昨年引退した高知県の橋本知事。
議論を呼んだが、次の知事自体は相乗り候補が当選した。
2006.11.19 相乗りや橋本氏引退のこと
その橋本氏が朝日新聞に退任前に手記を寄せたとあり、退任後に公表されていたそのデータがとってあったので、このあたりで紹介しておく。
何人かの固有名詞がでてくるが、梶原前岐阜県知事の名だけが2度出てくるのは流れか・・・
一昨年7月に名古屋で、宮城県知事を退任された翌年の浅野史郎さんの講演会を行った。その日は岐阜県庁の裏金事件が発覚した数日後だった。
到着して早々の控え室で浅野さんが、「岐阜県の裏金問題が分かって、皆さんの前ですっきり居られるので良かった」と話されたは印象的。さらに、その前月6月中旬の梶原氏主催の東京の集会のことも分かって・・・
もう時効だろうから書くけど・・・
◆名古屋で浅野史郎さん講演会
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ここのところ6位、7位、8位あたり
●高知・橋本知事、退任前に思い明かす 手記全文 朝日新聞 2007年12月06日
高知県の橋本大二郎知事(60)が退任を前に朝日新聞に寄せた手記「流れの先にあるものは」の全文を紹介する。
■細川氏との出会い
知事になって間もない頃、熊本県知事を退任して浪人中だった、細川護熙氏と、東京の鳥居坂にある、会館の一室で面会をした。選挙の公約に掲げた、県版のシンクタンクの設立に向けて、理事長就任を依頼するのが目的だった。
これに対して細川氏は、自分の経験を生かすことが出来れば、ぜひお役に立ちたいと答えてくれたが、それと同時に、近く文芸春秋に、新党結成の決意を綴(つづ)った、原稿を発表すると打ち明けられた。それが、平成4年5月の、日本新党の立ち上げにつながったが、そこには、地方分権を基軸にした、国と地方との、新しい枠組みづくりの理想が込められていた。
しかし、知事として仕事をする中で、武士は食わねど高楊枝(たかようじ)と、分権のあるべき姿ばかりを追い求めていたのでは、日々の糧は得られない。このため、知事の職にあった16年間は、分権の理想と、国と地方の力関係の現実との、相克の連続だった。
■実力者の系譜
このうち、現実の面で欠かせないのは、霞が関の官庁や、有力な政治家への陳情だ。例えば、知事になった当初、道路関係の分野では、金丸信氏が力を振るっていたので、東京の永田町にあった事務所や南麻布の自宅に、何度か頼みごとに出かけた。ある日、県道の六つの路線の、国道昇格への後押しをお願いに行くと、やおら秘書を呼んで、道路局長につなぐようにと命じる。当時の建設省の道路局長は、後に道路公団の総裁として、民営化論議に抵抗する悪役を務めさせられた、藤井治芳氏だったが、電話口に出た局長に金丸氏は、「今、高知の知事が来てるんだが、国道昇格の陳情だ。よく話を聞いてやってくれ」と告げると、受話器を私に手渡した。
金丸氏が政界を退いた後は、同じ永田町のビルの一室にある、竹下登氏の事務所に通った。向き合って腰をかけると、きまったように、「どうなすった」と声をかけてくれる。竹下氏は、役所の幹部の入省の年次などを、こと細かく覚えていることで有名だったが、相談をもちかけると、どんなテーマでも、それならこの人が一番のキーパーソンだと、押すべきつぼを的確に教えてくれた。
もちろん、総理大臣を務めた兄の下にも、何かと知恵を借りに行ったことがある。さりとて、納得の行かない話となると、相手が弟であっても、首を縦に振るタイプではなかったので、いささか手前勝手に地方への配慮を求めた時には、「道路族だ厚生族だと、族議員が批判されている時代に、お前が地方族になってどうする」と、たしなめられた。
■知事会議での変化
決して、地方族の集団ではないが、地方の代表の一角を担う、全国知事会議の様相も、16年の間に大きく変貌(へんぼう)した。知事になった当時の知事会議は、総会屋に仕切られた株主総会のように、会長のご威光の下、粛々と進められていたが、改革派と呼ばれる知事たちが数を増すに従って、やり取りが活発になってきた。土屋埼玉県知事が、知事会長を務めていた時代に、ある県の知事が、「密室の中で会長が選ばれている」と発言をして、土屋氏が、憤然と気色ばんだ場面などは、以前なら考えられないことだった。それを機会に、会長選びにも、立候補に基づく選挙が、実施されることになった。
■裏切られた期待
最も議論が盛り上がったのは、平成16年8月に、新潟で開かれた知事会議だった。三位一体の改革の一環として、3兆円の税源を地方に移す代わりに、その分、廃止すべき補助金や負担金を、「地方の側でリストアップしてみろ」と、国から挑戦状を突きつけられていたからだ。その時会長を務めていたのは、岐阜県知事の梶原拓氏だったが、夜遅くまで、好きなだけ意見を言わせたあげく、みんなが疲れ果てたところでまとめに入るという、手だれの技は見事なものだった。集まった知事たちは、その技にまんまと乗せられた感もあったが、その場は、自分たちの力で何かを変えられるという、期待感と高揚感に包まれていた。
しかし、その期待がうたかたのごとく消え去るのに、時間はかからなかった。地方の暮らしを支えるのに欠かせない地方交付税が、大幅に削減された上、地方が、この改革に最も期待をしていた仕事の自由度は、ほとんど高まらないままだったからだ。
この結果に対して、国と地方の制度に通じた玄人筋は、一部とはいえ、国から地方への税源の移譲という、かつてない風穴が開いたことを、画期的な一歩だと高く評価する。しかし、玄人筋の目ではなく、地域に暮らす住民の目で見た時、これが分権の成果だと実感できるような変化は、ほとんど起きていない。だからこそ、多くの国民は、地方分権とか三位一体の改革といった言葉に、ほとんど興味を示さなくなっているのではなかろうか。
■賽の河原の石積み
では、今後の第二期の分権改革で、大きな展開が期待できるだろうか。自分は、それには否定的だ。その根拠は、ここ数カ月の経験に基づいている。というのも、全国知事会では、第二期の改革に向けて、事務事業への国の関与や補助金による縛りが、地方の独自性をいかに阻害しているかを、改めて調査することになったのだが、その中で、福祉分野の調査のチーム長を引き受けたからだ。
チーム内で挙げられた事例を見ると、施設の設置や運営の基準から、研修の義務づけなどに至るまで、細かい項目がずらりと並んでいる。それだけ、国が細かいことにまで、地方の仕事に口を出している証ではあっても、国民がこのリストを目にしたら、地方分権とは、いかに事務的で瑣末(さまつ)な議論かと疑いかねない。その上、リストアップされた項目ごとに、「この事業は、国が関与する必要がある」といった、国の反論を許すのであれば、賽の河原の石積みと同じで、いつまでたっても、改革と呼べるほどの分権が進む見込みはない。
■知事の限界
法律用語を使えば、今は地方の側が「挙証責任」を、つまり、国の関与に問題があることを証明する責任を負っている。しかし、国が圧倒的な力を持っている中で、これでは分権改革は進まない。改革の名にふさわしい、国の枠組みの転換を目指すなら、外交や防衛など、ごく一部の分野を除いては、すべての権限と財源を地方に移した上で、どうしても、国が関与する必要があると考える場合には、国の側が、それを立証する責任を負うように、仕組みを変えなければならない。
しかし、これは、地方の力や知事会の力だけで、成し得るものではない。こうした考え方を、マニフェストの形で国民にお示しをした上で、政治の場を通じて、変えていくしか道はない。前段で相克の連続と述懐した、理想と現実の両面に分ければ、国と地方の力関係の中で泳ぎまわる、現実の面ではなく、国と地方の関係を変えるという理想の面で、知事の力に限界を感じた16年だった。
