『三四郎』で三四郎と美禰子が出会う場所は,実在の場所です。なのでその場所を知っていたら,テクストで書かれている以上のことが分かるのです。というのも,この場面は三四郎の視点から記述されているからであり,実際にその場所を知っていれば,三四郎から何が見えていたのかということが分かると同時に,三四郎からは何が見えていなかったのかということも分かるからです。
テクストに沿って解釈すると,三四郎からは石橋の反対側に美禰子と看護師がふたりで立っていました。そのふたりがそこから石橋を渡って三四郎の方に近づき,美禰子はその途中で手にしていた花の香りを嗅いで,その花を三四郎の目前に落とすのです。これはわざわざ花の匂いを嗅ぐという動作をすることによって三四郎の注意を引き付け,さらにその花を三四郎の前に落とすということによって,美禰子が三四郎を誘惑したというように読解できます。そしてこれが三四郎の目線なのですから,三四郎は自分が美禰子に誘惑されたというように感じたであろうことも,容易に推測することができます。
しかし石原によれば,それはあくまでも三四郎の目線からの読解であるにすぎません。美禰子が三四郎を誘惑したというのは事実であったとしても,それは美禰子が三四郎に対してそういう気持ちがあったからなした行為ではないということが,三四郎の目線からは見えていなかったものが何かということを知ることによって,理解できるのです。前もっていっておきますが,美禰子はこの一連の行為をすることによって,三四郎を誘惑したというよりも,三四郎を誘惑していると見せようとしたのです。つまり三四郎の目線からだと,この一連の行為は三四郎と美禰子,そして看護師の3人だけが目撃していたことになるのですが,事実はそうではなく,三四郎からは見えなかった別の人,これは後に石橋を渡ってくる野々宮ですが,野々宮もそれを目撃していたのです。そして美禰子は,野々宮が見ていることを知っていて,三四郎を誘惑したのです。美禰子の目的は,三四郎を誘惑することではなく,だれかを誘惑していることを野々宮に見せるためでした。相手は三四郎でなくてもよかったのです。
浅野がネグリAntonio Negriの政治的実践の手法を,集団的ニーチェ主義といっている理由が,スピノザの哲学はネグリの政治的実践とそぐわないものであるからだということが僕の推測であるとしても,推測である部分は,そこで浅野がスピノザの名前を出さずにニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの名前を出しているという点にのみあります。スピノザの哲学がネグリの政治的実践の手法にそぐわないものであると浅野が考えているという点に関しては,僕の推測ではなくて,浅野は確かにそういう認識をもっているのです。そしてその認識については僕もそれを共有します。つまり,ネグリの政治的実践の手法は,スピノザの哲学に依拠するなら帰結するものではないと僕は考えています。
しかしネグリ自身はそうではありません。ネグリは自分の政治的実践の手法を裏付けるために,スピノザの哲学を援用するからです。つまり,スピノザの哲学に依拠することによって,全員による全員の統治としての絶対的民主主義を目指すということが政治的に実践すべきことであるという結論が出てくるとネグリは考えているのです。そのときにネグリが着目しているのが,愛amorという感情affectusです。つまりスピノザがいう愛という感情を有効的に活用することで,絶対的民主主義という政治体制を現実化することができるというようにネグリはみているのです。なぜならネグリによれば,愛こそが,絶対的民主主義を構成するための土台となるからです。ただしこの愛は,受動的な愛なのではなく,能動的な愛でなければなりません。
このあたりのことに関しては,ネグリの『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』についての書評とともに,それに関連する若干の考察をしたときに詳しく僕の考え方を説明しましたから,ここではそのことを繰り返すことはしません。ごく簡単にいえば,能動的な愛の紐帯によって,それを絶対的民主主義というのかどうかということは別として,よき政治体制を構築することができるということは,スピノザの哲学において論理的には正しいと僕は考えます。しかし同時に,それが政治的実践という意味で現実的であるかといえば,スピノザの哲学に従う限りきわめて非現実的であると僕は考えているのです。
テクストに沿って解釈すると,三四郎からは石橋の反対側に美禰子と看護師がふたりで立っていました。そのふたりがそこから石橋を渡って三四郎の方に近づき,美禰子はその途中で手にしていた花の香りを嗅いで,その花を三四郎の目前に落とすのです。これはわざわざ花の匂いを嗅ぐという動作をすることによって三四郎の注意を引き付け,さらにその花を三四郎の前に落とすということによって,美禰子が三四郎を誘惑したというように読解できます。そしてこれが三四郎の目線なのですから,三四郎は自分が美禰子に誘惑されたというように感じたであろうことも,容易に推測することができます。
しかし石原によれば,それはあくまでも三四郎の目線からの読解であるにすぎません。美禰子が三四郎を誘惑したというのは事実であったとしても,それは美禰子が三四郎に対してそういう気持ちがあったからなした行為ではないということが,三四郎の目線からは見えていなかったものが何かということを知ることによって,理解できるのです。前もっていっておきますが,美禰子はこの一連の行為をすることによって,三四郎を誘惑したというよりも,三四郎を誘惑していると見せようとしたのです。つまり三四郎の目線からだと,この一連の行為は三四郎と美禰子,そして看護師の3人だけが目撃していたことになるのですが,事実はそうではなく,三四郎からは見えなかった別の人,これは後に石橋を渡ってくる野々宮ですが,野々宮もそれを目撃していたのです。そして美禰子は,野々宮が見ていることを知っていて,三四郎を誘惑したのです。美禰子の目的は,三四郎を誘惑することではなく,だれかを誘惑していることを野々宮に見せるためでした。相手は三四郎でなくてもよかったのです。
浅野がネグリAntonio Negriの政治的実践の手法を,集団的ニーチェ主義といっている理由が,スピノザの哲学はネグリの政治的実践とそぐわないものであるからだということが僕の推測であるとしても,推測である部分は,そこで浅野がスピノザの名前を出さずにニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの名前を出しているという点にのみあります。スピノザの哲学がネグリの政治的実践の手法にそぐわないものであると浅野が考えているという点に関しては,僕の推測ではなくて,浅野は確かにそういう認識をもっているのです。そしてその認識については僕もそれを共有します。つまり,ネグリの政治的実践の手法は,スピノザの哲学に依拠するなら帰結するものではないと僕は考えています。
しかしネグリ自身はそうではありません。ネグリは自分の政治的実践の手法を裏付けるために,スピノザの哲学を援用するからです。つまり,スピノザの哲学に依拠することによって,全員による全員の統治としての絶対的民主主義を目指すということが政治的に実践すべきことであるという結論が出てくるとネグリは考えているのです。そのときにネグリが着目しているのが,愛amorという感情affectusです。つまりスピノザがいう愛という感情を有効的に活用することで,絶対的民主主義という政治体制を現実化することができるというようにネグリはみているのです。なぜならネグリによれば,愛こそが,絶対的民主主義を構成するための土台となるからです。ただしこの愛は,受動的な愛なのではなく,能動的な愛でなければなりません。
このあたりのことに関しては,ネグリの『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』についての書評とともに,それに関連する若干の考察をしたときに詳しく僕の考え方を説明しましたから,ここではそのことを繰り返すことはしません。ごく簡単にいえば,能動的な愛の紐帯によって,それを絶対的民主主義というのかどうかということは別として,よき政治体制を構築することができるということは,スピノザの哲学において論理的には正しいと僕は考えます。しかし同時に,それが政治的実践という意味で現実的であるかといえば,スピノザの哲学に従う限りきわめて非現実的であると僕は考えているのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます