スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&超越と内在

2022-06-18 19:06:30 | 将棋
 15日に岩室温泉で指された第93期棋聖戦五番勝負第二局。
 永瀬拓矢王座の先手で角換わり相腰掛銀。先手が中盤の戦いで優位に立ち,終局の直前で後手の藤井聡太棋聖が逆転するという一局でした。
                                        
 先手が王手飛車をかけたところ。普通は☖同飛ですが,☖1三王と逃げました。これが逆転を呼び寄せる一手に。
 ☗3一金と飛車を取る手が当然にみえて敗着。ここは☗8八玉と逃げておかなければなりませんでした。その理由は☗3一金は先手の持ち駒に金があれば後手玉への詰めろとなるものの,現状はないので,詰めろとなっていないからです。
 金を渡さないまま先手玉に詰めろをかけ続けることが後手が勝つ条件になりました。そしてそういう手順があったのです。まず☖9七銀。先手は後手に駒を使わせるために☗1一飛と王手を掛け,☖1二桂と受けさせてから☗9七桂と取りました。香車でなく桂馬で取るのは最善の粘り。これだと☖6七歩成のときに先手に攻防手があり,また逆転することができるからです。
 後手もそれは理解していました。☖4八歩と打つのが決め手。この局面でもまだ難しそうですが,後手は詰めろを続けることができました。
                                        
 第2図で先手の桂馬が8五に跳ねられれば玉の逃げ道が作れます。第1図の7手ほど前に☖8五歩☗同香という,その時点では意味が判然としないやり取りがあったのですが,もしかしたらその時点で第2図近辺が後手の視野に入っていたのかもしれません。
 藤井棋聖が勝って1勝1敗。第三局は来月4日に指される予定です。
 
 コナトゥスconatusが理性ratioの原理ではなく存在existentiaの原理,それも人間の存在の原理ではなく自然Naturaのうちに存在するすべてのものに妥当する存在の原理であるなら,理性が自然に反する,自然を超越するということはあり得ません。超越といういい回しに対照させていうなら,スピノザの哲学における理性は,自然に対して内在的です。いい換えれば,スピノザの哲学における理性というのは,それ自体が自然の一部なのです。
 僕は,人間が理性を用いることによって困難を克服するということを否定するnegareわけではありません。むしろ人類の歴史はそういうものであったといってもいいでしょうし,これからもそのようなものであるでしょう。また現実的に存在するある人間が,理性を用いることによって,その人間にとっての困難を克服するということもあるでしょう。つまり,それを人類とみてもあるいは個々の人間とみても,理性によって困難を乗り越えるということがあるということについては,僕は否定しません。というより肯定します。ただそのときの理性は,自然を超越するような理性ではなく,自然の一部としての理性であるというのが,スピノザの哲学における考え方であり,僕もまたその考え方に同意するのです。つまり人間が理性を用いるということは,自然を超越するような現象ではなく,自然現象として僕は解します。たとえば人間が克服しなければならないようなある自然現象が生じたとして,もし人間が理性によってそれを克服するとしても,そのこともまた克服される自然現象と同じ意味で,自然現象が生じたというように僕は解するということです。
 スピノザの哲学における理性の最大の意義というのは,それが精神の能動actio Mentisであるという点です。しかし,それが能動であるから自然を超越するというわけではなく,能動も受動passioも同じ意味で自然現象なのです。そこに相違があるとすれば,人間の能動というのはその人間が十全な原因causa adaequataであり,受動というのはその人間が部分的原因causa partialisであるという点です。もちろんこの相違はとても重要な相違ではありますが,どちらも自然に対して内在的に生じる現象であるという点では,能動も受動も変わるところはないのです。

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