無意識日記
宇多田光 word:i_
 



いきなりSWVの曲歌われてもわからんわいっ。アルファベットの半角フォントには"~"も"♪"もない訳で、文中で歌うんならダブルクォーテーションをつけるなりしないと判別がつかない。最後に"dooo!"と書いてあるので辛うじて歌い上げてるのかな、という感じ。にしても"90年代の"ってわざわざ書いたのは今年の復活アルバムが気に入らなかったりしたのだろうか。あたしゃ聴いてないからわからんわ。

ヒカルが90年代のR&Bにハマったのは10歳過ぎてから、寧ろ日本の学校に通っている頃だったように思う。小学校の頃はBon JoviやらMetallicaやら、或いは父のコレクションと思しきBeatlesやLed Zeppelinを聴いていた、という順序だったような。父は70年にNYでEL&Pを見ているというのだからキャリアが違う。相当コレクションも充実していた事だろう。

という認識に立てば、ヒカルのR&B好きはどれ位NYに根差したものだったのかの見極めが必要になる。日本では90年代のR&Bというのはいまいち浸透しなかったイメージがある。世代でいえばヒップホップ/R&Bと呼ばれていた世代。それはファッションでありカルチャーであった為、地元の人間でないとピンと来ないものだった。90年代の日本では特に中盤、洋楽の売上が好調だったが、日本で売れたR&Bシンガーの皆さんはそのジャンルだからというよりはどちらかといえば「アメリカ発のスーパースター」という扱いだったように思う。まぁいつものことっちゃいつものことだが。

いつものことにとどまらなかったのは、その音楽を踏襲した日本のシンガーのレベルが非常に高かった為だ。98年のMisiaの大ヒットのインパクトは強烈だった。それすら前座として霞ませてしまう程ヒカルの登場は狂気の沙汰だったのだが、裏を返せばヒカルは"やや遅れてきた"歌手でもあった。

何より年齢的に、というより時間的に足りていなかった。98年でもまだ15歳だ。これ以上早くデビューしろったって無理がある。結果的に90年代R&Bの後を追う形になったが、それを"NYからのルーツに根差した"と評するのは上述したように考慮の余地がある。ヒカルは5年生の時、10歳前後で一旦日本の学校に通い始めている。そのあとの詳しい推移がわかればいいのだが。米国でのレコーディングと日本でのレコーディングではその時々で当地に住んでいたと考えるのが自然だが、果たしてどこまでのシャトル生活だったのか。それによってヒカルの"ニューヨーカーぶり"を推し量る必要があるだろう。

とはいっても、SWVを後追いでなくリアルタイムで聴いていたなら話は早い。彼女たちがデビューした頃はヒカルはまだNYの小学校に通っていたはずである。ただ、"R&Bに目覚めた"のが94,95年頃だったという話とは若干ズレる。ラジオで名前位は聴いた事があったけど後から聴き直してみたらハマった、位が現実的な落としどころだと思うがどうだろうかなぁ。

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誰が鬼門や(笑)

歳を取ると「人生短いなぁ」とよく思うようになる。先月のUNISONICのLIVEで"Life is too short to cry, long enough to try"と叫びながらいい歌詞だなぁとしみじみ思っていた。つまり、トライするチャレンジ精神を失い人生を嘆き悲しむようになると年寄りなのだ。トライできている間は、若い。この時初めて「年齢なんてタダの数字」と嘯けるのである。

Keep Tryin'. もう6年以上も前の曲だが、ヒカルにはまだまだトライしていく精神が備わっている、のハズだ。ただ、今はそれに他者を巻き込む力がない。表舞台から姿を消しているのだから当然だわな。帰ってきた時に今度のヒカルはどんな"トライ"をしてくるか。ちょっとそれについて考えてみたい。

全米進出、世界進出がまぁいちばんのトライだろうが、ヒカルの本来の実力からすれば当たり前の事なので、前々から言っているように精神的肉体的疲弊度に較べて割に合わない印象が強い。全米1位をとっても私なんかもう「そりゃそうだろ」としか言わない。もうあんまりステータスも有難味もない。マスコミがノーベル賞並みに騒いでくれてCDが売れたらまぁいいかな、とは思うかもしれないが。グラミー賞とかも、あれだな、どんなスピーチをしてくれるかには興味あるかな。

もっと音楽的な事かなぁ。ロックバンドを結成するとか…ヒカルと同レベルのアイデアを出せて責任と負担を分担できる人が居なければソロアーティストとバックバンドにしかならず、今とあんまり変わらない。ジャスバンドなら少しは面白そうだが。いやまだフルオーケストラとの共演ってテも残ってるな。Be My Lastでちょっとやったけれども。

うーん、音楽面での"トライ"って、セッティングをすればするほどわざとらしくなってヒカルの自由を制限していく方向にしか進まない気がする。迷走はしないが、寧ろ歩く道の幅を狭めるという感が強い。なるべく自由に、できるだけいきあたりばったりに進むのが、ヒカルの音楽作りには合っている。

となると、ヒカルの"音楽上のトライ"とは、事前にはそれが何であるか察知できない何かであるという結論になる。結実して初めて、それが何にトライしていたかが明らかになる、やっぱりそんな順番なのか。

