スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

瑞峰立山賞争奪戦&議会派の支持層

2015-08-16 19:18:04 | 競輪
 お盆の開催になった富山記念の決勝。並びは近藤-五十嵐-松坂の南関東と脇本-南-川木-志智の近畿中部で相川と山田は単騎。
 南がスタートを取って脇本が前受け。山田,相川と続いて近藤が7番手で周回。残り3周のバックから近藤が上昇。並び掛けられても脇本はなかなか引かず,近藤が抑えたのは残り2周のホーム。このラインに山田,相川も続き脇本が6番手の一列棒状となって打鐘。脇本が捲っていこうとするのに併せて山田も出ていこうとしましたが,これは上から脇本が出ました。車間を開けて待ち受けていた五十嵐がコーナーで出ていこうとしたところで,近藤に接触してしまい落車。松坂も巻き込まれました。この影響で脇本は浮いてしまい,その内に進路を取ったのが南。行き場をなくして内から伸びたのが山田。1着入線は山田でしたが,近藤に対する内側追い抜きで失格の判定となり,繰り上がって優勝は南。山田を追って近藤の外に出した相川が1車身差で2着。逃げた近藤が4分の1車輪差の3着で大波乱の結果。
 優勝した大阪の南修二選手は記念競輪初優勝。このレースは様ざまな出来事が重なってのもので,優勝自体はちょっと論評しにくいです。展開的にいえばおそらく五十嵐が楽に優勝することができた筈で,不注意によって自身の優勝のみならず,レース全体を壊してしまったとしかいいようがありません。

 スピノザやファン・ローン議会派であったことから,議会派がどういった人びとから支持を集めていたのか,おおよその見当はつきます。
 基本的に思想の自由を確保することが必要であったグループは,王党派より議会派の傾向を有していたといえるでしょう。したがって,コレギアント派の人びとは,基本的に議会派を支持していたと考えてよいだろうと思います。また,デカルトの哲学を信奉するような知識人層も,議会派の支持勢力であったと考えるべきかと思います。というのはデカルトの哲学は,保守的な神学者,当時のオランダでいえば正統派を自認するカルヴィニストの牧師たちから激しい非難を受けていたからです。ただし,知識人層が一般に議会派であったと考えることはできないとも思います。むしろ哲学よりも神学の方を上位におくべきだと考える学者もこの時代には数多く存在したと考えるべきで,そういう知識人には議会派は支持しにくかったのではないかと思えるからです。
 もうひとつ,王党派と議会派の政策面の相違として,王党派は好戦的であったけれども,議会派は平和主義的であったというのがあります。ヨハン・デ・ウィットが1652年に実権を握った後,オランダ国家の軍縮を実行したということも,そうした政策の一環であったと考えられます。
                         
 このことから,戦争を生業とする人びと,すなわち軍人には,議会派は支持しにくかったのではないかと思うのです。『ある哲学者の人生』で,宿主のティードマンは軍人でありコレギアント派の傾向があったとされているのは,政治的な文脈でいうなら,王党派の支持勢力に属しながら,議会派を支持する傾向があったというように理解できるのではないかと思います。
 平和を望む人びと,この時代のオランダでいえば商人,とくに貿易を営んでいた商人たちは,議会派を支持しただろうと想定できます。戦争は輸出入を行う上で壊滅的な打撃を与えかねないからです。スピノザが破門される前に従事していた貿易の商人仲間に,コレギアント派の人びとが存在したというのは,このような政治的文脈で理解する限り,偶然であったとはいえないと思います。
コメント
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