スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理六八&議題

2015-08-08 19:10:27 | 哲学
 ライオンの自然権がいかなる概念であるかを示したときに説明したように,一般に個物res singularisの存在が,神の属性に包容されて存在する限り,その個物には正義という概念も不正という概念も発生しません。いい換えれば個物がこの状態にある限り,その個物は正義の行動をすることはあり得ませんし,不正を犯すということもあり得ないのです。
                         
 これは認識論的に考えるなら,第四部定理六八と関係します。
 「もし人々が自由なものとして生まれたとしたら,彼らは自由である間は善悪の概念を形成しなかったであろう」。
 ここでスピノザがいっている自由は能動的自由のことです。すなわち自由なものとして産まれるという仮定は,精神が常に十全な原因であるという仮定と同じです。そして原因の十全性と観念の十全性の間の不可分な関係から,精神を構成する観念がすべて十全な観念であると仮定しているのとも同じです。
 第四部定理八により,悪の認識は悲しみの認識です。第三部定理五九から,悲しみは十全な観念を原因としては発生しません。よってこの仮定では精神は悪を認識しません。善は悪の対概念ですから,悪が認識されなければ善も認識されません。ところで正義は善であり,不正が悪でなければならないのはそれ自体で明白です。つまりこの場合には正義も不正も認識されないし,行われないことになります。
 個物の観念が思惟の属性に包容されて存在する場合,いい換えれば永遠から永遠にわたって存在する場合,この個物の観念は,その個物の観念という様態的変状様態化した神の思惟の属性にほかなりません。したがって第二部定理七系の意味により十全です。だからこの観念が善悪を表象することはありません。つまり正義も不正も認識されないことになるのです。

 『スピノザ往復書簡集』書簡一の主要な内容は,レインスブルフで話し合った内容について,詳しく説明してほしいということです。そこでオルデンブルクはとくにふたつの質問をしています。ひとつは延長の属性と思惟の属性の真の相違は何かというものです。もうひとつは,デカルトとベーコンの哲学のうちにある欠陥とは何であり,それはどのように是正されるべきかというものです。
 このことからすると,オルデンブルクとスピノザは,哲学について話をしたと思えます。だとすると,オルデンブルクが何らかの形で聞き及んだに違いないスピノザの名声というのは,哲学に関係したものであったと解するのが妥当でしょう。しかしここでは,レーウェンフックが「天文学者」が描かれる1668年以前にフェルメールにスピノザを紹介するための名声は,自然科学に関係するもの,とりわけレンズの製作に関係するものである必要があります。というのは,たとえば哲学に関係した名声をスピノザが有していたというだけであったなら,レーウェンフックがスピノザとフェルメールを仲介しなければならない理由が失してしまうからです。フェルメールもレーウェンフックも同じ程度の蓋然性で知り得るようなスピノザの名声では,マルタンの推理を十全に成立させることにはならないのです。
 ただ,オルデンブルクとスピノザの会談で,哲学だけが特化して議題になったわけでないことは,僕には確かなことと思われます。なぜなら書簡一の最後の部分でオルデンブルクは,手紙を出す時点でのロンドンの情勢に触れ,ロバート・ボイルが書いた科学上の論文が印刷されていることをスピノザに通知しているからです。文通自体も情報収集を目的としていたと僕は思いますから,その手段として,いい換えればギヴアンドテイクの関係を構築するために,オルデンブルクの側からも何かを教える必要があったのでしょう。でも,このことを通知したということは,スピノザに自然科学に対する理解と関心があることを,オルデンブルクが確実に知っていたからに違いありません。つまり自然科学についても,会談のときの議題になっていたと思います。
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