日本時間で15日の深夜にイギリスのアスコット競馬場で行われたプリンスオブウェールズステークスGⅠ芝1990m。
シャフリヤールはその気になれば逃げることができそうでしたが,押さえて2番手。逃げた馬から半馬身から1馬身くらいの差を保ってレースを進めました。出走馬が5頭だったこともあり,道中での目立った動きもなく直線に。ここから逃げた馬がスパートすると,鞭を入れられても離されていくことに。フィニッシュに向けてまた盛り返すような形にこそなりましたが,あくまでも3着争い。勝ち馬から約3馬身半差の4着でした。
勝負所で離されてしまったのは,レースの序盤で前に行きたがるところがあったのが影響したかもしれません。ただ,最後は盛り返すような内容でしたので,スタミナが不足していたというよりは瞬発力に欠けていたというように思えます。ですから折り合いやペースを別とすれば,もう少し長い距離の方が優勝争いはしやすいかもしれません。
僕はここではスピノザの哲学における,理性ratioと自然Naturaの関係を考察しようとしているのですが,その際に,アドルノTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrundがいっている理性の原理である自己保存と,スピノザがいっている,人間の原理でないコナトゥスconatusとの相違が重要です。なのでまずこちらを考えていきます。
アドルノが自己保存というとき,それは人間の自己保存,あるいは人類の自己保存を意味しています。この自己保存が理性の基本原理であるということは,人間は理性によって,あるいは科学的な知見によって,自然における困難を克服することによって生き延びていくということを意味しています。アドルノは必ずしも自然科学だけを射程に入れているわけではないと僕は解釈していますが,これは科学技術の発展をイメージすれば分かりやすいと思います。したがってこの場合の理性は,人間が自然を克服しまた超克していくような思惟作用として考えられているのです。つまり,理性は自然に対して超越的なものです。
アドルノのこのような考え方というのは,哲学でいえばデカルトRené Descartesと親和性があるといえます。デカルトにとって理性の第一の役割は,それによって自身の欲望cupiditasを統御するということにあるのであって,必ずしも自己保存が第一原理となっているとはいえません。ですがデカルトがいっているのは,精神mensによって身体corpusを統御するという点にあり,このとき自然である身体あるいは欲望を統御する,すなわち克服あるいは超克していくものとして精神の理性が規定されています。よって,精神は身体に対して,理性は欲望に対して超越的なものであるということになっています。つまり,理性が自然に対して超越的なものであるという点で,アドルノの考え方はデカルトの哲学と親和性があるといえるのです。あるいは一致しているといってもいいでしょう。
スピノザの哲学におけるコナトゥスというのは,理性の原理ではなく存在existentiaの原理です。そして存在の原理というのは,人間の存在の原理ではありません。コナトゥスに言及している第三部定理七は,自然のうちに存在するすべてのものに妥当する定理Propositioであって,人間も存在するもののひとつであるがゆえに,人間にも妥当するのです。
シャフリヤールはその気になれば逃げることができそうでしたが,押さえて2番手。逃げた馬から半馬身から1馬身くらいの差を保ってレースを進めました。出走馬が5頭だったこともあり,道中での目立った動きもなく直線に。ここから逃げた馬がスパートすると,鞭を入れられても離されていくことに。フィニッシュに向けてまた盛り返すような形にこそなりましたが,あくまでも3着争い。勝ち馬から約3馬身半差の4着でした。
勝負所で離されてしまったのは,レースの序盤で前に行きたがるところがあったのが影響したかもしれません。ただ,最後は盛り返すような内容でしたので,スタミナが不足していたというよりは瞬発力に欠けていたというように思えます。ですから折り合いやペースを別とすれば,もう少し長い距離の方が優勝争いはしやすいかもしれません。
僕はここではスピノザの哲学における,理性ratioと自然Naturaの関係を考察しようとしているのですが,その際に,アドルノTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrundがいっている理性の原理である自己保存と,スピノザがいっている,人間の原理でないコナトゥスconatusとの相違が重要です。なのでまずこちらを考えていきます。
アドルノが自己保存というとき,それは人間の自己保存,あるいは人類の自己保存を意味しています。この自己保存が理性の基本原理であるということは,人間は理性によって,あるいは科学的な知見によって,自然における困難を克服することによって生き延びていくということを意味しています。アドルノは必ずしも自然科学だけを射程に入れているわけではないと僕は解釈していますが,これは科学技術の発展をイメージすれば分かりやすいと思います。したがってこの場合の理性は,人間が自然を克服しまた超克していくような思惟作用として考えられているのです。つまり,理性は自然に対して超越的なものです。
アドルノのこのような考え方というのは,哲学でいえばデカルトRené Descartesと親和性があるといえます。デカルトにとって理性の第一の役割は,それによって自身の欲望cupiditasを統御するということにあるのであって,必ずしも自己保存が第一原理となっているとはいえません。ですがデカルトがいっているのは,精神mensによって身体corpusを統御するという点にあり,このとき自然である身体あるいは欲望を統御する,すなわち克服あるいは超克していくものとして精神の理性が規定されています。よって,精神は身体に対して,理性は欲望に対して超越的なものであるということになっています。つまり,理性が自然に対して超越的なものであるという点で,アドルノの考え方はデカルトの哲学と親和性があるといえるのです。あるいは一致しているといってもいいでしょう。
スピノザの哲学におけるコナトゥスというのは,理性の原理ではなく存在existentiaの原理です。そして存在の原理というのは,人間の存在の原理ではありません。コナトゥスに言及している第三部定理七は,自然のうちに存在するすべてのものに妥当する定理Propositioであって,人間も存在するもののひとつであるがゆえに,人間にも妥当するのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます