スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&議会派

2015-08-15 19:33:09 | 将棋
 11日に対局があった第28期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋王が2勝,永瀬拓矢六段が0勝。
 振駒で永瀬六段の先手。相矢倉でしたが,先手が早囲いから早い段階で動いたため,先手は片矢倉,後手が金矢倉になりました。結果的にこの陣形の差が勝敗に直結したような一局になりましたので,先手の仕掛けがよくなかったということなのだろうと思います。
                         
 後手が飛車を走って先手が受けた局面。一局の中で,後手が最も大変だったのがこの周辺だったのではないかと思われます。
 △3六飛と横に逃げました。▲4七銀で飛車の捕獲を目指すことに。
 △7九と▲同玉と下段に落として△6六歩。さすがに飛車は取れず▲5七金寄。
 △3九銀と飛車取りに打ち返しました。飛車を取り合えば先手の負けは目に見えています。▲2九飛と引ければよいのですが,△4八銀不成で収拾がつかなくなるので▲5八飛。そこで△2六飛と寄ることができ,後手は最大の危機を脱しました。
                         
 第2図以降,先手も手順を尽くしてこの飛車を7三の馬と交換することはできたのですが,後手玉を攻めきるには至りませんでした。
 渡辺棋王が先勝。第二局は31日です。

 レンブラントの死後,静養のためにフォールブルフ別荘ファン・ローンが滞在していた間,足繁く通ったスピノザに対し,ローンは謝辞を記しています。同時に,別荘主であるコンスタンティンの物事にとらわれない精神に感嘆したともいっています。この部分には政治的文脈が関係しています。
 大雑把にいいますが,この当時のオランダでは,有力なふたつの政治勢力が覇権を競っていました。勢力がふたつしかなかったともいえるでしょう。『国家論』の分類でいえば,一方が君主制を支持する勢力で,他方は共和制を支持する勢力でした。ここでは前者を王党派,後者を議会派ということにします。
 議会派を代表する政治家がヨハン・デ・ウィットです。スピノザとデ・ウィットは根本的な政治思想は違っていたと理解するべきですが,ふたつの政治勢力では共和制を支持する方が自身の見解に近いですから,スピノザは議会派でした。民主制を志向し,宗教的には個人による聖書解釈を肯定していたので,議会派の中でもスピノザは急進的左派あるいは自由思想家だったと解しておくのが,現代的ではあると思います。
 ローンは一時的に現在のニューヨークに行っていました。1650年の帰国時に実権を握っていたのは王党派で,デ・ウィットの父親を含めた議会派の指導者が6人も逮捕される政争がありました。ローンはこの政争に巻き込まれ,議会派のために奔走しています。つまりローンも議会派であったわけです。
 僕はローンもスピノザと同様に,かなり急進的な議会派であったように思えます。ただ,スピノザがナイフで襲われた翌朝に市長に面会を求めるなど,政治的な文脈では自分の思想を明らかにする場面はあったものの,宗教的にはそれを明らかにしなかったのだろうと思います。「レンブラントの生涯と時代」には,キリスト教国家と自称したがる国,すなわちオランダにやむを得ず暮らしてきたという主旨の記述もあり,反動的カルヴィニストと同じような信仰心は抱いていなかったものと思います。ローンは書いただけで出版しませんでしたが,もし出版していたら,無神論者とみなされ禁書にされたろうと思います。
コメント
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