私がいちばんのトライだと思うのは極めて王道的な事だ。

「どこまで"いい曲"を書き続けられるか」

この1点にのみトライし続けて頂きたい。まとまりのない音楽的変遷も、全米デビューの世間的評価も、体調不良による離脱も離婚もあれもこれも何もかも、結局「次に出た曲が素晴らしかった」という事実によって肯定されてきたのである。果物でいえば「実がなった」、「実った」からこそ人生を肯定できてきたのだ。いやまぢで。あクマで私の中でのヒカルライフに関しての話ですがね。トライして実る。英語でいえばtry and bear。なんだクマじゃないか。そういうことだったのか。クマは人生の肯定そのものなのだ。あらあら。

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つまりEVAQの主題歌の最大のライバルは序破の主題歌だという事を言いたかった訳なんだが。

流行の移り変わりの激しい日本のアニメの世界で、EVAは寧ろトレンドを動かす方のポジションだ。時代性を意識して他を追従しようとしてもうまくはいかない。泰然自若と構えて、それでいて新しい何かを提示しなければならない。

その意味において、今までのバージョンのBeautiful Worldを"古くさせる"事はEVAQ自身の力によるもの、と考えるのが理想である。

あからさまに言えば、あそこまでの作品にとって主題歌というのはそこまで重要なポジションでもない。名曲である事よりもまず世界観を壊さない事が求められる。

とはいえ、BWPbAMが受け入れられたのは序でBWが定着していた事がとても大きい。序と破の対比において、そして、どこまで計算していたかはわからないが破のエンディングの流れにおいて、BWPbAMは秀逸であった。この序と破のエンディングという2つの曲に対する思い入れと思い出を背負って次の"3曲目"が登場する。そうなってくると、EVAQがどこまで序破の世界を"打ち破って"くるかが分かれ目となる。

流れるような展開をみせるならやはりBWの別バージョンが妥当だろう。価値観がひっくり返るような話の展開があるなら…あれ、それでもBWの方が面白いかも。連作全体に繋がりを持たせる為には、"同じ歌でありながら違う曲"というのは新劇版に相応しい。序で殆ど旧劇版と同じかと見せておいて破に至る頃にはまるで違う物語に転化していった。同様に、主題歌の方も同じ歌でありながらまるで違うサウンド、まるで異なるフィーリングを提示してみせた。となれば、更に"違う曲"で話を進めていくのがスムーズだろう。

新しい曲を使ってくるなら、BWと併用がいいだろう。既存曲に"嵐の女神"というEVAにピッタリの曲がある、とは何度も指摘してきた。いや使うなら4作目でもいいとは思うんですけどね。

心配なのは、旧劇版との"対決"で残テが登場する場合、多分ギャグみたいな雰囲気になる事で…。BWと並べるとどうしてもアニソンとしての雰囲気が異なる。余程うまくやらないと"共演"は難しそうだ。

いずれにせよこうやって妄想していられる時間もあと1ヶ月あるかないか。公開までに新情報が出ればまたそれに沿って話の矛先を変えなければならない。向こうの"釣り糸"に引っかからないよう、疑心暗鬼で臨まねば…。(ぶつぶつ)

前作から3年、前々作から5年か…。あと、一息だな。こっからがやたら長いんだけどなっ。

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殆ど聴いていないので詳しい事は知らないが、ここ10年位の邦楽Popsってえらく歌詞重視になっているように思える。90年代に色々なサウンドをみんなで試してみたけれど、結局日本人は歌詞が大事であり、音楽性はあんまり重要ではなかった…みたいな構図が勝手に浮かぶ。

「結局日本人のPopsはフォークになる」というのが昔からの私の持論で、結局ロックもダンスもヒップホップもみんなフォーク化した。GLAYなんて歌詞だけ取り出したら完全にフォークだった。素朴なメロディーに共感を得られる歌詞を載せる、いや、そういう歌詞に合うメロディーをつけていったというべきか。

最も異端だったのは小室哲哉である。彼は徹底してサウンド重視であった。歌詞も語感最優先。Can You Celebrate?なんてまともな英語の感覚があったらタイトルになんか出来っこない。楽曲の構造もシンプルなフックラインを2つ3つ組み合わせただけの、メロディーの覚え易いものだった。90年代の隆盛の象徴を異端と呼ぶのは不可思議かもしれないが、すぐには誰も真似出来なかったからその方向性のファンは総て彼が独占したのだ。彼の転落後、日本はそのままアイドルと歌謡曲とフォークの組み合わせという80年代までの"この国の伝統"に則っていわば"先祖帰り"を果たした。異端は結局異端に過ぎず、文化として根を下ろす事はなかった。

アニメソングもそういった"日本の伝統の一部"である。取り上げられる題材が幅広くなるにつれアニソン歌手がアイドル化していき声優もまたアイドルとして奉られるようになっていったのはアニメという文化がこの国の"伝統意識"の中から純粋培養されていったからに他ならない。普通のPopsと異なるのは、流行が外圧に左右されず、純粋にアニメの流行の推移からくる要請に対して応える形で発展してきた事だろう。そこには、時代毎の烙印が必ず押されている。

ヒカルがEVAに起用されたのも、如何に残テや魂ルフが神憑り的な支持を尚集め続けていたとしても、それはやはり90年代の歌なのである。21世紀に新劇版としてフレッシュに打って出る、しかもメジャー資本、メジャー代理店を巻き込んでの展開であるから00年代をよく知る人間である必要があった。

