スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ナルシスト&理神論者

2015-08-30 18:57:16 | NOAH
 『馬場伝説』のインタビューで馬場が仮面貴族を低く評価するとき,マスカラスは強いレスラーではなかったことをあげているだけで,それ以外のことは口にしていません。しかしマスカラスはリング上でもリング外でもほかのレスラーや関係者を困らせるところがあったようです。順にいくつか紹介していきますが,総合するとマスカラスは極度のナルシストであったと評価してよいように思います。
                         
 鶴見五郎は全日本の中堅レスラーから,マスカラスは自分がいい恰好をするだけで,こちらには何もさせないから戦いたくないという話をされたことがあるそうです。中堅クラスがマスカラスと戦うとなれば負け役です。そのこと自体は納得できたでしょうが,負けるにしても何らかの見せ場を作りたいと思うのはレスラーとして当然の感情。マスカラスはそういう相手の感情を無視して戦っていたようです。
 もっとも鶴見は,そういう相手には素直にいい恰好をさせてやればよいと考えていたようです。先に相手の攻撃を受けておけば,こちらが反撃に転じたときには,マスカラスでも受けざるを得ないからだそうです。鶴見はそういう戦い方を実践し,マスカラスもそれを気に入って,対戦相手として指名されるようになったとしています。もちろん鶴見も負け役ですが,そうした試合において馬場が高く評価したのは,勝ったマスカラスより負けた鶴見であったであろうことは想像に難くありません。鶴見が馬場の配慮を受けられたのには,そういった要素もあったと判断してよいものと思います。
 鶴見はヒールスタイルにプライドをもっていました。その点でもマスカラスにとってはやりやすい選手だったのでしょう。マスカラスと鶴見が戦う場合には,ベビーフェイスとヒールの関係が明瞭判然としますが,全日本プロレス所属のレスラーと戦う場合には,そこまではっきりと色分けすることはできないからです。
 ナルシストであったマスカラスにとって,全日本で最も手が合う相手は鶴見五郎だった。意外とも感じますが,それが事実であった可能性も高いだろうと思います。

 フェルトホイゼンがスピノザを理神論者と規定するとき,理神論者とは,理性に依拠して神を認識する者のことです。この意味において,スピノザが理神論者であるというのは,正しい規定だと僕は考えます。
 フェルトホイゼンの意見では,もし神が理性によって認識されるなら,聖書に記述されている神と違った神が認識されることになります。したがって理神論者はキリスト教を信仰することができません。だから聖書の教えを忠実に実行することも不可能になります。よって理神論者は放埓な生活を送る無神論者に堕するのです。
 スピノザはこれと真逆のことをいっていることになります。理神論者は理性によって神を認識するがゆえに,むしろ聖書の教えに服従する者と同じ意味で敬虔であることになるからです。つまり敬虔の方をキーワードにすれば,フェルトホイゼンは聖書に従わなければ人は敬虔であり得ないと判断しているのに対し,スピノザは聖書に従わずとも理性に従うことで敬虔であり得ると主張しています。無神論者の方をキーワードにしたら,フェルトホイゼンは聖書に従わない者は理神論者であろうとなかろうと無神論者ですが,スピノザによれば,理性に従う者は必然的に無神論者ではないのです。
 理神論者と無神論者を同一視するフェルトホイゼンの見解は,たぶん当時の一般的な見解であったと思われます。というのは,カルヴァン派の牧師は,デカルトを排斥するとき,デカルトは理神論者であると規定していたふしが窺えるからです。つまりデカルト主義は無神論そのもの,あるいはその一歩手前であるとみなされていたと思われます。
 『神学・政治論』がフェルトホイゼンのような,カルヴィニストに比べればよほど自由思想家であるデカルト主義者にも受け入れられなかった理由のひとつに,この点をあげることができるかもしれません。理神論者が無神論者であるどころか敬虔であるとするスピノザの規定は,受け入れ難いもの,もっといえば理解不能なものであった可能性があるからです。
 カルヴィニストとフェルトホイゼンとスピノザの差異は,デカルト哲学の理解の差異にあったと僕は考えます。
コメント
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