無意識日記
宇多田光 word:i_
 



毎度諄々と書いている事だが、ヒカルの曲は1曲々々が独自のジャンルの楽曲で、かつそのジャンルの最高傑作をいの一番に出してきてしまい、それで話が終わってしまう。その為、「あの名曲の二番煎じ」といったダウングレード版の楽曲や、「あの名曲を更にパワーアップさせたような」といったアップグレード版の楽曲が、ない。普通は結構あるものなのだ、というか、ミュージシャンは大抵そんな感じである。そういった形容が出来るからこその個性だし、そういった楽曲を時系列順に並べる事で落ち目になったり上げ潮になったりといった人生の浮き沈みがどんぶらこっこと描かれるのだ。前と似た曲を(劣化版であれ成長版であれ)書いてくれれば、こちらは物語を語りやすくなるのだ。

ところが、ヒカルにはそういう曲がない。昔述べたように、新しい楽曲をそれより以前の楽曲の特徴を引用して描写しようとすると、必ず3曲以上必要となる。それ位煩雑になってくるのなら、結局「その新曲風」でいいじゃないかという心境になる。普通travelingみたいな曲書いて大ヒットさせたらtraveling part 2 書きたくなるんだけどな…Automatic Part 2 は書いたけど似ても似つかぬ曲だったし…。

という訳でヒカルの音楽性を元にストーリーを語るのは至難の業だ。ならば一体、普通のミュージシャンになら付与できる物語性をヒカルはどこらへんに内包しているのか。それは、曲作りの過程そのものである。何しろ、そこにひとつのジャンルが生まれ、一個々々のアイデアがどんどんと精錬されていってやがてひとつの楽曲として纏まっていき、最終的にはそのジャンルにおける最高傑作を産み落とす。その過程は千差万別だ。ぼくはくまのように、クマチャンと戯れていた時にただ何気なく口遊んだメロディーがそのままヒカルが自身で最高傑作と称する楽曲になったような例もあれば、For Youのように2年間歌詞が出てくるまで待った曲もある。こういったそれやこれやがドラマティックでなくて何だと言うのか。ヒカルの曲作りは、それ自体が、ある時は壮大な、ある時は小気味よい物語そのものであるに違いない。

しかし。作曲家というのは自身の作曲過程を必ずしも披露したがるものではない。寧ろ、途中の姿はひた隠しに隠したいと願うのではないか。中途半端な状態で人の目に曝すのはイヤで仕方がないのだ。例えるなら、14歳の愛娘を嫁に出すようなものだ。ちょっと待ってくれまだ準備は出来ていないまだ大人になろうとしているところなんだ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、そんなもんだと思うのだ。

ならば恐らく、ヒカルはなかなか自身の作曲過程を、断片的に事後に話す事はあれど、リアルタイムで今こんな事になってるんだけどなどとは絶対に言わないだろう。もしそれを逐一報告してくれていたら、それはそれはとても面白い物語になると思う。いちばん叶わぬ夢だが…私が追い求める「宇多田光の物語」は、きっとそこにこそある筈なのだ。

その物語をリアルタイムで共有するには、ヒカルと楽曲を共作するしかないだろう。やるしかないな。では、さて、どこから始めたらいいものか…。

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先週末はヘヴィミュージックフェスティバルLoud Park 2012に行っていた。例年にも増して大好評だったようだが、恒例となる位年を重ねてきていると、ただ目の前のプレイを楽しむだけではなく、以前のパフォーマンスと比較してどう、という楽しみ方も加わってくる。中には最初に見てから10年以上、下手をしたら20年近く経っているバンドも居る訳で、その「成長と変化」に触れる度に感慨深くなる。

アーティストに関する"物語"とはそういった時系列順に沿った「成長と変化」の記録である。その間に、バンドであればメンバーが入れ替わったり、プロデューサーの交替、レコード会社の移籍、バンド名変更なんてのもある。今目の前で演奏されている音の"由来"を、そういった物語の要素から探る事が出来るのだ。ヴォーカリストであれば、前任者と現任者であそこの歌い回しが違うな、それは何故なら…と今のサウンドの理由づけが為されていくのである。プロなんだからそういった文脈性なしで今鳴ってる音だけで楽しませて貰わないと困る訳だが、長年観てる方からするとそういった面に加えて文脈を読む楽しみが増える訳だ。

そうなってくると、時として"現在の未熟さ"にも魅力を感じるようになってくる。例えば今回のLoud ParkはDragonforceが大絶賛を浴びている筈だが、初来日時は学芸会バンドと揶揄される程に稚拙だった。私はといえば当時から彼らの事を高く買っていたので「彼らは必ず巧くなる」と確信を持って疑わなかった。私と同じように考えた人たちが以後も彼らをサポートし続ける事で彼らは順調に成長し、今や同じジャンルの他を圧倒する程の存在となったのだ。感慨深い。

つまり、幾らプロといえどもその時点での未熟さを論らうばかりでなく、その成長の余白まで見極めて支援していかないと面白い事にはならないという教訓である。その余白を愛でる事で長年の間の成長や変化も楽しめるというものだ。アーティストに物語性を求めるとはそういう事である。

翻って宇多田ヒカルにはそういう面が実に乏しい。成長や変化がなかったという方の意味ではない。日本デビュー作にして頂点に立ち所属レコード会社はおろかレコード業界全体を支える立場に立ってしまったからだ。これでは「成長の余白を愛でる」だなんて悠長な事は言ってられない。年度末の決算を支える為に今すぐ目の前で結果を出さなければいけない。現場のスタッフレベルでは寧ろ「まだこんなに若いのに」という意識はあったかもしれないがヒカル自身が誰よりもプロフェッショナルであった為その「毎回完成品を」という要求に対して真っ向から挑む事になっていったのだった。続く。

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