スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

論争の理由&受動の発生

2011-08-06 19:27:51 | 哲学
 僕が「渡る世間は鬼ばかり」というドラマを不自然に感じた理由のひとつは,会話の分量が多いドストエフスキーの小説との比較からだったのですが,もうひとつ,スピノザの哲学と関連した別の理由もあるのです。
 スピノザは第二部定理四七の備考において,世の中に生じる人間同士の論争のほとんどの原因は,人間が自分の精神を正しく表現しないことによって生じるか,そうでなければ他人の精神を誤って理解することによって生じるという意味のことを述べています。したがって,論争のほとんどは,たとえそれがどんなにひどく対立し合っているかのように見える場合でさえ,実際には同じことを主張しているか,そうでなければ異なった主題についてあたかも同一の主題であるかのように争っているかのどちらかであることになります。
 これは実際にその通りなのであって,もしも人間が自分の意見や考えといったことを正しくことばにして表現し,かつだれもがそれをその通りに解釈するということがあったなら,世の中には現にあるほど多くの論争はなかったでしょう。ドストエフスキーの小説の登場人物のお喋りの理由がリアルに感じられるのは,その冗長の理由が,自分の精神を正しく表現できていないと思っていること,あるいは相手に自分のことばが曲解されているのではないかと思うこと,そうした恐れに依拠しているように感じられるからなのです。
 これに反して,「渡る世間は鬼ばかり」の登場人物たちは,自分の精神を正しくことばにして表現していますし,相手のことばについてもほぼそれを正しく受け止めているとしか思えません。そうであるならば,あんなに次から次へと問題が生じてくるわけがないと僕には思えるのです。少なくとも自らの精神を正しくことばに表現し,かつそれを相手も正しく受け止めるならば,当事者間では何らかの折り合いが,必ずととはいいませんが,ほぼつかなければおかしいです。ここの部分に,僕はこのドラマに登場する人物たちの本性に,とても不自然な印象を受けてしまうのです。

 第一部定理三六が,現実的に存在する個物の受動の発生を示さないということを強硬に主張する意図は僕にはないということはお分かりいただけたものと思います。しかし,この定理がここでの解釈のように,個物の能動の発生だけを含み,個物の受動の発生についてはこれを含まないとするならば,今回のテーマである第三部定義二のうち,能動の発生だけは担保することができますが,受動の発生に関してはそれを担保することができないということになります。第三部定義二の立場は,能動および受動の本性についてはそれを十全に示しているけれども,発生についてはこれだけでは含まれていると考えることができないというのが僕の理解です。よって,個物の能動の発生が十全に明らかとなっただけでは,まだこの定義を実在的な意味に解するのに十分であるとはいえません。同時に個物の受動の発生もまた,それが十全な仕方で説明される必要があります。繰り返しになりますが,第一部定理三六がそれを十全には含んでいないというようには僕は必ずしも考えませんけれども,ここでは考察の万全を期するために,『エチカ』の別の部分に訴えることにします。
 このことを一般的に考えるならば,まず第四部公理を援用するのが妥当であろうというのが僕の考えです。この公理は,どんな個物にとっても,自身よりも有力な別の個物があるということを示しています。したがってある個物が現実的に存在する場合には,必ずその個物よりも有力な個物もまた同時に現実的に存在しているということになるでしょう。そこで前者をA,後者のより有力とされる個物をBとしてみます。BはAより有力とされているわけですから,AとBとが何らかの関係を有する場合には,BがAの本性に働きかけることによって,Aのうちに何らかの結果を生じさせることになるでしょう。このとき,第二部自然学②公理一,もっともこれは物体にのみ適用されるわけですが,物体も個物のひとつですから,これがすべての個物にも妥当であると仮定するなら,このAのうちに生じる結果に対して,Aは部分的原因であるということになります。いい換えればこのとき,Aには受動が発生しているということになると思います。
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