スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&第三部定理一三

2014-10-10 19:13:07 | 将棋
 7日に甲府で指された第62期王座戦五番勝負第四局。
 豊島将之七段の先手で5筋位取り中飛車。羽生善治王座は2枚の銀を前線に繰り出し,先手の駒を抑え込みにいく作戦に。
                         
 5九にいた角が上がった局面。8四の歩を狙っていますので,何らかの手段で受けるのが普通と思えますが,無視して☖1四歩と突きました。☗1六歩と受けておくのも大きな手ですが,後手の言い分を通す形になるので,☗8四角と決断の一手を放ちました。後手は主張を通すなら☖1五歩と思うのですが,☖6五歩と突きました。先手は飛車の転換を狙って☗5六飛。後手は☖8三銀と角取りに引き,☗7三歩に☖7一飛と引いて逃げました。先手は角は逃げずに狙い筋の☗8六飛を決行。☖8四銀☗同飛と進みました。
                         
 駒損ですが抑え込みの網は食い破った形。玉型に差があるので,先手もこれで十分にやれそうに思えます。個々の指し手がどうこうというより,この将棋は後手の方針が一貫性を欠いていたような印象を受けました。
 連敗スタートだった豊島七段の連勝でタイトルの行方は最終局へ。23日です。

 第三部諸感情の定義三〇にあるように,名誉gloriaというのが自己満足acquiescentia in se ipsoの一種であるとすると,奇妙な事態が生じてくることになります。第四部定理五二にあるように,理性ratioから生じる自己満足は,存在し得る最高の満足です。だからこのことはとりわけ人間が理性的な場合に顕著です。しかし僕が示したように,受動的な自己満足も,あらゆる受動的感情の中では最高の満足なので,これは人間が受動的である場合にも生じ得る事態です。
 第三部定理一二では,人間の精神mens humanaは,身体corpusの活動能力agendi potentiaを増大あるいは促進するものを表象しようとする傾向があるということが示されています。そして続く第三部定理一三では,ちょうどこれと逆のことが示されています。
 「精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合,そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。
 要するにこれは,人間の精神は,身体の活動能力を減少あるいは阻害するものを排除するものを表象しようとする傾向があるという意味です。
 これらの定理Propositioは,第三部定理九によって容易に証明できます。これらの定理に示される活動能力とは,第三部定理九で精神が固執するといわれている自己の有,いい換えれば人間の身体および人間の精神の現実的本性actualis essentiaにほかならないからです。
 このとき,第三部定理一二は人間は喜びlaetitiaを希求するといっているのと同じことです。また第三部定理一三は,人間は悲しみtristitiaを忌避しようとするといっているのと同じことです。これらは第三部諸感情の定義二と三から明白でしょう。
 ここからスピノザの哲学の重要なテーゼのひとつが発生します。僕たちは僕たちに喜びをもたらすものを善bonumとみなし,悲しみをもたらすものを悪malumとみなすというテーゼです。いい換えれば,僕たちが現実的本性に則して,希求するものが善であり,忌避するものが悪であるというテーゼです。すなわち僕たちはあるものを,善であるがゆえに希求するということはありません。むしろ希求しているものを善というのです。同様に,悪であるがゆえにあるものを忌避するのではありません。忌避するものを悪というのです。
コメント
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