ここで問題になってくるのは…という話は長くなるのでまたの機会に持ち越す事にしてすっ飛ばすと、何が言いたいかといえば目まぐるしいアニメの流行のサイクルの中ではBeautiful Worldですら既に"古臭い"のかもしれないのだ。もう5年も前の曲である。これを2012年の秋に流すとなれば、00年代の空気を入れ替えねばならない。楽曲が古臭いというより、序で流れた楽曲であった事、破で流れた楽曲であった事それ自体が既に確立された事実として立ちはだかっているのである。いわば、自らの手で歴史を形作ってきた事で歌を過去のものにする力がはたらいた、という時代の牽引者たるEVA独特の事情である。大御所としての存在感を発揮しつつ、現在のアニメの流れに大きく影響を与えられる。なんだか宇多田ヒカル自身ともシンクロしそうな話だが、そういったハードルを今回どう越えてきたか、その点について興味が尽きないのである。

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EVAQ公開まであと1ヶ月。どこまで情報が出るかはわからないが、ファンは臨戦体勢に入りつつあるみたいだ。臨戦ったって何と戦っているのかわからないが兎に角気合いだけは入っている。

勿論宇多田ヒカルファンもかなりそわそわし始めている。前回は封切日までどんな歌が来るか全くわからなかったがヒカルが歌っている事だけは事前に伝わってきていた。残り1ヶ月、せめてそれだけでも教えて欲しい。プロジェクトとして更に巨大化したEVAなだけに箝口令も徹底したものになっているだろう。報道関係者は誓約書にサインしているかもしれない。たかが動く絵に音をあてがって2時間垂れ流すだけの為にこれだけの人間が躍起になっているのは滑稽な風景だが、平和とは不自然である為にいつもどこかおかしみを湛えているものだ。故にいつも笑顔が絶えない。特に新劇版EVAの最大のテーマはエンターテインメント性の高さだろうから、見終わった後に難しい顔をする必要のない作品を作ってきていてくれるだろう。私みたいな人種は難しい顔をしているかもしれないがまぁそれはわざとだし自由だし。そうやって平和は人工的に作り出していくものです。闘争が自然というのも生物という不自然を前提としているのでややこしいといえばややこしいんだが…。

今回も、当日までは殆ど主題歌に関する情報は流れないだろう。前週と前々週に日本テレビでEVA序破を立て続けに放送するらしいが、元々テレビ東京のアニメだったような。それはまぁいいか。そして11月16日金曜日の破のオンエア時にQ本編の映像が6分38秒流されるらしい。ピアノ曲のフルバージョンが6分38秒の長さでした、というのだけは勘弁して欲しいがそういえば新宿バルト9の壁に制作途上の映像が流れた事もあったっけ。旧劇版から見ている身とすればEVAがまともに公開日に完成品を差し出せるという事態自体に隔世の感を感じる。こういう"社会的にまとも"になりつつあるアニメ制作体制と、人間活動を通して普通の大人としての常識を身につけつつある(今までだってなかった訳じゃないと思うんだがまぁいいや)宇多田ヒカルという組み合わせも面白い。最初の序の時にBeautiful Worldを提供したのが2007年夏。あれから5年。もうそんなに経つのかという感じだが、それ
だけの歳月の間の蓄積をどこまで作品に反映させられているか。主題歌ともども公開が待ち遠しいですよ。

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真心  


魔法少女まどか☆マギカが幾ら感動大作だと言っても、なんだかんだで私からいちばん涙を搾り取ったのは宇多田ヒカルのPrisoner Of Love EPとUtaDAのSanctuaryである。この事実は揺るぎない。しかし、物語と違って音楽に対して泣くほど感動する機会や人というのは驚くほど少ない。いや、少し違うな、居るには居るのだが、ある音楽に対して大きく反応する人の割合が非常に小さいというべきか。皆、"心の1曲"はあるにはあるものの、それが随分とひとりひとり違うのである。

特にPopsの場合、誰かを死ぬ程感動させるより、多くの人々に広く浅く愛してもらった方がいい。この曲だったらCD買ってもいいかな、ダウンロードしてもいいかな、と思わせるラインに達する人が一定以上になってくると何となく「この曲くらいは知っておかないと」という圧力が生まれてくる。誰も激烈に押していたりしなくても、だ。そしてそうやって生まれたステイタスが今度はアーティストの社会的価値を押し上げる。面白いもんである。

ヒカルの場合、倉木麻衣がデビューして300万枚を売った時に「私じゃなくてもいいんじゃん」という感じにはなったと思う。具体的なコメントはなかったけど。宇多田ヒカルというブランドは当時余りにも強すぎで"代替品"に対しての需要すら喚起してしまった。倉木麻衣がどこまで何を似せていたかは知らないが、音楽的には全くではないにしろかなり別エリアのアーティストである。フォロワーというのとも違う。しかし、パクリ騒動を巻き起こせた時点で勝ちであった。ヒカルの当時持っていた社会的圧力を見事に利用した。話はそこまで広がるのである。

しかし勿論、その"空気"を醸成したのは業界側の確信にあった。識者全員が(ほぼ、ではない。本当に全員である。)ヒカルを高く評価したのだからそんな空気が作れない訳がない。「凄いね。自分で作ってるんだったらね。」と言った人が居たとか居ないとか。まぁそれ位に鉄板で盛り上がった。


しかし。はたと立ち止まる。当時ヒカルの歌を聴いて"心から感動した人"って実際どれ位居たの? 「欧米人並の発音と歌唱力」「バラードのFirst Love、これは売れる」―みんなそう言っていた。で、そう言っていた"あなた自身"はどうなのさ。今どこで何してるの? ヒカルはそこから12年間、楽曲のクォリティーを上げ続けた。余り"売れる曲"にばかりこだわった作風にはならなかったが、真性にして神聖な集中力の結晶が数々生まれ落ちてきた。最初にハシャいでた人たちは、「米国人に伍する歌唱」とか人と較べる事ばかり言っていた気がする。12年のうち後半の素晴らしさには、余り興味がなかったのかな。

