哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現実と幻覚

2009年03月23日 | x9私はここにいる

Gustave_moreau__la_toilette

その人が現実と思って行動している世界が、その人にとっての現実です。浦島太郎にとっては竜宮城が現実。しかし、浜に帰ってきた浦島さんにとっては、煙を浴びた後の白髪の自分が現実、となります。竜宮城というアインシュタイン的空間が日本近海の海底にあって、そこでは時間の進行が遅いのかもしれない。玉手箱の煙は老化を一気にすすめるバイオ新薬かもしれない。浦島氏の経験が現実であるとすれば、そういう珍奇な、あるいは神秘的な理論がありうる一方、私たち常識的な人間がこのお伽噺を聞くときは、竜宮城は現実ではなくて浦島氏の幻覚でしょう、と思うわけです。

いったい、現実と幻覚とはどう違うのか? 目の前に幻覚を見るとき、それは現実としか思えない。ほっぺたをつねってみて痛ければ、これは幻覚ではなくて現実だ。まあ、それでも、痛さもまた幻覚だと言ってしまえば、それもそうです。どこまでも、現実と幻覚は区別がつかないということになってしまう。浦島さんがひとりだけで竜宮城に行ったというのではなく、歌島さんや牛島さんや上島さんと一緒に団体で竜宮城に招待されたと全員が証言している場合、四人が同じ幻覚を見たのだというのは無理があるでしょう。団体の全員が証言してくれたというのが、そもそも浦島さんひとりの幻覚だった場合は考えられる。そういうことまで言い出すと、なにもかも幻覚ではないか、となってくる。

現実というものは、ひとつなのか、二つ以上あるのか、それともすべては幻覚なのでしょうか?

拝読ブログ:浦島太郎、懲役2年執行猶予3年。

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