■改革派知事
知事会議での議論は今も活発だが、最近では、総務省をはじめとする官僚出身の知事たちの、いかにもそれらしい発言が、幅をきかすようになってきた。その結果、分権改革をめぐる議論にも、玄人好みの薀蓄(うんちく)が目立つようになってきて、生活者の視点が薄らいできている。そんな知事会議の印象を、知人に話したところ、「それでは、『そのまんま東』対『そのまんま役人』ですね」と言われてしまった。知事会議の席上、いつも、真剣に議論に耳を傾けている東国原知事が、そのうち、フラストレーションを起こさないかと心配だ。
その知事会の中で、一時期使われた改革派という呼び名も、私が退くことで自然消滅になる。では、改革派の知事は、それまでの知事とどこが違っていたのか。
とはいえ、改革派も一様ではないから、明確な定義づけが出来るわけではないが、自分に限って言えば、玄人筋以外のお客様を大切にした点だ。ここで言う玄人筋とは、県庁の職員や県議会議員をはじめ、政党と支援関係にある団体や、労働組合の幹部といった人たちだが、かつては、寄らば大樹の政党相乗り型の選挙を通じて、玄人筋だけで、仲良く県政を動かすことが当たり前だった。それに合わせて、役所の側も、仲間内で情報を囲い込んできた。
これに対して私は、意識的に、政党の推薦を受けずに選挙を戦ってきたので、何をするにも、幅広い層の県民の価値観を基に、判断を下すことが出来た。官官接待の廃止といった決断も、そうした、県民の視点に立った価値判断の結果だ。また、特定の団体や個人を相手にするのではなく、広く一般の県民に開かれた県政を進めるには、情報公開を手段に、行政の持つ情報を、県民と共有する必要があった。C型肝炎の問題や、インド洋での給油に関することでも明らかなように、今もって、一部の官僚の手に、情報が囲い込まれたままの国に対して、地方では、圧倒的に情報公開が進んでいる。これも、玄人筋ではなく、生活者に視点を置いた、改革の成果の一つだ。
■インターンシップ
もう一つ、知事としての本来の仕事ではないが、他の知事がしていないことで、自慢出来ることがある。それは、希望する学生に、知事の仕事をありのまま見せる、「知事のそばでのインターンシップ」を続けてきたことだ。人事にかかわる打ち合わせを除けば、内部の協議もお客様との面談も、自分の仕事のすべてを、同じ空間で体験してもらった。平成12年から、2人の高校生を含めて、あわせて67人が参加してくれたが、一人一人と語り合いの時間も持って、お互いに刺激を分け合った。その中の一人は、岐阜県知事を退任した、梶原氏の手伝いをしていたが、その後発覚した、県の裏金問題に巻き込まれた。悩みを綴った手紙をもらった時、「一度惚(ほ)れ込んだ男には、とことん尽くせ」と、返事を出したが、その彼は、今は地元で、市議会議員を務めている。この他にも、私と同じNHKの記者になった青年など、行く道は様々だが、彼らは、将来必ず、この経験を生かしてくれるものと信じている。
■堂々たる日本
就任時には、全国で一番若い知事だった自分も、退任の際には、若い方から23番目になっていた。その私に替わって選ばれた、新知事は40歳。2代続けて、全国一若い知事の誕生となった。
しかし、知事を退くにあたっても、感傷はほとんどない。何かが終わったとか、一区切りついたとは、感じていないからだ。
世界に伍した貢献をしながら、なお、高知県に代表されるような地方でも、国土と暮らしが保てる国を築いていく、それが、堂々たる日本の姿ではないか。そのためには、生活者の視点に立った国の形を、提案していかなくてはならない。そのための戦略と戦術を、どう組み立てるのか、わくわくするような思いで、退任の時を迎えている。
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