ヒカルはそういう風には考えていないだろう。寧ろ、ジュースやお菓子を買うような感覚で曲を気軽に聴いて欲しいと思っているハズだ。ただ、ちょっとそちら側に寄りすぎて、今残っているファンたちの心を甘く見ていた節があった。2年前の今ごろ公開されたGoodbye HappinessのPVの感想を耳にした時のヒカルの反応を思い出そう。感動されるなんて思ってもみなかったと。不思議な事を言うな、と思ったがそれだけ残っているのはコアなファンばかりになっていたという事だ。あれから2年、更に今残っているのは相当にコアな奴らばかりである。いつになるかわからないが、次に作る歌は心を真っ直ぐ込めて作っても大丈夫なんでないかな。

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@utadahikaru: RT @Yam_eye: 最近お気に入りのジョーク:「大人になったらアーティストになりたい」「両方は無理だよ」

もう次のツイートが来ているが、昨日の印象的なヒカルによるリツイートを。結構重要である。

この含意は「大人になりたいのならアーティストなんて目指すな」或いは「アーティストのままで居たかったらこどものままでいろ」といった所だ。そりゃすぐさま『マネージャーなしじゃ何も出来ないおばさんになりたくない』発言を思い出す。ヒカルは人間活動を通じて「大人なアーティスト」を目指していると言っても過言ではない。現在進行形にマッチしたジョーク。冗談は常識の共有から始まるが、その常識を突き崩す事が出来るか。今はその叛逆の物語の真っ最中である。

しかしそれ以上に面白かったのは照實さんのツイートだ。

@u3music: I love it.「子供の頃に戻りたい」「そりゃ無理な注文だよ」 teruzane RT @Yam_eye 最近お気に入りのジョーク:「大人になったらアーティストになりたい」「両方は無理だよ」

@u3music: 読み直して考えてみると、大人のアーティストは不在っていうジョークなのかな。teruzane RT @Yam_eye 最近お気に入りのジョーク:「大人になったらアーティストになりたい」「両方は無理だよ」

まぁただの誤読だったというオチだが、最初に読み間違えた時は余りにいいタイミングで笑ってしまった。まさにこのツイートが、ヒカルの最も身近に「こどものままの(ままでいたい)ミュージシャン」が居る事を示してくれたのだから。いや照實さんの場合は「マネージャーなしじゃ何も」のマネージャーにあたるので寧ろ周りよりずっと大人な振る舞いが出来る人だ。つまり、精神的な話である。いつまでも少年のように瑞々しい心を持ち続ける事がアーティスティックである事には大切である、という件のジョークに対するポジティブな実例が照實さんなのである。或いは別に反例と言ってもいい。アーティスティックな心を保ちながらマネージャーとして大人な行いが出来る事を既に父親が証明してくれている、と読んでもいい。いずれにせよ今回のこの親子のやりとりは機知に富みながらも微笑ましい。

それにしても、何の注釈もつけずただリツイートした、ってのはちょっと趣深いな。どこで見つけてきたのかもわかんないし。まぁ、次のツイートがもう来てるのであまり気にしない事にしますかね。いや深い意味はないですよ。

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EVAは90年代アニメの象徴のひとつとなると共に、00年代に於いても新劇版でその存在感を知らしめた。そして10年代に入ってその勢いは衰えるどころか増すばかりだ。90年代は、まさかここまでメジャーに社会現象化するとは思ってもみなかった。

そのメジャー化の最たる例が宇多田ヒカルの主題歌起用である。Beautiful Worldを皆が耳にする前の反応の数々は、どメジャー中のどメジャー、ネームバリューはそこらへんの金メダリスト程度ではお話にならない、という(悲しいかなそれが現実である)超弩級の知名度に対する嫌悪感であったと言っていい。日向者が何しにきた、みたいな雰囲気が2007年時点でもまだまだくすぶっていたのは事実である。

勿論ファンは「来たか」と思った訳だ。既にその時点でキングダムハーツ等の実績もあった。あの立ち位置のアニメ映画に主題歌をつけるのは初めてだったが「ヒカルがハズすわけがない」という絶大な信頼を寄せていた。いや、不安感を大きく上回る期待感に包まれていたというべきか。

今や、新劇版によってEVAの知名度も飛躍的に上がり、宇多田ヒカルと較べて名前に威力があるのはどちらかと訊かれれば私でもEVAではないかと答えそうである。単純な知名度だとヒカルだろうが、商業的規模となると(90年代の時点で既にそうだったが更に)大きくEVAが上回っている。私がここでこう言っていいかどうかはわからないが、極論すれば「宇多田ヒカルがEVAの主題歌を歌わせて貰っている」状況ですら、ある。

勿論EVAの関係者は微塵もそんな事は思っていないだろう。旧劇版のテーマソングであった「残酷な天使のテーゼ」は2012年の今でもカラオケの部門別1位を獲得してしまうNo.1アニメソングである。そんな"国歌の次に歌われている"名曲のアトガマを引き受けてくれたばかりかあんな四方八方から大絶賛を浴びる楽曲を作って歌ってくれた相手に感謝こそすれ尊大な態度を取ろうだなんて発想すらない。今回もプロフェッショナルなアティテュードで対応してくれている事だろう。

