goo blog サービス終了のお知らせ 

スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

JBC協会賞農林水産大臣賞典スポーツニッポン杯ブリーダーズゴールドカップ&スピノザとホイヘンス

2015-08-14 19:05:22 | 地方競馬
 昨晩の第27回ブリーダーズゴールドカップ。アクティビューティが左肩の跛行で出走取消になり14頭。
 逃げを宣言していたサンバビーンがハナへ。キャニオンバレーの逃げもあるかと思っていましたが,枠が外だったこともあってかあっさり2番手に控えました。ステファニーランとホワイトフーガが並んで追走。サンビスタがその後ろでこれをマークするようにアムールブリエ。ミドルペースであったと思います。
 ステファニーランは向正面で苦しくなり,サンビスタが4番手,アムールブリエが5番手に。サンバビーンも3コーナーを回ると後退し,キャニオンバレー,ホワイトフーガ,サンビスタの3頭が横並びで直線に。この争いから抜け出したのがサンビスタで,追ってきたのがアムールブリエ。最後は2頭の競り合いになり,ゴール前で出たアムールブリエが優勝。サンビスタがアタマ差で2着。5馬身差の3着にホワイトフーガ。
 優勝したアムールブリエは重賞初制覇となったエンプレス杯以来の実戦で重賞2勝目。前走で前の女王をぶっちぎり,ここで現女王も降したのは価値あるところ。斤量差があってこの着差なので,はっきりトップに立ったとはいいきれませんが,間違いなくその座に近付いているといえるでしょう。母はヘヴンリーロマンス。祖母はファーストアクト。Amour Brillerはフランス語で愛の輝き。
 騎乗した浜中俊騎手と管理している松永幹夫調教師はブリーダーズゴールドカップ初勝利。

 『ある哲学者の人生』では,オルデンブルクHeinrich Ordenburgの紹介でスピノザとホイヘンスが知り合ったかのように記述されています。僕の考えではそれはあり得ません。ナドラー自身がこの部分に注釈を与えているように,『スピノザ往復書簡集』書簡二十六のテクストはそうした読解を許さないからです。顕微鏡と望遠鏡について記述したこの書簡においてスピノザがホイヘンスに言及するとき,スピノザはホイヘンスとオルデンブルクが知り合いであることを,ホイヘンスから聞かされたと読解する必要があるからです。
                         
 1661年,レインスブルフRijnsburgにスピノザを訪ねた後,オルデンブルクはデン・ハーグに向いホイヘンスとも会いました。スピノザのことはオランダに着いてから知ったのかもしれませんが,ホイヘンスのことはイギリスを旅立つ前から知っていた筈です。オルデンブルクはスピノザと会ったときには,その後でホイヘンスに会いに行くということは伝えなかったと解しておくべきだと思います。
 ただし,ホイヘンスに会ったときに,その前にスピノザに会ったと伝えた可能性は僕は排除しません。あるいは,『人と思想 スピノザ』では,イギリスに行ったホイヘンスがオルデンブルクを通訳に議論していたロバート・ボイルRobert Boyleからスピノザのことを教えられ,帰国後に訪ねて知り合ったことになっています。そうした可能性も僕は排除しません。つまりオルデンブルクは直接的な仲介者ではなくても,間接的な意味において仲介者であったという余地は残ると思います。
 一方,ナドラーは,1661年の終りにはスピノザはレンズの製作,そして顕微鏡や望遠鏡の製作でも有名であったと断定しているのですから,別にオルデンブルクが仲介しなくても,ホイヘンスとスピノザは知り合えた筈です。たとえばその噂をかねてから聞き及んでいたホイヘンスが,デン・ハーグに近いフォールブルフVoorburgにスピノザが住むようになったことを知り,会いに行ったという想定も可能です。逆にスピノザの方からすでに著名な科学者であったホイヘンスを訪ねた可能性もあるでしょう。何らかの仕方で知り合い,別荘への長期滞在で関係が深まったというのが僕の見解です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする