどんどん怪我をすればいい。

しかし、これがスポーツ選手ならそうも言っていられない。長年鍛え上げてきた特殊な肉体であるが故に"元通り"までの道のりが長く険しい。しかも時間的な制約が大きい。そうそう怪我はしていられないのだ。有望な選手が怪我で選手生活を棒に振った例は数限りない。

歌手の場合はというと難しい。確かに身体を酷使する職業ではあるが、踊りもしない人が足を傷めたからといってすぐにどうという訳でもない。アクシデントはなかなかに避け難い所もある。しかし、自身の身体のケアを大切に行えていると言えるかどうかは別であろう。

「自分自身を大切に」とは光がWild Lifeで残した強烈な置き手紙だ。それは一面、自分自身に言い聞かせているようでもあった。今回の件でそれが疎かになっていると指摘するのは少し違う。自分自身の身体を大切に扱う事と自分自身の人生を大切にする事が常に一致する訳ではない。多少のリスクをとってもチャレンジすべき事は幾らでもあるだろう。怪我をするなという事ではなく、した後のケアは抜かりなくというのが、昨日の話の趣旨であった。

熊野古道を歩く事が光にとってどれだけ意義深い事であったかはよくわからない。本人が言うように、その道程自体が実り多いものであったのならそれで十分だろう。熊野が三重と和歌山のどこらへんを指すのかもわからない状態からもうここまで来ているのはいい感じだな、と思う。ファンとのツイートのやりとりが発端になったのも微笑ましい。人間活動を通じて得るものは着実に光の人生を豊かにしているといえそうだ。

ただ、こうやってその過程を100万フォロワーと共有しているのはやはり特異だ。旅行の顛末をツイートする事自体は誰しも行っている事なのでそれはいいとしても、それ単体でメディアと呼べるような読者の数はどう受け止めるべきか。この非対称性への対処自体はお手のものだろうし、ひょっとしたら別アカウントも持っているかもしれない。が、人間活動中にもこうやってメディアレベルで話題を提供している様は、つまり光はこれも私の人生の、生活の一部なんだとナチュラルに受け止めているという事だろうか。それはそれで、宇多田光さんの人生に一枚噛んでいる気がしてむず痒く嬉しいのだが、少し不思議な感慨が胸を掠めるこの感じ、諸行無常というのかもしれないな。

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