寧ろ「歌わせてもらってる」といちばん強く感じてきたのはヒカル自身な訳で。今回もオファーがあったとすれば断る道理はない。歌っているに決まっている。

ただ、あれだけ名作と誉れ高き破のテーマ曲はリミックスだった。しかもヒカルは殆ど関わっていない。ここをどう解釈すべきかが難しい。そして今は人間活動中だ。変な言い方だが、断るなら今しかない。幾層もの状況が折り重なって「歌っているに決まっている」という確信を押し潰そうとしてきている。正直、何が何だかさっぱりわからない。

Beautiful Worldは序破のみならず新劇版EVA全体のテーマソングである。この曲の歌詞の全貌を理解するには新劇版がまるごと完結させられねばならない、と私は序の頃から呟いてきた。ここでBeautiful Worldの灯を途切れさせる訳にはいかないのである。僕らは、この曲の本当の美しさを未だ知らないのだから。

いやでもなぁ…(以下無限ループ)

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「魔法少女まどか☆マギカ」を絶賛し、"数百年語り継がれる"とまで言っておきながらこの作品を"10年に1作の傑作"という程度にしか私が言わない、言えないのは何故なのか。20年とか50年でもいいじゃないかと思う所だが、そう言わざるを得ない状況が、そうさせてくれる作品が我々にはある。そう、「新世紀エヴァンゲリオン」だ。今はヱヴァンゲリヲンだが。

EVAの影響力は計り知れない。あの文芸大作映画「涼宮ハルヒの消失」を生んだ涼宮ハルヒシリーズですら、EVAのフォロワーのひとつに過ぎない。ラノベだけど。当のまどか☆マギカも、思春期の主人公がなるならないで逡巡するという物語の基本構造からしてEVAの文脈に則ったものだ。勿論更にその源流は機動戦士ガンダムに遡れ、更にその前は…と続いていくのだが、EVAが物語の原型を形作る記念碑的作品である事は間違いない。この偉大な作品の存在が念頭にあるから、「魔法少女まどか☆マギカ」を"10年に1作"程度にしか形容できないのである。

勿論EVA自身も"数百年語り継がれる"可能性を持った作品なのだ。今の日本のアニメのトップの作品群は伝説的なものばかりである。文豪達の作品が教科書に載るように、彼らの作品もまた歴史に名を刻むだろう。

ただ、まどか☆マギカが恐ろしい完成度を誇るのと異なり、EVAはまだまだ未完成の作品だ。どちらが優れた作品か、なんて議論は両者が生むどでかい感動に比べれば些細な事だが、まどか☆マギカの存在が、アニメファンにとってEVAの新作公開をよりスリリングなものにしている側面も少しばかりあるだろう。今のEVA王者としてだけではなく挑戦者としても評価される立場にあるのだ。

その歴史的作品のエンディングを2回連続で任されているのが宇多田ヒカルである。特にこのEVAという作品では"うた"というものが重要な位置を占めるだけにその役割は非常に重い。大方の予想通りヒカルは3回連続になりそうである。公開1ヶ月前にEVAネイルアートを披露しておきながら今回は関係ありませんでしたでは余りに…まぁそれはそれで面白いか。

シンプルに考えれば、箝口令が敷かれている為おおっぴらには言えないが、"公然の秘密"としてギリギリの所でアピールしている、という風に取るのが自然だろう。これで他の人だったらその人可哀想過ぎるよ。唯一皆が納得するのは旧劇版の復活だろうが、それは作品的には間違っている気がする。挿入歌の中に旧劇版を盛り込み、エンディングは新劇版で、という体裁なら有り得るだろう。いずれにせよここまで引っ張っておいてヒカルの曲が関わっていなかったら詐欺である。また当日まで秘匿かもしれないが、あと1ヶ月、その日が来るのを心待ちにしておこう。

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劇場版「魔法少女まどか☆マギカ」、先週の前編に引き続き後編も見てきたよ。内容はテレビ版の総集編という事で物語上の改変は殆どなく寧ろ細かいネタバレを気にするのは何度も観てるマニアの方、という不思議な状況だが殆どのマニアはこの週末に観ただろうし観れてないマニアは週末に休みが取れない程に忙しいんだろうからこんなBlog読んでる暇ないだろう…とは思うもののネタバレなしでいくかやっぱ。

一応、私はテレビ版を何度も観ていて脚本・ストーリーはほぼ完全に頭に入っていて、今劇場で総集編を観たからって別に新しい感動なんてないだろう、前編を先週観た時もやや涙腺が緩んだがそれは総集編という感慨深さから来るものだろうな、と後編を観るまではタカを括っていた。何度も観た人が「ボロ泣きした」とか書いていても、いやいや、何回おんなじストーリー観てると思っとんねん、幾ら何でもそんな事ないわ、年とって涙脆くなってんのちゃうか、と半分バカにしていた。

甘かった。バカなのは私の方でした。私ってホントばか。わけがわからないよ。次にどんな場面が来るか、誰がどんな台詞を言うか知り尽くしていたというのに上映時間109分のうち半分以上の時間帯涙が止まらなかった。なんちゅうスジ作るんや虚淵は。何度観ても凄い。いや、何度も観てるから更にその凄味を深く味わう事が出来るようになったと言うべきか。テレビ版で初めて観た時より心を動かされるってどういう事なの。

劇場版において、物語の改変は一切と言っていい程なかったが、作画・音楽・声優の演技は一割増し位に強化されていた。特に5.1chで聴くサウンドの臨場感は素晴らしく、これを味わう為だけでも劇場に足を運ぶ価値がある。

作画のパワーアップも力が入っている。テレビ版、BD/DVD版とステップアップしてのこの劇場版、技術的な前進も特筆モノだが、それ以上に、何と言うのだろう、作画自体に宿る心みたいなもんにグッときた。恐らく、これは私の想像だが、テレビ版の時よりもスタッフの士気が更に遥かに高かったのではないか。今、自分の描いている場面は、この歴史的傑作のあの場面なんだ、という感慨が気合いとなって絵に乗り移っているような、そんな異様な執念みたいなものを沢山の場面で感じた、ように思う。

その点は声優陣も同様だったように思う。今私の演じているこの場面は、物語全体の中のこの位置にあるエピソードで、この登場人物はここまでにこれだけの思いを重ねて今この台詞を言っているんだ、というキャラクターと脚本と場面に対する深い理解が、演技の力の入り具合に大きく拍車を掛けていたように思う。特に悠木碧と斎藤千和のご両人、テメーらは酷すぎる。あんたらがただ声を出しただけでこちらは落涙に咽ぶより他なかったではないか。キャラクターへの愛着を声に託し切った見事な演技でした。

作画にしろ演技にしろ、改変の方向性自体は賛否があると思われる。確かに、これらのアレンジがベストなのかどうかは私もわからない。ただ、この総集編に宿った思いの強さ、その力の入り具合は感じ取れる筈だ。いやはや、凄かった。

恐らく、この「魔法少女まどか☆マギカ」は、イギリスでいえば「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」のような、国民誰もがその台詞を日常の中で引用するような、数百年語り継がれる作品となるだろう。演劇になったりアニメリメイクされたりもしていくだろう。それ位に「物語の原型」として生き残れる強さを持った作品だ。となると、脚本家の虚淵玄はシェイクスピア以来の天才劇作家という事になりそうだ。彼の新作テレビシリーズ「サイコパス」も期待大ですね。

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週末に関西でオフ会があって、話題に出したのが「Web上でのスピード感の違い」だった。TwitterやLINEやFacebookを使っている今の世代と、BBSやBlogを使っていた世代では、極端に言えば生活習慣自体が異なる。その差に戸惑うケースが増えていたのだろう。

これが由々しいのは、もしかしたらWebにあまり顔を出さなくなった人の中には、別に宇多田ヒカルに対して興味が薄れてきたのでも何でもなくて、ただ単に新しくなっていくWebのコミュニケーション・システムと肌が合わなくなっていっただけ、という人も多いかもしれないからだ。ヒカルへの興味関心など水物だし、特に今は表立った活動をしていないのだから他に顔が移るのは健全だと思うが、コミュニケーション・ツールの違いが理由というのはなかなかに寂しい。といってこれは是正できるもんでもない。難しい。

旧システムとの連携がどこまで上手くいくかも鍵になるだろう。私の使っているはてなDiary(目次にリンクは張ってあるのだが見つけるのはなかなかに難しい)には、「前日のツイート」をいちエントリーとして自動更新してくれるサービスがある。フレンズタイムラインの流れを追い切れなかったりした場合に読み直してもらえたり、わざわざblogに飛んでもらう手間が省けたりなどメリットもある。同じようなシステムとしてもっとメジャーなTwilogも便利だろう。Twitterのスピード感を緩和する方策はまだまだニーズがあるとみる。

このような状況下だと、ミュージシャンの方も用いるシステムの選択と更新には余程注意が必要だ。システムの流れを見誤ると、それだけでファン層が入れ替わってしまう恐れがあるからだ。自分のファンベースがどこらへんにあるか見極めないと、例えば今ならTwitterメインで行くべきかFacebook主導でいくべきかといった基本的な判断すらできない。

ヒカルの場合は思い切りTwitterメインで行く道を選んだ。いや自主的に選択したというよりはやっとみたら肌に合ってたという感じの経緯ではあるが。今のところかなり上手くいっていると言ってよさそうだ。しかし、それで疎遠になっていったかもしれないファンベースについても、手遅れとはいえ何か方法論があったらなぁ、と思う。シンプルでよい。またHeart Stationの時のようにラジオ局主体のプロモーションを展開するとか、そんなんでいいと思う。Twitterのタイムラインは追い切れないけど通勤時はFMを掛けている、なんて人もまだまだ居るだろう。商業活動であれば費用対効果も考えなければならないが、音楽自体が老若男女向けであるのなら、コミュニケーションシステムもまた各世代に目配りのあるものを採用していって欲しいものだ。

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ややこしいエントリーが続いているが、何となく宇多田ヒカルの「音楽性の変遷や全貌」について、理解は出来ないまでも語る為の言葉が手に入るのではないかという感触が淡くある。掴めないがそっちを向いて見る事は出来るんじゃないか、という「希望」が。

従前から指摘している事だが、ヒカルの曲というのは1曲々々が新ジャンルを開拓していて、そして既にその楽曲がそのジャンルの最高傑作となっている。Exodus'04を聴いた時、「フォーキーでオリエンタルなメロディーとティンバーランドのリズムを組み合わせてこうも巧く嵌るなんて」と驚いたものだが、以後光が同様のアプローチを用いたかというと、そういうのは1曲もない。travelingは「J-popのスタンダードナンバーとしての普遍性」をあれだけ備えているのに二番煎じや焼き直しや続編は結局作っていない。あの曲はあれっきりである。

例外的に"Part2"と明示した楽曲があって。"Automatic Part2"という名前を付けたのだが意味は"再デビューにあたっての自己紹介"として日本でのデビュー曲のタイトルを引用しただけである。比較論でいえばまだFYIの方がAutomaticに近いが、何の注釈もなく「FYIってAutomaticに似てるよね」って話し掛けられたら俺だって「えー?」って言う。あクマでも比較論であって、明確に似ている箇所がある訳ではない。

