スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

五稜郭杯争奪戦&聖書と理性

2015-11-09 19:27:39 | 競輪
 3日の函館記念の決勝。並びは山田-武田-菊地-加藤の東日本,村上-稲川-笠松の近畿中部,岩津-橋本の瀬戸内。
 牽制があった後,村上がスタートを取って前受け。4番手に岩津,6番手に山田で周回。残り3周のホーム出口から山田が上昇開始,バックで村上を抑えると,村上は引き,岩津が5番手,村上が7番手の一列棒状に。残り2周のホームから村上が発進。山田もこれを見てペースアップ。打鐘前から先行争いになりましたが,山田が村上を出させませんでした。ここで岩津が自力を出すと,ホームの出口では山田を叩いて先頭に。ただ橋本が追えなかったため,武田が岩津の後ろにスイッチ。バックから武田が自力を出し,あっさりと岩津を捲るとそのまま優勝。マークの菊地が4分の3車身差で2着。打鐘付近で笠松に菊地の後ろに割り込まれた加藤でしたがホームで奪い返すとそのまま続き,最後は1車輪差まで詰めての3着で東日本の上位独占。
                         
 優勝した茨城の武田豊樹選手は先月の熊本記念に続いてGⅢ27勝目。函館記念は初優勝ですが,2012年6月に当地で開催された高松宮記念杯を優勝しています。ここは自力で対抗できそうなのは村上だけ。武田には山田という援軍がいて,村上を前に出させないように駆けましたから,その時点で優勝に当確ランプが灯ったレースだったといえるでしょう。岩津の奇襲は予想外だったと思いますが,俊敏に対処しました。橋本が離れてしまったのも,脚力というよりあの段階での岩津の発進が予想外であったからではなかったかと思います。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,アドリアン・クールバッハAdriaan Koerbaghは,聖書の中の真理veritasを把握するために必要なのは理性ratioだけであると主張したという主旨の記述があります。ナドラーSteven Nadlerがいっていることが間違っているとは思いませんが,『百花繚乱の時代』の当該部分の記述と照合すると,適切な要約であるとは僕には思えませんでした。
 アドリアンが書いているのは,聖書の中には理性に一致する確実な事柄が含まれていて,アドリアン自身が聖書の中の見解として同意するのはそれらの事柄だというように僕には読めます。これは裏を返せば,聖書には理性に合致しない,いい換えれば真理とはいえない多数の事柄が含まれているのであって,そうした部分はアドリアンにとって不要であるという主張であると僕は解します。実際にアドリアンは,理性に合致しない部分の記述は,無用で空虚だから難なく否定され得るといっているからです。
 こうした見解がスピノザの見解と一致するか否かは,僕はここでは判断を控えます。スピノザは理神論者です。ですから聖書の記述も合理的に解釈すると思われがちですが,これは明らかに誤解であると僕は考えています。むしろ『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は,聖書の記述内容そのものが真理であると判断することについては否定的ですが,真理という観点に立って聖書の記述を合理的に解釈しようとする姿勢に対しても批判的です。アドリアンは,理性に一致しない部分は無用で空虚といっていますから,合理的でない記述内容を理性による解釈によって合理的たらしめようとはしてなく,その点ではスピノザの見解に一致しているといえるでしょう。ただ、聖書の中に真理が含まれているとアドリアンがいうとき,それがどの内容を指しているのかが僕には分かりません。一方,聖書の中に理性とは合致しない部分が存在しているからといって,ただそのことだけを根拠にして,スピノザがその部分を空虚ということはあったとしても,無用であるということはないだろうと僕は考えています。スピノザの聖書の解釈はきわめて特異なので,それはいずれ別に示しますが,アドリアンとスピノザはこの点では必ずしも一致していない可能性があります。
コメント
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