スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

霧島酒造杯女流王将戦&作出原因

2014-11-18 19:23:44 | 将棋
 8日に放映された第36期女流王将戦挑戦者決定戦。対局日は9月5日。対戦成績は清水市代女流六段が14勝,上田初美女流三段が4勝。
 振駒で上田三段が先手となり,角道オープン中飛車。清水六段が左美濃に組もうとしたところ,先手が早めに▲4五歩と牽制。すぐに△4四歩と反発したため戦いになり,角交換から飛車角交換を経て,馬2枚を作られた後手が苦労する展開に。要は反発が無理筋だったということでしょう。
                         
 7筋にいた飛車が戻ったところ。長引くだけで後手の苦労は増えるので,▲7七銀と受けるのが有力でしたが,▲3六歩と突きました。とはいえ,△8六歩▲4四歩△8七歩成と進めて▲8三歩と打てますから,突破されるわけではありません。△6二飛と逃げた手に▲3五歩と伸ばし,▲3四歩を受けるために△4五歩と打つと,その歩を狙って▲3七桂。後手は△8八歩と打ちました。
                         
 このような手はあまり指されることがありません。これが間に合うような展開は稀だからです。ここで▲5七銀と上がり,△6五歩なら▲3六馬と寄ればまだ難しかったよう。しかし銀を使わずに単に▲3六馬と寄ってしまったため,△8九歩成とされたときに▲4五桂から馬を捨てる攻めを選択せざるを得ず,先手の攻めが足りなくなってしまいました。将棋ではよい局面でじっと我慢した方が効果的というケースがありますが,この将棋は先手が我慢できずに負けてしまったという感じです。
 清水六段が挑戦者に。女流王将戦は第32期以来4期ぶりの番勝負出場。第一局は15日にすでに放映されています。

 なぜスピノザの哲学の立場からデカルトの実体の定義を読解しようとすると,あやふやな部分が生じてしまうのでしょうか。僕はそこには主にふたつの要因があると考えています。
 そもそも,スピノザが定義の要件とみなすこと,すなわち事物の定義には,定義される事物の本性と発生が含まれていなければならないということに,デカルトは同意するのか否かということを問う必要があることを,僕も是認します。しかしここではこの点は考慮の外に置きます。いい換えれば,これがその理由であるとは僕は考えません。なぜなら,スピノザの要件をデカルトが認めようと認めまいと,事物の発生という場合の発生ということの意味合いに,スピノザとデカルトでは,少なくとも立場上は,看過することができないような相違が存するからです。
 前回の考察で示したように,causa efficiensを作出原因という,スピノザの立場からは広い意味で和訳した場合,作出原因として何を認めるかという点で,スピノザとデカルトは異なります。スピノザにとっては自己原因は,この広い意味での作出原因を構成します。しかしデカルトはそれを認めません。というより,デカルトは自己原因という原因を認めません。つまりデカルトのいう作出原因とは,スピノザのいう起成原因がすべてです。しかしスピノザの場合には,自己原因と起成原因の両方が作出原因に該当します。事物の作出原因とは,事物が発生する原因のことです。つまり作出原因の把握に相違があるということは,発生という概念の把握に相違があるということと同じです。なので,デカルトの哲学の事物の定義に,定義される事物の発生が含まれるのか含まれないのかを,スピノザの哲学の立場から考慮するのは,あまり意味がないことだと僕は考えます。
 自己原因を作出原因から排除することは,デカルトにとっては,自身の哲学の立ち位置を,キリスト教神学から批判されないようにするための,便宜的なものであったと僕は推測しています。ただ,推測のように便宜的ではあったとしても,デカルトがその立場を採用したのは事実です。この点が冒頭に示した理由のひとつです。
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