ただ、曲が出来上がっていく過程を途中で見せてくれた事が一度だけあって。それがFINAL DISTANCEである。まずDISTANCEがアルバム(タイトル)曲として発表され、後にFINAL DISTANCEをリーダートラックとするEPが発表された。しかし、これは論が別れるだろう。FINAL DISTANCEが完成形であるとみるなら確かにDISTANCEは道の途中、未完成形になるだろうが、DISTANCEの方が好きな人は、FINAL DISTANCEはあクマで"後の祭り"であって、本祭の後の後夜祭、エピローグ、後日談でしかないかもしれない。確かに、両者甲乙つけがたい程にそれぞれ魅力がある。

逆に、行き過ぎている位の例もあって。Flavor Of Lifeである。何しろこちらはBallad Versionの方が先に発表されている。DISTANCEより先にFINAL DISTANCEを聞かされたようなもんだ。当初はBallad Versionだけを聴いて「なんでこここういうアレンジなんだろう?」と不可解に思ったものだが、それは後日オリジナルの方を聴かせて貰う事で腑に落ちた。そういう事だったのね、と。

これと似た例として。PassionとSanctuaryがある。元々英語詞の方が先に完成していて後に苦心惨憺日本語を何とか嵌め込んで新しいパートを最後にくっつけて、その形態でまずリリースされた。その後3年間この曲を何百回聴いたかわからないが、Sanctuaryを初めて聴いた時はそれでも涙したものだ。全パート身に刻み込んでるつもりだったのにこんなにも鮮やかに感動が生まれ変わるのかと自らの涙に驚いたものだ。これもひょっとしたら、Sanctuaryという完成形と、その"後の祭り"のPassionという関係性の解釈が必要なのかもしれない。

こうしてみると、光の音楽は――いや音楽性は、と言った方がいいか――、その成長の過程をなかなか見せてくれない。試行錯誤の途中で作品をリリースするという事をしないのである。寧ろ、今みたように完成形から更に先を見せてから戻る事までしてしまう位。これは、強烈なプロ意識の発露でもあるだろうし、楽想達への深い深い愛情表現でもあるだろう。どちらでも解釈可能だが…時間が来てしまったので続きはまた後日。

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オリジナリティの話はあの調子じゃ長くなるからバサッと端折ろう。端的にいえば、"辿れる"とは、過去に向けての探求もそうだが未来に向けても同様に適用できるという事だ。つまり、今居る場所から次にどこかに行けるという事だ。

ここを整理しておかないとなかなか難しい。クリエイティブというと、常に何か"新しい"ものを送り出すイメージが強い一方、オリジナルといった場合は確立したスタイルを押し進めるような感じが強い。個性と言い換えてもいい。となると、クリエイティブである事とオリジナルである事はなかなかに相容れない、となりがちである。

オリジナルを"過去だけでなく未来へも辿れる人"だと解釈すると、クリエイティブとオリジナルはほぼ同義になる。要は"今ココ"から物事を前に押し進める力があるかどうかだ。この時参照されるのは辿ってきた過去であり、そこから"前に"進むとは辿ってきた過去のいずれの地点とも異なる必要があって…


…端折っても長いな。打ち切ろう。

ヒカルの難しいのはそこである。素性がわかりにくいのだ。初期の歌のスタイルは結構わかりやすかった。あぁ今のトーンはアリーヤっぽいね、その節回しはメアリーJだな、とかいうとっかかりからヒカルの個性を推し量る事が出来た。そういった影響源と比較して、そのスタイルを日本語の歌に持ち込んだ所が新しかった。何もない所から生まれたのではなく、あれやこれやのルーツが合流して前に進んだ感じはあった。この感触が私のいうオリジナルである。

それはまだいい。しかし、そこから後作曲家としての能力を発揮していくにつれ、その"オリジナリティ"はどんどん人を惑わすようになった。普通、我が道を行くタイプの人はそこに独自の世界を持っていて、そこに足を踏み入れるかどうかで大分違うのだが、ヒカルの場合Popsとして成立する事が念頭にある為どこまでも開いた感覚が残る。と同時に孤独感や疎外感を歌う歌詞を書いたりもする。

Popsのサウンドにオリジナリティは不要だ。というか、Popsというのは様々なオリジナルのサウンドの根を辿る事をせず、出来上がった表層だけを引用する為、出来たサウンドから"前に"進む事が出来ない。実をもいで食べても次の種を蒔く事が出来ないのだ。そこに種がある事も、それが次の実を結ぶ源になる事も知らないから。だからPopsはそこから未来へ辿れないという意味でオリジナルになりにくい。

ヒカルの場合は何なのだろう。表層だけみれば、節操なく様々なサウンドに手を出しているようにみえる。毎度言うように、SCv2はフォーク、ハードロック、ダンスポップ、シャンソン&ジャズ、ピアノバラードとジャンル分けするならバラバラだ。こうやって文章で紹介すれば、オリジナルでない日本のPopsらしい音となるのだが、幾ら何でもこの音をオリジナルと呼ばないのは違う気がする。創造性と独自性があり質が高い。何の文句もつけようもない。しかしでは、これが"辿れる"音かというと難しい。前にも述べたようにヒカルの音楽に時系列をつけるのは音楽性の変遷ではなく質の上昇だからだ…

…隘路に陥ったまま、次回に持ち越し。やれやれ。

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「オリジナリティ」という概念が広く誤解されている。いや概念自体が輸入ものなのだからそんなもんか。今カタカナで書いたもんな。これを「独自性」みたいな日本語に置き換えても何かピンと来ない。

最も広く行き渡っているのが「最早全くのオリジナルな作品なんてない」といった文言だ。これだけ文化の蓄積された世界では何かを作れば必ず何かに似てしまう事への"言い訳"として広く使われているが、これほど"オリジナル"という言葉を誤解した表現はない。事実は全く逆で、山のように文化が蓄積されればされる程オリジナルな作品は生まれ易くなるのだ。

そもそも、何故誤解が生まれるかといえば"オリジナル"という言葉のオリジンを確かめていないからだ。Originality/Originalの語幹は今言ったOrigin、和英辞書を引けば「発端/起源/原因/素性/生まれ/発生」とある。要は「辿っていった先」の事である。一言でいえば「根っこ」だ。即ち、オリジナルであるという事は、今あるものから辿っていった根っこの部分、という意味が元々なのだ。

さて、ここからが問題である。世の中に、何の前触れもなく生まれたものといえば、我々の知る限りこの宇宙自身しかない。他のあらゆるもの総て、即ちあらゆるもの総てには必ず由来がある。根っこは確かに発端だが、元々は種から伸びたものだ。種は実や花からやってきた。実や花は…とこれは延々ビッグバンまで続いてゆく。総てが、だ。となると、オリジナルという概念は、どこか行き着く場所というよりは、"根を辿る"という動的な過程そのものにあるといえるのではないだろうか。

私が「オリジナリティは誤解されている」と断じるのは、こういう思想的背景があるからだ。つまり、オリジナルとは"辿れるもの"だという認識である。寧ろ、必ず何かに似ていなければならない。似ているという事は、総てが同じという訳ではない、という意味であるから必ずそこには差異がある。そのせめぎ合いこそオリジナリティだ。素性のわからないものは逆にオリジナルを主張出来ないとすらいえる。

極端に考えてみよう。例えば今私が「がりにゅはゃっんうぴらごぞらひ」と書いてみるとしよう。私は今新しい言葉を作った。既存のどの単語にも似ていないだろう。これはオリジナルな"作品"なのだ…と主張しても、私を含め総ての人が呆れるだけだろう。そこに何か意味が込められていなければ、そもそも作品として成立しない。それは確かに、何にも似ていないという意味で"独自性はある"とは言えるかもしれないが、何の意味もない。そして意味とは他の存在との相互参照性なので、それを有するには何らかの他存在との繋がりが必要である。つまり、"辿る"事が出来なければならないのだ。

全くの思考実験として、"本当に何にも似ていない"上にそれでも何らかの"作品性"を有する存在を考えてみよう。恐らく、殆どの人はそれが何であるかを評価できない。真に独自な作品はそれが出現した時点では誰も価値がわからないのだ。経験を通じて我々が愚かだったと悟った時に、漸くその意味を理解する。気がつけば周りは既に模倣品だらけ…恐らく、そういった状況になっているだろう。そして、その歴史を振り返った時に「真の芸術は大衆の理解を得られないものだ」と中二病が湧いて出て口々に「がりにゅはゃっんうぴらごぞらひ」と唱えるのである。それもまた風物詩。



あら、話が長くなってるな。こりゃ次回もまるごとまくらさんになりそうですわ…。

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そうか、宇多田家はNYからハワイ旅行に行った事があるのか。NY東京間を行き来する生活の場合、ハワイ旅行って「ぶらり途中下車の旅」みたいな感覚になるのかな。それにしても飛行機と時差が当たり前の生活って未だによく想像が出来ない。でも、ホノルル公演の時にMCでは別にその事には触れていなかったかな。確かに、ハワイに来るのは初めてとも言ってなかったし…いや半年前にプロモーションで来てたんだっけか。

僅か2,3年前の話なのだが、もう随分と昔のように感じる。一方、この間スティーヴ・ジョブスの一周忌ときいて「もう1年経ったのか」と驚いた自分が居る。この時間の流れの感じ方の落差は不思議といえば不思議だし、当たり前と思えば当たり前だ。光に関しては、あれやこれやの記憶がずらずらと引き出されるので、過去の事を振り返る時に間に沢山の景色が広がる。一方で、ジョブスの場合、この1年で彼の事について考えた時間など皆無だった。"ジョブス"というキーワードで導かれる最初の記憶が「この間亡くなった事」だったので、その記憶の引き出し方からすればジョブスが亡くなったのは私にとって「ついさっき」の出来事にしかならない。

つまり、時間の流れが早いとか遅いとかいう感覚は、その時想起した記憶の総量に比例するのだ。過去のある地点について考えた時に時間的にその間に挟まれている様々を一緒に想起するか否かで「あっという間」になるか「随分昔」になるかが変わる。もっと短いスパンでも、時間の流れが遅く感じられるのは時計を見た回数が多い時だ。「時刻」というキーワードから想起されるエピソードはそのものズバリ「時計を見る」というイベントだからだ。楽しい時があっという間に過ぎるのは、その間に一度も時計を見る事がなかったからだ。ジョブスに関しては私はこの1年間彼についての時計を見なかった。光に関しては毎日時計を見ながら生活している。その差が過去の分厚さの差なのである。

だから、もしかしたら時計を見ない人生はあっという間に過ぎていくのかな。ずっと見ている人は人生が長いのかな。それだけの差で感じ方は変わる。どちらの人生が楽しいかは一概には決められそうもない。

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