岸和田競輪場で開催された昨日の第73回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは小松崎‐佐藤‐成田の福島,郡司‐諸橋の東日本,山田‐荒井‐園田の九州で古性は単騎。
諸橋と成田でスタートの取り合い。内の諸橋が誘導の後ろに入って郡司の前受け。3番手に小松崎,6番手に古性,7番手に山田で周回。残り3周のバックの出口から山田が上昇を開始。ホームで一気に郡司を叩きにいったのですが,郡司が突っ張り,バックで山田が引くことになりました。打鐘から小松崎が発進。郡司は引くことができず,番手の佐藤と競り合いに。この競りは最終コーナーまで続き,佐藤が守ったのですが,バックから発進した古性を止めることができなくなり,捲り切った古性が優勝。古性を追う形になった山田が1車身差で2着。山田ラインの3番手から山田の外に進路を取った園田が半車輪差で3着。
優勝した大阪の古性優作選手は2月の全日本選抜競輪以来の優勝でビッグ4勝目。高松宮記念杯は初優勝。岸和田では2016年に記念競輪を優勝しています。このレースは小松崎の先行が有力で,その番手の佐藤と,脚力では上位の郡司が優勝候補。このふたりが競り合うことになったので,古性には有利な展開となりました。単騎となりましたが臆せずに自力で発進したことが優勝に結び付きましたので,その勇気は称賛に価すると思います。
スピノザの哲学では,人間が理性ratioを用いて何かを認識するcognoscereということは,人間が自然Naturaを超越するということなのではなく,自然現象の一部です。人間の身体humanum corpusに何らかの生理現象が生じるとき,それは自然現象のひとつであるというなら,理解しやすいのではないかと思います。それと完全に同じ意味で,人間が理性によって何かを認識するということも,自然現象のひとつなのです。これがスピノザの哲学における,自然と理性の関係の原理です。
第3章に関してはこれだけです。続いて第4章に関連する考察をします。『スピノザ〈触発の思考〉』の第4章は,ネグリAntonio Negriが取り上げられています。
ネグリの基本的な思想,これは政治的思想を意味しますが,基本的な政治思想の立場はふたつあって,ひとつはアナーキズムでもうひとつが共産主義です。このふたつは密接に関連しているのですが,ここではそうした政治思想における根本的な立場は考察の対象とはしません。そしてネグリはそうした政治的思想を実現するために,スピノザの哲学を利用します。これは単に思弁的に利用するのではなく,実践的に利用しようとします。このあたりのことは『スピノザ『神学政治論』を読む』の中で上野修が簡潔にまとめていますので,それを参照してください。
浅野が指摘していることのひとつに,ネグリが描いている政治的実践の最終地点は,生産的協働の回路が,総体としての労働力を,統治の場で自己構成することができるようにすることであるというのがあります。ネグリが実際にそのような主張をしているということについては,ここではその通りであると前提しておきます。浅野はこの政治的立場をネグリの共産主義といっていますが,こうした立場を共産主義ということが妥当であるのかということについては僕は若干の疑問を有しますので,仮にネグリがその立場を共産主義と命名しているのだとしても,僕はここでは単にネグリの政治的立場といういい方をしておきます。というのもこの政治的立場は同時に,全員による全員の統治としての絶対的民主主義ともいわれているからで,僕はそれを絶対的な民主主義ということにもやや疑問を感じてしまうからです。
諸橋と成田でスタートの取り合い。内の諸橋が誘導の後ろに入って郡司の前受け。3番手に小松崎,6番手に古性,7番手に山田で周回。残り3周のバックの出口から山田が上昇を開始。ホームで一気に郡司を叩きにいったのですが,郡司が突っ張り,バックで山田が引くことになりました。打鐘から小松崎が発進。郡司は引くことができず,番手の佐藤と競り合いに。この競りは最終コーナーまで続き,佐藤が守ったのですが,バックから発進した古性を止めることができなくなり,捲り切った古性が優勝。古性を追う形になった山田が1車身差で2着。山田ラインの3番手から山田の外に進路を取った園田が半車輪差で3着。
優勝した大阪の古性優作選手は2月の全日本選抜競輪以来の優勝でビッグ4勝目。高松宮記念杯は初優勝。岸和田では2016年に記念競輪を優勝しています。このレースは小松崎の先行が有力で,その番手の佐藤と,脚力では上位の郡司が優勝候補。このふたりが競り合うことになったので,古性には有利な展開となりました。単騎となりましたが臆せずに自力で発進したことが優勝に結び付きましたので,その勇気は称賛に価すると思います。
スピノザの哲学では,人間が理性ratioを用いて何かを認識するcognoscereということは,人間が自然Naturaを超越するということなのではなく,自然現象の一部です。人間の身体humanum corpusに何らかの生理現象が生じるとき,それは自然現象のひとつであるというなら,理解しやすいのではないかと思います。それと完全に同じ意味で,人間が理性によって何かを認識するということも,自然現象のひとつなのです。これがスピノザの哲学における,自然と理性の関係の原理です。
第3章に関してはこれだけです。続いて第4章に関連する考察をします。『スピノザ〈触発の思考〉』の第4章は,ネグリAntonio Negriが取り上げられています。
ネグリの基本的な思想,これは政治的思想を意味しますが,基本的な政治思想の立場はふたつあって,ひとつはアナーキズムでもうひとつが共産主義です。このふたつは密接に関連しているのですが,ここではそうした政治思想における根本的な立場は考察の対象とはしません。そしてネグリはそうした政治的思想を実現するために,スピノザの哲学を利用します。これは単に思弁的に利用するのではなく,実践的に利用しようとします。このあたりのことは『スピノザ『神学政治論』を読む』の中で上野修が簡潔にまとめていますので,それを参照してください。
浅野が指摘していることのひとつに,ネグリが描いている政治的実践の最終地点は,生産的協働の回路が,総体としての労働力を,統治の場で自己構成することができるようにすることであるというのがあります。ネグリが実際にそのような主張をしているということについては,ここではその通りであると前提しておきます。浅野はこの政治的立場をネグリの共産主義といっていますが,こうした立場を共産主義ということが妥当であるのかということについては僕は若干の疑問を有しますので,仮にネグリがその立場を共産主義と命名しているのだとしても,僕はここでは単にネグリの政治的立場といういい方をしておきます。というのもこの政治的立場は同時に,全員による全員の統治としての絶対的民主主義ともいわれているからで,僕はそれを絶対的な民主主義ということにもやや疑問を感じてしまうからです。
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