無意識日記
宇多田光 word:i_
 



光からツイートのリプライが来て嬉しいです。舞い上がっております。舞い上がらないように自重するなんてどだい無理な話なので今宵は遠慮なく舞い上がっておきます。嬉しい。

今回のツイートでわかった事は、光がなぁんにも変わっていない、という事。そんなのは毎日のツイートを見れば明らか過ぎる位明らかなんだけどね。

もっと言えば、10代の頃にきゃぴきゃび飛び跳ねていた頃と、可愛らしさの質がまるで変わっていない。もしかしたら、『寄る年並には勝てぬ』と言った本人も勘違いしているかもしれないが、あの若い頃からの悪戯っぽく目をクリクリさせる所は本当にそのまんまだ。昔みたいに跳んだり跳ねたりきゃぴきゃびしたりはしないけど、そうやって伝わってきた魅力と同じ魅力を、今はちょっと違うやり方で表現しているだけなんだ。なんか、今の輝きのせいでノスタルジックな気分になるなんて、こっちの方こそちょっと歳をとったかな。ここでBGMがWINGS。完璧である。光はなぁんにも変わっていない。変わっていくのは僕たちの方かもしれない。いつまで愛させてくれるのだろう。


これだけ長い間ファンをやっていると、ヒカルに興味を失っていくファンを多数見る事になる。いや、正確には目の前から居なくなるので「多数見なくなる事になる」になるのか。ややこし。

それを特に咎めようとは思えない。そりゃそうだ。残念に思うかというと、でも、それも実は難しい。それが自然な事なのだ、と受け入れる度に、どこかでどうにかならなかったのかと…思わなくなる。何がしたかったのかわからなくなる。特に悩む事もない。寂しい訳でもない。ただ時が流れていくだけだ。そう言う以外にない。

それでも光は変わらない。本当の光のように時間を感じていないのだろうか。生物としては確実におばあちゃんになっていくだろうに、多分これはこうなったらこのままなのだろう。光の当たる角度が変われば変わる横顔のように年齢という年輪はその都度形を変えながら積み重なっていくのだが、光を当てられた顔自体はひたすらずっとそこにあっただけだ。何やら、宇宙を感じる話である。

回文の話も出来やしないや。

光が変わらないように、僕たちも変わらず居る事が出来るだろうか。そもそもそうしたいかどうか。難しい。

眠い。

ただ、変わらない事は難しくても、今こうして私がそう感じたように、変わらない光に気づいてあげる事は、出来るかもしれない。ずっとそうしていられたら、どんなによいことか。わからない。

切ない。

今日は美味しいものを食べよう。いつも食べてるけど。何がいいかな。冷めたエビフライの尻尾の欠片かな、Bioの裏蓋かな。やっぱり納豆かな。何でもいいかな。平和に食べられている事に感謝。戦争や飢餓に直面しているひとたちは、豊かな私たちを恨むのだろうか。不公平かもしれないが、公平とは人間の発明なのだから当たり前だ。

だからって、ねぇ。


何も考えられなくなるな。

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作品というひとまとまり、もっといえば作品とは単位に成り得るものであり他者との相互作用によって成り立つものでそこでは社会性、流通性といったものが問題になってくる。

卑近な例を出そう。新世紀エヴァンゲリオンは当初その無茶苦茶な制作体制も話題になった。スケジュールが破綻し、テレビ版の第25話、26話は"あんなこと"になってしまった。今ニコニコ生放送で今一度テレビ版の放送が始まっているから気になる人はチェックしてみて欲しい。で、映画もまたすったもんだの末というドタバタ感。作品の内容にしろ制作体制にしろ"青い"感じが特色であった。

しかし新劇版になってこういった評価は一変。相変わらずギリギリまで作業はしているらしいが総てのスケジュールが順調に進んでいる。随分と"大人"になったなぁという印象を受ける。

こうなってくると周りものっかりやすい。テレビ放映時からは考えられなかったような大手たちが宣伝に携わるようになり、知名度はグンと広がった。作品体制の健全さと作品内容の健全さ(と言い切れるかどうかは今後の展開次第だが)がリンクし合いながら、作品の流通性と社会性を高めていったのである。

宇多田ヒカルの場合はその点非常にプロフェッショナルに進んできている。残り数時間というギリギリで間に合わせてきたとはいえ締め切りをオーバーし発売日をずらした事は一度もない。あるのは、体調不良によるコンサートやテレビ出演やプロモーション活動の中止である。長くやっていればこういった突発的な"キャンセル"は幾らでもある。確かに周辺に迷惑をかけたかもわからないが、それは"計画が破綻する"といったレベルではない。宇多田ヒカルはアーティストであると共に社会人としてもキッチリ振る舞ってきている。

人間活動とは、そちらとは逆に、そういった流通性や社会性を、個としてのあり方を蔑ろにしてまで保証してきた事の補償期間、とみる事も出来る。社会生活とは対局にある"野生生活"風味。一個の生命体としての自然さを取り戻す作業。

で、前回の話の続きである。社会的存在としての"宇多田ヒカル"の流通度は桁外れで、ツイートで熊の子どう?いや違う、熊野古道の名前を出す出さない程度の事でも悩まなければいけないレベルなのだが、昔指摘したように、そういった"表向き"が変わらないように維持する為に、人間的な、ひとつの生命としての鼓動をリフレッシュしているのだとすれば、まるでそれは、同じストーリーをなぞっているようでいて全く違う方向に進みつつある新劇版新世紀ヱヴァンゲリヲンのように、いつか違いが表に出てくるものなのかもしれない…

…って結局EVAの名前出しちゃってるな。触れない、って言ったのに。次回軌道修正しないと。果たして出来るか!?

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