スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

頭文字&理解者

2014-12-12 19:10:12 | 歌・小説
 その執筆の時期を特定することは困難であったとしても、『こころ』がすべての出来事が完了した後に,私の手によって書かれたということは間違いありません。この点に着目するならば,先生の自殺後の私の先生に対する気持ちのありようを理解するために,無視するわけにはいかない部分があります。
                         
 『こころ』の冒頭で,私はなぜその人を先生というのかということの説明をしています。それは先生の本名を打ち明けることを,世の中に対して憚るからというわけではなく,私はその人を常に先生と呼んでいたから,文章にするときも先生と記すのが自然であるという主旨になっています。ここは別に何ということもありません。しかし私がこの冒頭の段落を,よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない,と締め括るとき,これは意味ありげに思えます。というのは先生は遺書で,親友のことをKという,まさに頭文字を使って記述しているからです。つまりそこには,頭文字を使った先生に対する批判精神のようなものが感じられるのです。
 私は先生の遺書を読んだ上でこのように書き出しているわけです。しかも締め括りの一文は,実際には私が先生と書く理由の説明としては不要です。わざわざ頭文字を使う気にはならないなどといわずとも,先生と記す理由は十分に説明できているからです。さらに,私は単に頭文字を使う気にならないといっているのではなく,よそよそしい頭文字というように,明らかに否定的見解と受け取れるような形容までしています。これらの事柄を総合的にみれば,私が先生の遺書の記述の仕方に批判的であるということは,否定し難いだろうと僕は理解します。
 これは,ある面からみるならば,先生の忠告というものが具現化したのだといえなくもありません。少なくとも先生が生きていたときに私が先生に抱いていた感情と,先生の死後に手記を執筆している時点で私が先生に対して抱いている感情は,同一ではないと僕は思います。違った感情で私は書いているということは,『こころ』を読解する上で,重要な要素を構成し得るのではないでしょうか。

 疑問の前提が不条理ではないということが確証できました。今度はデカルトの場合と比較してみます。
 デカルトの哲学をスピノザの哲学に翻訳すると,名目的に実在する実体は,思惟的実体物体的実体だけです。そして思惟的実体の本性は思惟の属性によって構成され,物体的実体の本性は延長の属性によって構成されます。したがって,単一の実体の本性は,単一の属性によって構成されることになります。つまりこういう場合には,ライプニッツの疑問自体が生じません。他面からいえば,そのような疑問は成立しません。僕の推測では,デカルトのように,実体の本性は単一の属性によって構成されるという考え方が,当時の思想家にとっては主流であり,第一部定理一〇備考のような考え方は,かなり特殊なものであったと思われます。
 念のためにいっておきますと,実体と属性の関係性が,デカルトとスピノザでは異なります。スピノザの哲学では,実体と属性は,同一のものを異なった観点から指示しています。いい換えれば,スピノザの哲学に名目的に思惟的実体を導入し,思惟的実体の観念があると仮定するならば,それは思惟の属性の観念と同じです。より正確にいうなら,この場合の思惟的実体の観念の観念対象ideatumと,思惟の属性のideatumは同一です。しかしデカルトの哲学はこれとは異なっていて,実体と属性は同じものではありません。僕はデカルトの哲学をスピノザの哲学に翻訳していますから,デカルトの場合にも同じであると仮定しますが,これはあくまでもその限定における仮定なのであり、デカルトの哲学の形而上学的部分の適切な理解でないということは承知しています。
 ライプニッツの疑問は,だからデカルトをはじめとする,僕の推測では当時の主流であった形而上学的概念への疑問としては無効なのであり,むしろスピノザの哲学の形而上学的概念だけに特化して成立するような疑問であることになります。そしてこのことは,ライプニッツがスピノザの哲学の実体と属性の関係性を,よく理解していたことの証明です。ある意味,ライプニッツはスピノザ哲学のよき理解者であったのだと,現在の僕は考えています。
コメント
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